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山崎ナオコーラ/人のセックスを笑うな

19歳のオレと39歳のユリ。
恋とも愛ともつかぬいとしさが、オレを駆り立てた......
美術専門学校の講師・ユリと過ごした日々を、みずみずしく描く、せつなさ100%の恋愛小説。
「思わず嫉妬したくなる程の才能」など、選考委員に絶賛された第41回文藝賞受賞作/芥川賞候補作。
山崎ナオコーラ/人のセックスを笑うな

ユリ、こと、サユリは結婚している。
猪熊さんという52歳の夫がいる。

ユリとオレ、こと、磯貝くん(みるめくん)は俗に言う不倫関係だ。

2008年に井口奈己監督で映画化され、永作博美がユリ役を演じた。

このユリが可愛くて可愛いくて夢中になり何度も繰り返し観た作品だ。

小説よりも先に映像でこの作品に出会った。

当時、『青い春』『百万円と苦虫女』と並んでとても好きだった。

だがしかし、小説を読んで反省した。

私はこの作品の持つ魅力を本当の意味では理解していなかったのだ。

私自身が当時は若く経験値がなかったということも理由としては大きいだろう。

当時は、ユリが何を考えているのか全くわからなかった。

例えば、磯貝くんが考える、

人間関係は常に一対一だ。ユリとそのダンナの関係が一対一なら、オレとユリの関係も一対一。ダンナとの関係がどうであれ、オレとユリの関係は素晴らしいものだ。それでいいじゃないか。

こちらの独白には共感出来ても、

ユリの、

「磯貝くんのこと大好きなんだけど、猪熊さんも大事な人なんだ」
「相棒......うーん、どうだろう。『今まで、本当にありがとう。困っているときは飛んで行っていつでも助けるよ』と思ってる。もし後々、結婚解消ということになったとしても、大事な人であることには変わらないと思うな。出会って本当に良かった人だもの。もちろん、磯貝くんと出会ったのも、人生の宝物だ。出会って良かったと思う出会いばかりだよ」

こちらの台詞は理解が出来なかった。

でも、今なら理解出来る。
この台詞は、夫婦という関係について、
結婚についての真である。


一方、19歳の磯貝くん(みるめくん)は、

就職のことも考えていないオレは、結婚のことなど考えるはずもなく、ユリとずっと一緒にいたいと考えても、それが結婚に結びつくことがなかった。

とあるように、結婚の何たるかを知る由もなければ考える素ぶりすらないのだ。

そして、ここで、火についての描写が出てくる。この火についての喩えは物語の終盤でも登場するので留意したい。

 燃えている火はいつかは消えるものだ。それゆえに、燃やさずに静かに仲良くはいられないものか、と願う。
 しかし、心臓が燃えていないなら、生きていても仕方ない。
 恋だとも、愛だとも、名前の付かない、ユリへの愛しさがオレを駆り立てた。訳もわからず情熱的だった。

そんな磯貝くんに、ひょんなことから、ユリとその夫である猪熊さんと、食事をする機会が訪れる。

夫の帰りが遅いから、とユリに誘われ家に遊びに行き、いつの間にか眠ってしまった。

2人とも眠っている間に夫である猪熊さんは仕事が早く終わり帰宅する。

普通なら修羅場をむかえてもおかしくない現場である。

だがしかし、猪熊さんはスーパーに買い出しに出かけるのだ。

妻と、その彼氏に食事を用意する為に。

食事の支度をしながら、目を覚ました彼氏に、ゆったりとほほ笑むのだ。かすかに悲しそうに。

妻の男であると理解した上で。

当時は、この描写も理解出来なかった。

ヘンテコな夫婦だと、可笑しな人たちだと、磯貝くんと同じような感想を抱いた。

が、しかし、今読んだら、たまらなく胸が苦しいのだ。
涙が止まらない。

夫婦っていう関係は本当に不思議な関係だと思う。
他人同士が家族になるのだ。

磯貝くんがユリに抱いている、
"恋とも愛ともつかぬいとしさ"とは
また違う形だけれども、
"恋とも愛ともつかぬいとしさ"が
ユリと猪熊さんの間にもあるのだろう。

愛するっていうのは赦すってことなんだと思う。
良くも悪くも赦してしまうことなんだと思う。
"愛しい"っていう字は"かなしい"とも読む。
これってすごくよく出来ていると思う。

ユリと猪熊さんに会った夜、磯貝くんは夢を見る。ある老夫婦の夢だ。
結婚について考えたこともない磯貝くんだが、その夢に心臓が波打ちなんとも言えない感動に包まれて目を覚ますのだ。

そしてこの後、ユリと磯貝くんの関係は終わりを迎える。

もし神様がベッドを覗くことがあって、誰かがありきたりな動作で自分たちに酔っているのを見たとしても、きっと真剣にやっていることだろうから、笑わないでやってほしい。

それぞれに愛のかたちはあって、みんなそれぞれ、悩んだりわからなくなったりしながらも、真剣に傷ついて真剣に考えている。

ここでいうセックスとは、愛の営み(それは行為だけではなく心を通わせることも含めての)を指すのではないだろうか。


そして終盤、磯貝くん(みるめくん)は考える、

オレには彼女がおばあちゃんになったときの顔は、わからないんだな。でも、最後に会ったときのユリの笑顔は、残っていくんだな。

と。

そして、物語はラストを迎える。

会えなければ終わるなんて、そんなものじゃないだろう
花火の火は気まぐれに色を変えながら、違う花火に移り続けていく

恐らくだが、最初この2つの文章は同じページにはなかった。
(私の当時の読書ノートにはそう記されている)

私は最初ハードカバーの単行本版で読み、後から文庫版を買いなおした。

すると、文庫版ではラスト2行に、この2つの文章がまとめられていた。

よりストレートにメッセージとして伝わるかたちとなっていた。

そう、この2行、これら2つが揃って完成なんだと、当時私は解釈していた。

"会えなければ終わるなんて、そんなものじゃない"のはユリとの関係のことではない。

"花火の火は気まぐれに色を変えながら、違う花火に移り続けていく"この火のことを指しているのではないだろうか。

では、この火とは何か。

先程、物語中盤においての留意点を思い出そう。

 燃えている火はいつかは消えるものだ。それゆえに、燃やさずに静かに仲良くはいられないものか、と願う。

と、あの時に磯貝くんは言っていた。
いつかは消えるものなのだと、言い切っていた。

それに対して、ラスト

花火の火は気まぐれに色を変えながら、違う花火に移り続けていく

と結ぶのだ。

この火は、誰かと出会うことで生まれるパッションを指すのではないだろうか。

誰かとの出会いは奇跡に近く、そこから派生する感情は人生をも左右する可能性だって秘めている。

たとえ会わなくなったとしても、そこで灯された火は消える事なく、また違う誰かと出会い、別れを繰り返し、リレーを続けていくのではないだろうか。

だからユリは言うのではないか、

出会って本当に良かった人だもの。もちろん、磯貝くんと出会ったのも、人生の宝物だ。出会って良かったと思う出会いばかりだよ

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