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杉田俊介/宇多田ヒカル論 世界の無限と交わる歌

宇多田ヒカルと聞くと、先日最終話を迎え話題となった、吉高由里子主演ドラマ、『最愛』の主題歌「君に夢中」が、脳内に再生される方が今はまだ多いだろうか。

あるいは、2021年3月に公開された『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』主題歌「One Last Kiss」がいまだにこびりついて離れないという方もいるかもしれない。

宇多田ヒカルといえばエヴァ!と浮かぶ方も大勢いるだろう。

かくいう私も、ドラマ『最愛』も、アニメ『エヴァンゲリオン』シリーズも、夢中で追いかけていた1人だ。

どちらの作品も、物語終盤宇多田の歌声が流れ始めると一気に切なさが加速する。
感情が込み上げ、なだれを起こす。
自分の深部奥底にある小部屋みたいなところから言葉にできない何か大きな塊が押し寄せてくる。
やがて決壊し一筋の涙が頬を伝う。

とてもシンプルな言い方で表すと、私は宇多田ヒカルが好きだ。

でも、この宇多田に対する好きという感情は、たとえば「カレーライスが好き」とか、「犬よりも猫が好き」とか、そういうのじゃない。
そんな、のほほんとした穏やかな気持ちではなく、もっと切実なやつだ。

宇多田の曲を聴くと心が波打つ。胸がざわめく。

それは、純文学に対して抱く気持ちにも似ている。

切なさとか憤りとか、やるせなさとか、言葉にできない混沌とした自身の中の渦みたいな感情の投影とか。
そんななんやかんやが混ざり合ってぐちゃぐちゃになって気がついたら涙を流している。

ああ、そうか。
救われている、といった表現が適切か。

私は宇多田に救済されているのかもしれない。

そんな切迫した好きという気持ち。だ。

彼女の曲にはどこか、諦観や刹那的な感覚、無常観が漂っている。

なぜだろう。
彼女、宇多田ヒカル(宇多田光)という人間は一体どのような人間なのだろう。

私の心はなぜこうも毎回彼女の歌声に根こそぎ持っていかれるのだろう。

今まではあまり深く考えてはこなかったこれらの疑問について本書は答えを探るきっかけを与えてくれた。



約20年前、1998年に宇多田ヒカルはデビューした。
当時90年代、J-POP全盛期といっても過言ではない黄金期。

衝撃的かつ鮮烈なデビューだった。
当時はまだ聴き慣れないR&B。
バイリンガルならではのリリック。
宇多田はわずか15歳の少女だった。

学校中が沸いていた。
今思い出しても当時のざわめきが耳をよぎる。

デビューわずか1年後である99年に発表した1stアルバム『First Love』が765万枚以上のセールスを記録し日本歴代1位となり邦楽史上最高セールスという金字塔を打ち立てた。

浜崎あゆみ、安室奈美恵らと並び、平成の歌姫ブームの幕開けだ。


宇多田について、もちろんデビュー当初からその存在は知っていた。

でも別に。
そこまで。

まさかデビューから約20年経った今こんなに宇多田の楽曲に心揺さぶられているなんて当時の私に耳打ちしたらさぞかし驚くだろう。

それくらい興味がなかった。

では、いつからか。

いつから私は宇多田ヒカル(宇多田光)という存在に躓(つまず)いてしまったのだろう。

杉田俊介/宇多田ヒカル論 世界の無限と交わる歌

本書は、各アルバム毎

1st.1999年 First Love
2nd.2001年 Distance
3rd.2002年 DEEP RIVER
4th.2006年 ULTRA BLUE
5th.2008年 HEART STATION
6th.2016年 Fantôme

と、宇多田ヒカル史においての時代を区切り、

収められた各楽曲の詩を深掘りし宇多田ヒカル(宇多田光)という1人の人間に迫っている。

そこには1人の人間が、もがき嘆き成長する姿、その軌跡が描かれている。

ああ、そうか、この人も1人の人間で、時を同じくして似たことを考え自分なりの答えを模索しながら今日まで生きながらえて来たのかと、戦友のような奇妙な連帯感すら抱いた。

 恋愛とは、他者との間の心理的な距離を消して、愛する人と一つになることだ、というロマンティックな思い込みは多くの人の中にあるだろう。人間が各々の魂の形にふさわしい孤独を抱えた生き物であるかぎり、それをばかにすることはできないし、宇多田の中にすらそうしたロマンティックな欲望がまったくないとは言えない。
 しかし、その時にこそ彼女は、他者との間の埋めがたい隔たりと距離の感覚をさらに研ぎ澄ましていくのだ。愛するとは、独りでいる時よりも、より深く峻烈に一人になっていくことなのだ、と。
 私たちは誰もが生まれながらに孤独である。
 
