『すずめの戸締り』考察
【新海誠インタビュー】
『寂しい場所、忘れ去られた場所を悼む話にしたかった』
『かつて賑やかだったのに廃れていく場所を見ていく中で何かを始める時には地鎮祭のような儀式をやるのに終わる時は何もやらないことに対しての想いがあった』
『この物語は災いが日常に張り付いた終末後の世界である』
『これからは天気は楽しむだけのものではなくなってしまうだろう。
そんな世界を作ってしまった僕たち大人にはまちがいなく責任の一端がある。
その大人たちの責任を若い世代の人たちまで引き受ける必要はない。
異常気象が常態化しているせかいで生きていく世代にはそれを軽やかに乗り越えて向こう側へ行ってほしいという想いで【天気の子】を作った』
【出立】
物語は主人公の鈴芽が扉を開いたことから冒険が始まる。
しかしその後はタイトルの通り『戸締り』をしていく。
ウズメは天岩戸を開くきっかけを作った神様なのになぜ戸締りをしていく物語にしたのだろうか。
主人公のモデルがウズメであり苗字が岩戸なので『岩戸伝説』が元になっていることは間違いないのに。
【人の意識の歪み】
そもそも人の意識が歪むとはどういうことなのか。
それを紐解くヒントが祝詞の中にある。
『久しく拝領つかまつったこの山河』
祝詞において土地を神から拝領した、すなわち貰ったと解釈されている。
はたして人類は神様から土地を貰ったのか。
古代の人々はアミニズムを信仰していて自然全てに神が宿っていると考えていた。
もちろん土地にも神が宿っている。
その土地を貰うというのはそこから神を追い出すということになるのでお借りするという認識だった。
近代に至り人間至上主義が蔓延し、自然と人類は別と考えるようになり、その奢った考えから土地は神のものではなく人のものとなってしまった。
地鎮祭とは土地の神を鎮めることであり、神様から土地を借りる事をお願いし許しを貰って加護を受ける儀式でもある。
しかしその場所が廃れてしまったときに何もせずきちんと返す事をしない。
地鎮祭では神を肯定しておきながら終わる時にはまるで神なんていないかのようにほったらかしにしている。
神様を追い出して奪った土地を好き勝手に使い、価値がなくなったらそのまま放置する。
神様が怒るのは当然である。
その神の怒りが具現化した姿がミミズであり、そういう場所だからこそ後ろ戸が現れるのではないだろうか。
人の想いが軽いとは土地の神様に対しての想いが軽いということであり、人の意識の歪みとは土地を神様から『借りている』という認識から『貰った』という認識に変わってしまったということではないだろうか。
【天照大神と素戔嗚との歪み】
天岩戸伝説において天照大神が岩戸に隠れた理由もまた天照大神と素戔嗚の意識の歪みからだった。
素戔嗚は母が恋しくなり黄泉国に会いにいく前に姉である天照大神に挨拶をしようと高天原に向かったが、天照大神は素戔嗚が高天原に攻めて来たという認識の違いから武装をして迎え撃とうとした。
素戔嗚は誤解を解こうとして誓約を提案しその結果、素戔嗚から生まれたのがおそらく宗像家のモデルとなった【市杵島姫】【田心姫】【多岐都姫】の宗像三女神。
誤解は解け素戔嗚は高天原に入る事を許されるが疑われたことが許せず結局暴れてしまう。
その暴れた素戔嗚を許せず天照大神が岩戸に隠れてしまい地上から光がなくなり、悪神が満ちた。
ウズメをきっかけに岩戸は開き地上に光は満ちたが悪神はそのまま地上に残り人類はその悪神と共存することになる。
【歪みの代償】
産業革命以降の人類は地球を破壊してきた。
異常気象や災害の一部は人類のせいでもありその代償を若い世代に背負わせようとしている。
岩戸伝説においては天照大神と素戔嗚の歪みから地上に悪神が満ちた。
そしてその代償は誓約で生まれた子供たちの宗像三女神が背負うことになる。
