近代俳句の革新者・山口誓子と冬の午後の二条城
近代俳句史を語る上で山口誓子は欠くことのできない人物です。昭和初期に水原秋桜子、高野素十、阿波野青畝とともに「ホトトギスの四S」と称され、秋桜子と並んで新興俳句運動に指導的な役割を果たした俳人です。
誓子は1901年に現在の京都市左京区に生まれました。家庭の事情により外祖父(母方の祖父)の下で育ち、小学生の時に京都から東京へ転居。1912年には、樺太日日新聞社長となった外祖父に迎えられ樺太(現在のサハリン)に渡ります。大泊(現在のコルサコフ)にあった中学校に入学。この頃から俳句を学び始めました。
1917年に京都に帰郷し、1919年に第三高等学校文科乙類に入学。京大三高俳句会に出席し、やがて句誌「ホトトギス」へ投句を始めます。俳号とした誓子は、本名の新比古に由来し、「ちかひこ」から「ちかいこ」を連想、漢字の「誓子」になったといわれています。
東京帝国大学法学部に進んだ誓子は東大俳句会に参加。高浜虚子に直接指導を受けるようになり、またたくまに「ホトトギス」の新鋭として頭角を現します。ところが、不運にも肺尖カタルを患い、休学や静養を余儀なくされました。この胸部の疾患は誓子を苦しめることになります。
1926年に大学卒業後、住友合資会社に入社。そのかたわら「ホトトギス」課題選者になり、会社員と俳人の二足の草鞋を履く生活を続けます。しかし、急性肺炎で重態になるなど体調不良が重なり、休職を繰り返していました。
誓子、二条城二の丸御殿を訪ねる
そんな時代のある冬の午後。体調の良かった誓子は二条城の二の丸御殿を訪れました。
夜半に降った雪が 砂上に残っていた。城の墻塀はその雪よりも白かった。
時が来たので、内の御門を入って、靴が一足脱いである高い階のもとに近づき、私も靴を脱いで上がった。
上がるとすぐの左手が御車寄と聞き、大きな障子をころころと開くと、扉は鎖されていたが、欄間の透彫から午後の日がこぼれていた。それは色彩の古びた黒い花鳥の彫ものであった。
遠侍間の縁は、ところどころに雨戸を引きのこし、障子が白くひかっていた。障子を開けると庭に立つ竹幹に高く寒雲がかかっていた。
殿上の冷えはきびしかった。式台間*の杉戸には毫毛*の渦巻いた獅子が四方をにらんでいた。竹幹を画いたところに金色の引手がついていた。
覗き見る襖絵の、松の樹の空には山の尾根が奥深くいくつもいくつも重なって見えた。眼に残ったもの、同じ向きに並んでいる真鶴三羽。足の短い山羊。
殿廊には、写真機が三本の脚を広げて立ち、その間の内部へレンズの眼を向けていたが、人は誰もいなかった。
二条城は、1603(慶長8)年に、徳川家康が天皇の居住する京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所とするために築城したものです。国宝に指定されている二の丸御殿、重要文化財・本丸御殿、特別名勝の庭園など見どころは多く、国内外から多くの観光客の集まる京都を代表する名所です。
城内には往古は本丸に高さ約40メートルの五層の天守閣が高くそびえていましたが、1750年の落雷により焼失。今は天守閣跡が残るのみ。また本丸にあった御殿も1788年にあった大火で焼失。現在の本丸御殿は1893年に桂宮御殿を移築したものです。したがって、築城当初から残り、桃山文化の面影を今に伝える建物は二の丸御殿しかありません。
二の丸御殿は江戸時代の寛永年間、3代将軍徳川家光によって、天皇行幸のために大規模な改修が行なわれました。江戸幕府の威光を象徴するように、狩野探幽*一門の手になる約3600面の障壁画や多彩な欄間彫刻、飾金具によって飾られ、将軍の御殿にふさわしい豪華絢爛な空間となっています。これだけの御殿建築は他の城郭には現存せず、唯一の存在として国宝に指定されています。
大広間は将軍の表対面所であった。慶喜公もまたこの上段の間に正座して大政奉還を宣言した。
金地の襖に極彩をもってした松の図は、三つの間を連通して、かつて諸大名を威圧したように、私を威圧した。画中の孔雀は松の上にもいたが、降りて水辺にも餌を啄んでいた。(大広間であったか、長押*の上に画かれた重畳たる浪の絵は、それと寸分違わぬ横山大観の浪の絵を私に思い出さした)
大広間は二の丸御殿にある施設のうちでもっとも格式が高く、将軍と大名や公家衆との公式の対面に用いられた儀礼的空間です。一の間(上段の間)と二の間(下段の間)から構成され、狩野探幽筆の障壁画で飾られています。