 誰にも愛されず、誰をも十分に愛せなかった時よりも、さらに鮮烈で絶望的な孤立を。
杉田俊介/宇多田ヒカル論  世界の無限と交わる歌

以前書いた記事、川上未映子/すべて真夜中の恋人たち や、古井由吉/杳子 でも触れたが、私は他者との距離、境界について描かれた作品を偏愛している。

宇多田の作品も、この他者との距離について、また、人間と人間は1つに溶け合うことは出来ないのだ境界が存在するのだという事実に直面した姿、またその事実を知っているからこそ、やがてやって来るであろう喪失を案ずる姿を描いているものが多いと感じた。

誰かを愛するという事は即ち、人は孤独であるという事実を再認識する事なのだ。
深く愛すれば愛するほどその孤独感は絶望的だ。

初めてあなたを見た
あの日動き出した歯車
止められない喪失の予感
寂しくないふりしてた
まあ、そんなのお互い様か
誰かを求めることは
即ち傷つくことだった
宇多田ヒカル/One Last Kiss

だが、さらに突き詰めて考えたその先に行き着くのは、その他者との距離こそ、その境界の輪郭こそが尊いのだというところである。

愛すべき線なのだ。
波と大地の境界線である海岸線が美しいように。

 何かが彼女の中で突き抜け、覚醒した。そこにはたとえば、宗教的と言っていいモチーフがあり、日本的な自然の循環や、ある種の無常観のようなものが流れ込んできている。
 宇多田は「音楽は慈悲」であり、「歌は祈り、願い、誓い」とも書いている。
自分と他者の間のどうにもならない、隔絶や遠離の中に、真実の愛が閃き、神的なものの兆候や気配が宿っていく。
愛すれば愛するほど、その人は無限に遠ざかっていく。距離の痛みが強まっていく。しかし、その距離の痛みの中に愛が宿るならば—。
杉田俊介/宇多田ヒカル論  世界の無限と交わる歌

そこからやがて神的な視点、仏的な視点、宗教的な風景に辿り着く。無常感へと繋がっていく。

この事実にもまた頷きが止まらなかった。

だがしかし「人間活動」に入る前の宇多田には危うさがあった。

HEART STATIONやTravelingにある浮遊感には狂気すら感じられた。

Travelingもっと
Traveling揺らせ
壊したくなる衝動
Travelingもっと
Traveling飛ばせ
止まるのが怖いちょっと
宇多田ヒカル/Traveling

「人間活動」宣言 を経ての再臨

宇多田は、「人間活動」宣言をし、一時「アーティスト活動」から離れた。

約6年間。

この間に自身の母親の死や、再婚、出産と、人生に起こりうる決して小さくない出来事を経て、

2016年に復帰する。

それらの経験がどこまで彼女の楽曲に影響を及ぼしたかは憶測でしかないが、

復帰後の楽曲は、たおやかで、どこまでも優しい。

死を内包しているかのようにも見える。

両手でも抱えきれない
眩い風景の数々をありがとう
花束を君に贈ろう愛しい愛しい人
どんなに言葉並べても
君を讃えるには足りないから
今日は贈ろう涙色の花束を君に
宇多田ヒカル/花束を君に
もし今の私を見れたなら
どう思うでしょう
あなた無しで生きてる私を
どんなに怖くたって目を逸らさないよ
全ての終わりに愛があるなら
宇多田ヒカル/桜流し

「人間活動」宣言前の危うさみたいなものは寝静まっている。

人は皆生きてるんじゃなく生かされてる目に見えるものだけを信じてはいけないよ
どんなことをして誰といてもこの身はあなたと共にある
宇多田ヒカル/道

この歌詞は仏教に通じるものがある。
万物は生かされていて流転する。
そこら中その気配で満ちている。
1人だけれど独りではない。

・一切皆苦
 (人生は思い通りにならない)
・諸行無常
 (すべてはうつり変わるもの)
・諸法無我
 (すべては繋がりの中で変化している)

仏教はくくりで言ったら"宗教"だけれども、私は"生き方"や"在り方"だと思う。

「lonely」ではあるけれど、少しも「alone」ではない。
切なくも淡く明るい、充実した孤独な気分に満たされていて、心をかきみだすような孤立の痛みは少しもない。
杉田俊介/宇多田ヒカル論  世界の無限と交わる歌

今ある関係や、所有物に執着する必要もないのだ、本当は。
万物は流転する。
たまたま、縁があって、
自分の手元に、今、
たまたま、あるだけなのだ。

この人だけが特別、なんて事はない。
錯覚に過ぎない。

全ての他者に可能性はある。

 すべての他者たちが、かつて愛し、今や遠ざかった「その人」になり、あるいは未来に出会うかもしれない運命の子どもになり、唯一無二の「その人」と等価になっていくとしたら。
 薄曇りの「空」のイメージ。そこから優しく静かに降り続ける「雨」のイメージ。「水」はおそらくこの世界中の「海」と「空」を永遠的に循環し続けていくのだろう。
杉田俊介/宇多田ヒカル論  世界の無限と交わる歌

孤独を怖がる必要はない。
さらに、その先へ。

"世界の無限と交わる"

それは何も特別なことでは、きっとない。


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