54 非知の特権にふれる
『トラウマにふれる』(宮地尚子著)を読んでいる
いま読んでいるものは、『トラウマにふれる』(宮地尚子著)。まだ20%ぐらいしか読んでいないのだが、とにかく内容が濃い。本書はトラウマの入門書ではない。著者のこれまでの著述をまとめて再構成したものだから、いきなり専門的な語彙がたっぷり。ついていくのが大変だ。それでも、これまでのところで「チコちゃんに叱られる!」的に言えば「トラウマの意味もよく知らないで、『これトラウマになっちゃう』などと口にしている人のなんと多いことか」と気づかされる。トラウマ恐るべし。
私はふだん「自分にはトラウマなんてないな」とのほほんとしていたのだけど、本人が自覚していないトラウマもあることを知った。というか、ほぼ自覚はしていないらしいのである。
しかも、私としては『勉強の哲学―来たるべきバカのために』(千葉雅也著)以来の、「学び」に対する新たな気づきを得ていて、静かに微睡みの中でほくそ笑んでいる。
いまほかに読んでいるものとして、『新ジュスティーヌ』(マルキ・ド・サド著、澁澤龍彦訳)、『ほどける骨折り球子』(長井短著、2022年文藝秋季号)があるのだが、この両作品の読み方まで、変わってきた。新たな視点を得た。得てしまった。
これは、たとえば新しいカメラを手に入れて旅行へ行くようなもので、同じ場所へ行ったとしても、まるで違う旅になるだろう。
いまこの3作品を並行して読んでいるのは、ただの偶然であるけれど、例によって「実は、必然だった」ということかもしれない。
学び落とし、非知の特権、無意識覚醒
とくに、この数日読んでいた「Ⅱ 臨床の知」は自分にとっていろいろな知の道具を手に入れているような気がする。「Ⅰ 傷を語る・傷に触れる」はトラウマについての見方がとてもよくわかると同時に、皮膚感覚、さらに嗅覚・味覚との関係が描かれていて、自分が漠然と思っていたトラウマ像とはかなり違うことがわかった。さらに、文化との関係は、そういうことなんだな、と得心する。
たとえば、いまの日本で受ける心の傷は、江戸時代に私たちの祖先が受けた心の傷と、似ているようで違う。まして、ウクライナ、ガザ地区でいま厳しい現実に直面している人たちの気持ちを、遠くの日本で推察することは難しい。人間として共通の部分では共感できるが、文化の違いからくる点までは想像が及ばない。
「Ⅱ 臨床の知」に入ったところで、私は「学び落とし、非知の特権、無意識覚醒」といった言葉に出会う。
これまで、本を読んだりニュースに触れたりしながら自分ではいろいろな「未知」を学んでいるつもりになっていた。だが、現実にはいま「学んだ」と思えることだけにフォーカスしてもダメなのだ。それは自分の持つ「知」の一部に過ぎないからだ。
とくに、プリヴィリッジ・オブ・アンノウイング(Privilege of Unknowing)、「非知の特権」に気づかされたことは、この本をまだ2割しか読んでいないのに、自分にとっては大きな収穫だった。
「知識のなかには知らなくても恥ずかしくないこと、知っているほうが恥ずかしいとみなされることもある」と著者は記している。
知りたくないことが自分を作る
恐らく、私が『新ジュスティーヌ』(マルキ・ド・サド著、澁澤龍彦訳)を読んでいることは、まさに本来、知らなくてもいいことを学んでいることなのかもしれない。この本は、まったくエンタメ性がなく官能的でもなく、剥き出しの悪辣な行為を羅列しておきながら、「善とはなにか」「悪とはなにか」を登場人物たちがもっともらしく議論する、いわばトンデモ本である。1787年から1797年に書かれた作品なので、日本なら「寛政の改革」(1787年~1793年)の頃で、フランスはフランス革命(1789年から1795年)といった時代の考え方に基づいている。おまけに、現代の日本とは文化がまったく違う。
この作品を読んでいなくても、生きて行く上ではなんの支障もないはずだ。むしろ「そんなことは知りたくなかった」と思うかもしれないぐらいの話である。
すると、私自身、知りたいので学ぼうとする部分がある一方、知りたくないけど知っておきたい部分もあることがわかる。
無知でありたい部分は世の中にいろいろある。たとえばテレビで「特産の黒毛和牛」を紹介しているのだが、最初に牧場にいる牛を見せて、次の画面になるとすでにきれいに切り分けられたサーロインステーキ用の肉になっている。生きている牛から肉になる過程については、「知らない方がいい」とされている。また、それを知っているからといってその知識を食卓でふりかざすような人にはなりたくない、という気持ちもある。
「『知らないでいることの特権』に気づき、そこに宿る権力に私たちは敏感である必要がある」と著者は言う。そして「私たちは皆、圧倒的な無知のなかを生きつづけるしかない」と。
おっと、長くなってきた。この話はいずれまた続けたい。