山崎ナオコーラ/人のセックスを笑うな
ユリ、こと、サユリは結婚している。
猪熊さんという52歳の夫がいる。
ユリとオレ、こと、磯貝くん(みるめくん)は俗に言う不倫関係だ。
2008年に井口奈己監督で映画化され、永作博美がユリ役を演じた。
このユリが可愛くて可愛いくて夢中になり何度も繰り返し観た作品だ。
小説よりも先に映像でこの作品に出会った。
当時、『青い春』『百万円と苦虫女』と並んでとても好きだった。
だがしかし、小説を読んで反省した。
私はこの作品の持つ魅力を本当の意味では理解していなかったのだ。
私自身が当時は若く経験値がなかったということも理由としては大きいだろう。
当時は、ユリが何を考えているのか全くわからなかった。
例えば、磯貝くんが考える、
こちらの独白には共感出来ても、
ユリの、
こちらの台詞は理解が出来なかった。
でも、今なら理解出来る。
この台詞は、夫婦という関係について、
結婚についての真である。
一方、19歳の磯貝くん(みるめくん)は、
とあるように、結婚の何たるかを知る由もなければ考える素ぶりすらないのだ。
そして、ここで、火についての描写が出てくる。この火についての喩えは物語の終盤でも登場するので留意したい。
そんな磯貝くんに、ひょんなことから、ユリとその夫である猪熊さんと、食事をする機会が訪れる。
夫の帰りが遅いから、とユリに誘われ家に遊びに行き、いつの間にか眠ってしまった。
2人とも眠っている間に夫である猪熊さんは仕事が早く終わり帰宅する。
普通なら修羅場をむかえてもおかしくない現場である。
だがしかし、猪熊さんはスーパーに買い出しに出かけるのだ。
妻と、その彼氏に食事を用意する為に。
食事の支度をしながら、目を覚ました彼氏に、ゆったりとほほ笑むのだ。かすかに悲しそうに。
妻の男であると理解した上で。
当時は、この描写も理解出来なかった。
ヘンテコな夫婦だと、可笑しな人たちだと、磯貝くんと同じような感想を抱いた。
が、しかし、今読んだら、たまらなく胸が苦しいのだ。
涙が止まらない。
夫婦っていう関係は本当に不思議な関係だと思う。
他人同士が家族になるのだ。
磯貝くんがユリに抱いている、
"恋とも愛ともつかぬいとしさ"とは
また違う形だけれども、
"恋とも愛ともつかぬいとしさ"が
ユリと猪熊さんの間にもあるのだろう。
愛するっていうのは赦すってことなんだと思う。
良くも悪くも赦してしまうことなんだと思う。
"愛しい"っていう字は"かなしい"とも読む。
これってすごくよく出来ていると思う。
ユリと猪熊さんに会った夜、磯貝くんは夢を見る。ある老夫婦の夢だ。
結婚について考えたこともない磯貝くんだが、その夢に心臓が波打ちなんとも言えない感動に包まれて目を覚ますのだ。
そしてこの後、ユリと磯貝くんの関係は終わりを迎える。
それぞれに愛のかたちはあって、みんなそれぞれ、悩んだりわからなくなったりしながらも、真剣に傷ついて真剣に考えている。
ここでいうセックスとは、愛の営み(それは行為だけではなく心を通わせることも含めての)を指すのではないだろうか。
そして終盤、磯貝くん(みるめくん)は考える、
と。
そして、物語はラストを迎える。
恐らくだが、最初この2つの文章は同じページにはなかった。
(私の当時の読書ノートにはそう記されている)
私は最初ハードカバーの単行本版で読み、後から文庫版を買いなおした。
すると、文庫版ではラスト2行に、この2つの文章がまとめられていた。
よりストレートにメッセージとして伝わるかたちとなっていた。
そう、この2行、これら2つが揃って完成なんだと、当時私は解釈していた。
"会えなければ終わるなんて、そんなものじゃない"のはユリとの関係のことではない。
"花火の火は気まぐれに色を変えながら、違う花火に移り続けていく"この火のことを指しているのではないだろうか。
では、この火とは何か。
先程、物語中盤においての留意点を思い出そう。
と、あの時に磯貝くんは言っていた。
いつかは消えるものなのだと、言い切っていた。
それに対して、ラスト
と結ぶのだ。
この火は、誰かと出会うことで生まれるパッションを指すのではないだろうか。
誰かとの出会いは奇跡に近く、そこから派生する感情は人生をも左右する可能性だって秘めている。
たとえ会わなくなったとしても、そこで灯された火は消える事なく、また違う誰かと出会い、別れを繰り返し、リレーを続けていくのではないだろうか。
だからユリは言うのではないか、
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