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ハリー・ポッターと子どもの頃の思い出

ハリーポッターが日本で出版されて25周年ということで。

自分にとっても特別な作品である、ハリーポッターシリーズについて語ろうと思う。


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ハリーポッターとの出会いは、小学生のときのクリスマスプレゼントで本を贈られたことから始まる。

最初は「なんか話題になってるもの」くらいの感覚しかなかったが。

魔法の世界が本当に存在しているんじゃないかと思うほどリアリティある世界観に、魅力的なキャラクター、先が読めないストーリーに、あっという間に引き込まれていった。

そこから呪文を覚えるために専用のノートを作ったり、自分だけの杖を作るために枝を拾ってきては削ったり。

映画化されたときは貯めたお小遣いで、蛙チョコレートや百味ビーンズ、マフラー、箒型のボールペンなどのグッズを買い込んだ。

「もう寝なさい」と言われながらも、発売されたばかりの新刊の続きが気になって仕方がなく。こっそりとベッドに持ち込んで、初めて徹夜で学校に行ったことも覚えている。

当時からオタク気質なところはあったが、その頃は子どもたちみんながハリーポッターに夢中で、一大ブームだった。

それから、中学生になり、高校生になり、いろんな作品と出会ったが、ハリーポッターは変わらず特別だった。

自分の年齢とともにハリーが成長していく点も良かったのかもしれない。

本の中にいるけど、たしかに生きていて。自分の人生にとって切っても切り離せない存在になっていった。

結局、出会って25年が経っても、あの頃と変わらずに、魔法の世界に魅了され続けている。


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そう考えると、人生の7割近くがハリーポッターシリーズで占められているわけで。アイデンティティに与えている影響も大きい。

中でも、子ども時代の自分は、ハリーのモノローグに衝撃を受けていた。

たとえば、賢者の石の最初の方に出てくる一文。ハリーが自分のいとこについて語る場面だ。

おばさんはダドリーのことをよく、天使のようだわ、と言ったが、ハリーは豚がかつらをつけたみたいだ、といつも思っていた。


なんというか、児童書の主人公としては信じられない導入だった。

それまで、主人公っていうのはお人好しで、優しくて、善良なイメージがあって。

たとえ相手が意地悪であろうとも、こんなことを「言わない」「考えない」のが、正しい姿だと思っていた。


だけど、ハリーは率直な本音を語り続けた。


近所の人にチョコレートケーキもらったけど、何年もしまい込んでいたような味がしたこと。

ドジな子が授業で自分とペアを組みたい空気を出してたけど、組まずに済んでホッとしたこと。

規則に厳しい子が怒って自分たちを無視しはじめたけど、うるさく指図されないからラッキーだと思ったこと。

嫌いな先生を呼び捨てにして、ガンガン批判していくことも、自分にとっては驚きだった。


なぜなら、その頃の自分はできる限り「いい子」であろうとしていたからだ。


人のことを悪く言ってはいけないと教わっていたし、誰かに対してネガティブな感情を持つのもよくないことだと思っていた。

大人や先生に反抗するのは悪いことで、それらを違反することに罪悪感を持っていた。

でも、ハリーは思いきりそれをやっていた。
その点にものすごく救われた。


「こう感じるのって自分だけじゃないんだ」

「こう思うときってたしかにあるよね」


と自分の中に湧きあがる感情について、許しを得られたような気分だった。

人間なんだから、嫌いな人を否定したくなることもあれば、友人であろうとも「面倒くさい」と感じることもある。

だからといってハリーが「悪」なわけではない。

どこまでも等身大のままに、いろんなことを感じ、いざとなったら「善」の行動を選ぶことができるような主人公だった。


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その後に続くシリーズの中でも、思春期のときにかっこつけたくなる気持ちや、反抗期のときに苛立って八つ当たりしたくなる気持ちに共感を覚え、心を楽にしてもらった。


大人になるにつれ、シリーズ全体を通したテーマである「愛」や「選択」についても、意識をするようになったが。

「自分が何者であるかは、生まれでもなく、能力でもなく、何を選択するかで決まる」

といったダンブルドアの言葉も、心の深いところまで根付いている。


これまで積み重ねてきた価値観のうえに自己があり、本音屋があるのだから、ハリーポッターシリーズはやっぱり自分にとって大切な位置付けにある。

25年前に出会えたことに感謝をしつつ、これからも愛読し続けていきたい。






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