この部屋は1867年10月13日、15代将軍徳川慶喜による大政奉還が表明された場所としても知られています。実際はドラマや絵画などで描かれたような、将軍が一の間から宣言することはなかったようですが、集まった在京諸藩の重臣たちに老中が大政の奉還を伝達した歴史的な舞台です。
西に向いた障子を開けて縁に出て、おりから風花のみだるる林泉に対した。石庭は海の断崖に似ていた。池の水は浅く、その底に枯木の影がしずまっていた。ときどき水面をこまかい漣漪が走った。
池のほとりには藁を被った棕梠がつくつくと立ち並んでいた。右手の黒書院にも幾枚かの雨戸が引きのこしてあった。風花は絶えずみだれていた。私は悴んだ手で障子を閉めた。
石庭と北風と障子の外に戯る
風花の林泉に障子をあけてしむ
何も画かぬ金の襖の廊下を通った。私の影がその襖にうつった。
誓子が大広間の縁から見た庭が、国の特別名勝・二の丸庭園です。明治維新後、皇室の別邸「二条離宮」となり大改修がなされましたが、小堀遠州の作庭とも伝えられる力強い石組みと複雑な形状の池泉が印象的な庭です。
二条城を記したこの随筆は1941年5月に執筆されました。誓子はまだ39歳の若さでしたが、すでに『凍港』『黄旗』『炎昼』の三冊の句集を刊行。薫陶を受けた高浜虚子の門下を離れ、水原秋桜子とともに新興俳句運動のリーダーとして活発な創作活動を行なっていた時期です。
誓子の俳句は都会的な人工素材を使った句や連作俳句が特徴で、方法としては花鳥諷詠の句風を批判し、硬質的な叙情世界を開拓した点に新しさがありました。「ピストルがプールの硬き面にひびき」(1936年作)や「夏の河赤き鉄鎖のはし浸る」(1937年作)などに、その個性がよく表れています。
黒書院は将軍の裏対面所であったから、絵襖は威圧の芸術ではなかった。籬菊図と桜花図が眼にのこった。
つづく白書院は将軍の居間であった。過ぎし日部屋部屋の襖絵は雄大であり華麗であったが、次第に色彩を失い、この一の間の襖絵は寂びた山水画であった。居常と絵画とのいみじき相関関係を私はそこに見た。(略)
それから私は足裏に鳴る板を擽ったがりながら、いずこの間の裏になるのか、松に鷹の襖絵のある間に出た。
二条城の廊下には、歩くと鳥の鳴き声のような音のする「鶯張り」が施されています。誓子もこの音を聞きながら、白書院からさらに廊下を進んで、やがて「松に鷹の襖絵のある間」に出ました。この部屋こそ、二の丸御殿の障壁画の中で、もっとも有名な「松鷹図」のある大広間四の間です。
うす暗かったが、その襖絵は東を向いて四枚、左に折れて北向きに二枚。私たちが原色図版に見るあの眼光の鋭い闘志に満ちた鷹が横枝にとまっている図は向かって右の二枚で、それにつづく二枚には鷹は岩の上にいて、松上の鷹に呼応していた。さらに左に折れた二枚の鷹は幹の上に身を逆しまにしていた。
これら六枚の襖絵を一望に置かなければ、この松に鷹図の鑑賞は完全ではない。
四の間は、本来は将軍上洛の際に武器を収めた部屋とされています。武器に関連した場所のせいか、巨大な松に武人の象徴といわれる猛禽の鷹や鷲が力強く描かれ、他の部屋の障壁画とは一線を画した印象があります。
二条城の障壁画は前述のように、江戸時代の寛永年間の改修工事の際、狩野探幽一門によって制作されました。四の間の「松鷹図」も長らく探幽の筆になると思われていましたが、近年の調査によって、探幽の祖父・永徳の高弟である狩野山楽の筆であるという説が有力になっています。二の丸御殿で見逃すことのできない逸品と言えるでしょう。
再び表の大広間に出た私は階を下りて林泉に立った。大広間の西庇と黒書院の南庇とが私に向かって傾れてきた。
樹々は低く、雲は樹のもと、石のほとりに消えのこっていた。樹の間に入れば青苔の上にも雪がのこり、私の咳はその雪にこんこんとひびいた。
1941年9月、病状の好転しない誓子は三重県の伊勢湾沿いに居を移し、転地療養生活を送ることになります。翌年には住友合資会社も退社し、以後は療養と文筆活動に専念する生活に入りました。
誓子は戦後の1948年に主宰誌「天狼」を創刊。多くの俳友・門下を束ね、俳句の根源を厳しく追求する運動を起こして、戦後の俳句復活に大いに貢献しました。芸術院賞や文化功労者にも顕彰され、近代俳句の革新者として俳壇をリードし続けましたが、1994年3月に持病の呼吸器疾患による呼吸不全で亡くなりました。92年の生涯でした。
出典:山口誓子『海の庭』「二條城の記」
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