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違和感

とある研修会で「お寺はすべて関われる」ということを僧侶自身が言うのを聞いて違和感を感じたことがある。

「お寺には可能性がある」と講師におだてられしきりに頷いているのも違和感がある。

その理由は

僧侶という育成機関で、何を習い、何を修行し、何を得たのか?

寺という空間が関われるのか?

住職や僧侶が力量があり関われるのか?

解決できる人間関係や知識やノウハウを持っているのか?

精神的な問題になぜ世の中に専門家がいるのか?

それなりの経験をしているのか?

どこまでなら関われるのか?

自分の根底を掘るという行為をしないといけないのに・・軽々と言っていないか?

と途端に頭のなかで考え始めてしまうこれには若い頃に出会った本、多分自分の一生かけて考えさせられる本に出会ったからだと思う。


読めばわかるが、高橋卓志先生は「寺は死にかけている」と言っている。葬儀というものの裏にある老・病という苦との向き合いを寺院・僧侶が向き合うとはどういうことなのか?生半可の覚悟で語れないことが、読めばわかる。

この本と出会って病院ボランティアをしたし、情報センターで電話相談にも関わることになった。自分の力の無力感も現在の寺のあり方の問題も曲がりなりにも実感することになった。

僕は法話嫌い?

そんな体験をして思うのは、人間は意図的でないが、何気なく傷つけてしまう。良かれと思ったことが、相手の環境や人生と会わないこともある。これは未だに起こる。不徳のいたすところであり、未熟さを自らに感じる。

恐ろしい・・。だからだろうか、僕はお説教が嫌いで、説明や自分の感覚は話せるが、教訓めいたことが言えなくなってきている。(家族には無責任に言ってますが・・(笑))

解説と書いて仏教では「げせつ」と読む。僕のやって法話と称するものは、個人的理解と解説でなんだと思う。

さらに考えると・・

考えるとは、問うことだと思っている。祖師が言っているから、仏陀が言っているから正しいという人に会うと、実は問いたくなる。それはオウム真理教と同じ洗脳ではないかと・・

ブッダだからよい、日蓮聖人だからよいという人もいる。とんでもない。昨日までサラリーマンで働いていた父親が、家族をすてて出家する。本当によいのだろうか?

すべての価値観が一つになる・・気持ち悪くないのか?

と今の時代に生きる自分は問うてしまう。

下記の本で末木文美士先生は言っている。

仏教は平和主義であるとか、仏教は生命を大事にするとか、口先だけのきれい事はやめようではないか。自分の感覚として何が大事なのか。自分自身を見つめ、そして考え直すところから出発するのでなければならない。経典に書いてあるからとか、宗祖がこういったから、ということは、もちろん宗派内の「公」としては成り立つし、それは否定しない。しかし、それは宗派を離れたら何の説得力も持たないことを認識しなければならない。(27-28頁)

オウム真理教の麻原信仰の危険性はもうみたではないか。麻原が言っているなら何でも正しいと信じた人間と変わらないではないかと・・

その思考停止が全体主義につながり、ヒトラーを産み出したのだと・・

下記の本のなかでダライ・ラマは次のように述べている。

ですから、単に教えられたことを、釈尊が説かれているからという理由によって信ずるのではなくて、教えに対してまず懐疑的な態度によって疑ってかかり、その教えがほんとうに正しいのかどうかということを、自分の頭を用いて調べ、ほんとうにそれが正しいのだということを理解したうえで、その教えを信じていくという態度が必要であるといわれているのです。(74頁)

2500年前のブッタ、800年前の日蓮聖人を単に現代に持ってきて断罪するがごとき表現をしたので違和感を感じる方もあろう。それは確かに不遜かもしれない。

しかし、時代を再構築し、底にある精神を理解し実現するためには自らが問うことが不可欠だと思う。それこそ聖域をもうけずに・・

自己の可能性、寺院の可能性は確かにあるだろう・・、しかし、そこには確実に努力があり、経験と検証が必要だと思う。ゼロベースで見直す覚悟も・・

多分いつか僕も老いがくる。自らを問うことに嫌気がさし、楽になりたくなる。その時、速やかに去れればよいなーと感じているが・・若さ故の傲慢なのかもしれない。




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