ほんまシュンジ
2023年9月から毎日記事を書いてきた「微睡みの中で恋をして」から、とくに反響のあったものだけをセレクトしました。♡の数とアクセス数でチョイスしています。
日記のような創作のような。創作のような日記。
正直、詩は苦手。読むのも書くのも。でもなぜか書きはじめてしまった。
小説。私小説的エッセー的。オートフィクション。ある時代の日本。90年代後半ぐらいか。
マガジン「微睡みの中で恋をして」に連載している小説「ライフタイム」のみを抜き出しています。
20年以上管理費値上げせず 新築のマンション。新しい生活にワクワクする。そしてみんなが直面した事実。「なんだこの管理会社は」「施工会社の系列をなんで使う?」 最初の年度に住人からの不満が爆発。最大の問題は管理人だった。勤務中、掃除しながらタバコを吸っている。特定の住人とやたら話し込む。どうやら他の住人の噂を流している。まず、管理人を代えなければ。 管理組合は動きだした。 最初にやったことは、駐輪場を増やすこと。植栽を減らして自転車をより多く置けるようにした。駐輪場が少な
大谷さん51-51達成の影で 勝者がいれば敗者がいる。光が輝けば輝くほど影は濃くなる。 私はこういうとき、どうしてもやられた側に目が向く。この記事で、敵将のスキップ・シューマッカー監督の言葉は、こうだ。 選手としてはカージナルスに長くいて2011年にはワールドシリーズで優勝している。ドジャースにいたこともある。2023年からマーリンズの監督になった。 「○○にとってはいい」と、自分たちの立場より上位概念を○○に入れれば、この言葉はかなり便利に使えそうだ。 負け惜し
すくいとる痛みが癒えたと思って安心していたら まだそこに隠れていたんだなって 妙に懐かしさもあるけれど だからって会いたかったわけじゃないし 忘れてしまっていた方がずっとよかった すくいとる、救いはある? すくいとる、squeeze me ぜんぜん大丈夫だよなんて笑顔を見せて みんなも信じてホッとしてたんだ 心の中まで見えるわけないんだもの 雨の中、傘を差さずに歩いているなんて そんな姿を見かけてしまったら、もう。 ポジティブに生きろって言われたの? 悩みが消えたら救わ
コトバ違うコトバで歌え これまで使ったことのないコトバ 聞いたこともないコトバ 意味のわからないコトバ さっぱり理解できないけれど 何かが伝わってくる 布でドリップするコーヒーみたいに わずかずつ絞り出されてくる滴を 飲み干そう ほら、もう別人になっている 同じコトバで歌え いつも使っている親しいコトバ 誰もが知っているコトバ ありきたりで安心なコトバ わかりきっている気になるけど いつもと違う何かが 硬いカボスを潰すように 鋭い香りを放って滴って 喉の奥に浸みる ああ、な
いよいよ晩どころか真夜中 昔、「君は大器晩成だね」と言われたことがあった。褒めているのか貶しているのかよくわからない。少なくとも当時は「いまじゃない」と言われたようなものだった。昭和的に言えば「ナウくないね」みたいなことだろう。あー、いま書いてみて、絶対口にしたくないな「ナウい」。当時も好きじゃなかった。いま死語になっていて、本当にうれしい。 もっとも出版業界の中でも泡沫的なところにぶら下がって生きてきたので(あ、それは私のことで、私に関わった業界のみなさんはみなスゴイんで
五月の冷たい雨甘い酒注いできて、なにか言っている ぜんぜん耳に入ってこないし 心にも響いて来ない どうしてそこにいるのかもわからない ただ時間が過ぎて行くのを待っている あれは五月だったから もう昔の話だね きっと忘れている 友達の車を借りたからってキーを見せて それがなんだか知られたクルマ だからなんだって言うの そんなのに乗ってガキじゃあるまいし 喜んだふりなんてもうしたくないんだ あれは冷たい雨の日 もう昔の話だね 思い出すはずもない お互いもういいオトナ 話をする
いくつもの扉ぼくは小説を読む 君は歌を聴く 諦めきれない季節が なにもしなくても過ぎてしまう どこで道を失ったか わかったとしても戻れない いくつもの扉があって その向こうへ行くべきなんだ いくつもの扉を抜けて ずっと遠くへ行くべきなんだ ぼくは大声で叫ぶ 君は耳を塞ぐ 時間を失ったままで すれ違うだけの日々を送る いつまで続くの なにを聞いても答えはない いくつもの扉があった そこを通り抜けるべきだった いくつもの扉があった もうどこへも行けない 限りのある世界の中で
