悲しみの向こう
昨日、このノートで「変わることと変わらないこと」について書きました。
そこでは悲しみをどう受け止めるか?という話もしました。
この受け止め方がもしかしたら、釈迦の仏教と大乗仏教の違いにつながるかも考え初めています。
釈迦の仏教
納得できない死の受け止め方は、釈迦の仏教では、キサーゴータミーの話が有名です。子を失くした母が、釈迦に依頼し、子のいのちを復活させようとします。釈迦はその依頼を受け入れますが、条件をつけます。まだ、誰も親族がなくなっていない家から芥子の実を貰ってくることをいいます。母、キサーゴータミーは芥子の実を求めて家を回りますが、親族がなくなっていない家はなく、結果願いは叶いません。それにより、彼女は死は逃げられないと知り出家するという話です。
死は必定であり悟りしか逃れるすべはないという話です。
無常を知り、出家し、修行をし悟る。釈迦の仏教はこれでよいし、これしかない。
ところが・・昨日書きましたが、これで救われるのか?というのが問題です。
欲望、願望
自分は僧侶ですから、無常を感じ、悟りを目指すべきなのですが・・輸血をし、病床を見舞い、死の直後の両親と共に遺体を引き取るという経験をしたことがあります。
生前を知っていて、なくなる過程を知った上で、葬儀の導師を勤めるのは、自分にとって精神的にはハードでした。残された家族、親族を見るにつれ、どこか生まれ変わり死に変わりでも、浄土でもよいどこかで、廻り合い一回でよい幸せな一生に巡り合わせてやりたいという感情が生まれてしまいました。
これって釈迦の仏教なら欲望でしょうね。でも求めてしまうものでもある・・。
大乗仏教の浄土とは、釈迦の仏教での理念的というか、世の理を理解しつつ願ってしまう人間の弱さが生み出したものなのかもしれません。
ここで、多少我田引水かもしれませんが、日蓮聖人が16歳の男の子を亡くされた母に当てた手紙類を見てみると・・。
最初の手紙では、亡くなられたことが理解できないと述べ後は書かれなかったものが、死出の旅の過程や浄土への再会へと変わっていきます。
この過程は釈迦の仏教とは著しく異なります。死の残酷さは変わりませんが、受け止めかたが違う。どちらが良くてどちらが悪いというものではないと思います。
強いていうなら、どう納得するか?ではないでしょうか。
そして、私は・・
過日のノートでも述べたように、また日蓮聖人もいうように、死は必定だが、そのように言えない。浄土があり、再会を願いたいという気持ちを否定できないのです。
一方で、肉体が亡くなっても精神は引き続げるという考えは、仏教そのものでもあります。2500年前仏陀の肉体(人)は失われました。その精神(法)は未だに続いている。我々仏教の教えに基づいて生きているものを通して・・だから亡くなられたからおしまいではないのは、仏陀が教えてくれてもいる。
とこんなことを考えながらも、私はあまり「信」を説きません。むしろ、「問」や「疑」を大切にしています。
絶対に正しいという怖さを忘れずに、できうる限り欲望を減らしなが、自らで考え続ける。そこにこそ自分が求める答えがあると思いたいのです。
ずいぶん面倒な考えをしているなーと自覚しながらも・・
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