初めてが最後摂氏三十五度の大気を吸って 線状降水帯の中でもがきながら 百年に一度と言われたところで なにができよう地球の上で 火星に移住する気があるなら 大富豪のしもべとなってでも ロケットに乗り込んじゃえば 地球のことは気にしないのか 生きとし生けるものたちは 責任という名の無責任のもとに 精一杯、今日も明日も明後日も 地べたに這いつくばって生きるしかない 完全無欠なものはこの世になく 一番欲しいものもこの世にはないけれど もし自分たちで創り出せるのなら 最後まで食ら
詩は恋を囁く昨日の言葉が残っているうちに、 明日の言葉が降る前に。 灯りのともる時間のうちに、 朝日がすべてを照らす前に。 何もかもが違っていて、 其の中にあるはずの物は何もなくて、 探そうとしても気力はなくて、 何かを頼っているうちに、 大事なものはどこかへ消えてしまった。 誰かの声が聞こえているうちに、 自分の声が届く前に。 雨が音を立てて町を濡らすうちに、 風がなにもかもを吹き飛ばす前に、 在ると思った物を探しても、 其れがどこへ行ったのか誰も知らなくて、 貴女はきっ
何を信じても自由 この記事を拝読した。 今日のこのnoteのタイトルは一昨日に決めていたものだけど、「推し」から話を始めよう(最近、数日先のタイトルを無責任に決めておく遊びをしている)。 誰もが心にアイドルとは限らないけれど一種の「推し」を持っている。それは「大切なもの」「大切な人」「大切な言葉」などのように、大切にしている対象だ。大切にする対象は、宗教っぽくなるけれどいわば「信じる」ことだ。信じられないものは大切ではない。 おカネが大切な人にとって、おカネは信じる
マナ マナの子、まなこ まなこの子、なまこ なまこの子、こまこ こまこの子、ままこ マナの美、まなび まなびの美、なまみ なまみの美、ななみ ななみの美、みなみ ともだちがいないから 誰とも話さない なまこともこまこともなまみともななみともみなみとも ともだちがいたら いっぱい話をするだろうか それともしないだろうか ともだちの血。 話の死。 マナ。誰?
勘違いは大切 どうも粗忽なところがあるね、やつは。 なんて言葉で語ると落語っぽくなる。粗忽って言葉は落語で知った。ほかにもいろいろ落語で知った言葉はある。悋気。へっつい(竈)。じゅげむ。 小学生の頃にコント55号になりたかったのだが、落語も好きだった。当時はテレビ(いまの地上波)で落語をよく見た。テレビ用なので短い話ばかり。中には枕だけで終わるなんてこともあったけど。古典落語の全集を揃えた。全集といっても文庫版だ。確か興津要の。3冊か4冊だったか。繰り返し読んだ。 粗忽
自分で課したことからの自由 以前にこんな記事を書いた。 そこにあまりちゃんと書いていないけど、いま自分で直面していることがある。それは自分が自分に課したルーティーンという名の固定化だ。 自分で課したことなのだから、もちろん自分の自由である。簡単に言えば、写真を撮るならスマホやカメラを一瞬でいいので固定(静止)させるべきだろう。その意味で、日々の行動にも、その瞬間瞬間に全部フローで流すのではなく、カチッと止めるところがあっていいのではないか。 少なくともルーティーンは(
沈黙の美徳 何か言いたいことがあるけれど、とりあえず黙っていようね、といった美徳については人間が言葉を得てから脈々と生きながらえてきたに違いない。物語化することは自分の沈黙と引き換えに、誰かによって生み出されたお話に託して言いたいことを言うための装置だったかもしれない。 どうしても言わなければならないこと以外は言わない。そんなポリシーもあながちムチャなことではない。それによって、反射的に言葉を吐き出さなくてよくなるのなら、その方がいいのかもしれない。 あるいは空疎な饒舌に
いろいろ面倒なことが起こる お盆の頃などは特にそうなのだが、部屋にとても小さな虫が入ってきて、それをなんとか殺そうとしたとき、「もしや、誰かの生まれ変わりで、こちらを見に来たのではないか」などと思ってしまう。 人間はなにを考えても自由なので、頭の中で輪廻を思い描くのはまったく自由だ。ただ行動はそうはいかない。行動に移すには、また別の思考とある程度の学習や訓練(経験)を伴う。 もしも、誰かが虫に生まれ変わって、私の様子を見に来たのだとしたら、それはちょっと心にいい風が吹く。
ふと夜中に思う 父(95歳)、母(90歳)。いまのところ自分のことは自分で出来る。だから自分たちで暮らしている。とはいえ、さすがにこの酷暑もあって、衰えは隠せない。 いずれ、この二人とはお別れをしなければならない。いや、自分が先にならないようにしなくてはならないけれど。 ふと夜中に、「遺影はどうしよう」と思う。先日など、誰かわからないけれど葬儀の夢まで見た。そもそも「遺影」っていつからの習慣なのか。わからないけど。あれは必須なのか。それもわからないけど。 二人とも写真嫌