宗像三女神の一柱である【市杵島姫】は【瀬織津姫】と同一視されている。
【瀬織津姫】とは四柱で構成されている祓戸大神の一柱で罪や穢れを川から海へ流すという性質を持っている。
その後【速開津比売】が流された罪や穢れを渦によって飲み込み【伊吹戸主】が飲み込まれた罪や穢れを根の国、根の底に向かい息吹を放ち流ち最後に【速佐須良比売】が浄化する。
地上に満ちた悪神に影響を受けた人間の罪や穢れを【市杵島姫=瀬織津比売】が祓い清めているということになるのだ。
瀬織津比売は記・紀には登場せず大祓祝詞にのみ登場する隠された女神である。
物語において宗方家が代々受け継いでいる閉じ師もまた誰にも知られることなく人の意識の歪み(罪や穢れ)が暴れさせたミミズを祓っているという点で隠された女神である瀬織津比売の性質と共通している。
【市杵島姫=瀬織津比売】なのでやはり宗方家のモデルは宗像三女神であると推測できる。
【八十禍津日】
物語において【後ろ戸】の先には【常世】の世界が広がっていた。
【常世】とは【現世】の全てが同時に存在する場所。
まず高天原が生まれ次に常世が生まれその常世に似せて作られたのがこの世界である現世である。
高天原は精神世界であり常世は物質世界だと仮定する。
現世の全てが同時に存在するということは時間がなく混沌としている物質世界というのが常世。
それに時間を足して秩序が生まれた世界が現世ということになる。
物質は常世から現世に運ばれ常世に帰っていく。
常世から現世にやってきた人間たちは時間と共に認識が変わり歪みが生まれ、その歪みから生まれた罪や穢れがまた常世に戻り、その罪や穢れが臨界点に達した時にミミズが暴れるということなのかもしれない。
罪や穢れを祓う【瀬織津比売】は罪や穢れの量が臨界点を超えると【八十禍津日】という悪神となり世界にあらゆる禍を起こすと云われている。
もしかしたらミミズとは【八十禍津日】となった【瀬織津比売】なのかもしれない。
【神と信仰】
神は信仰の強さによって力が変化する。
多く信仰を受けてる神の力は強くなり、忘れられた神は力が弱くなる。
ダイジンも例外ではなく最初にガリガリだったのはダイジンが刺さっていた場所が廃墟だったからだろう。
鈴芽の「うちの子になる?」という言葉で力を取り戻すが、それは母の愛が1番強いということだろうか。
そもそも要石が廃墟にあったということはダイジンの力はほとんどなかった状態だったので鈴芽が抜かなくても近い将来に勝手に抜けてしまったのではと考えられる。
前半まるでダイジンがミミズを解放しているかのように描かれてたが、実は後ろ戸が開きそうな場所に誘導してたということがわかる。
力がなくなってしまった要石は開きそうな後ろ戸を教えるということしかできなかったのかもしれない。
『お前は邪魔』
草太はダイジンの呪いによって要石の役割りと共に鈴芽の大切にしていた椅子にされてしまった。
その後草太に変わって鈴芽が閉じ師として戸締りをしていくのだが、なぜその後ろ戸を閉じる役目を草太を椅子にしてまで鈴芽に課したのか。
後ろ戸は草太ではなく鈴芽が閉じる必要があったのではと考えたらどうなるだろう。
【不完全な戸締り】
宗方家は代々密かに後ろ戸を戸締りしてきたがその行為は根本を解決するというものではない。
人の意識の歪みがミミズを暴れさせるのであれば歪みそのものを正さなければならない。
閉じ師というのはあくまでミミズをこの世界に出さないための応急処置でしかないのだ。
ということは鈴芽が戸締りをすることで人の意識の歪みの根本を正すことに繋がる何かがあるはずである。
【素戔嗚の追放】
日本神話神話において天照大神は高天原を、、素戔嗚は葦原中国(現世)の海原を統治することを命じられた。
先述していたように素戔嗚は天照大神に挨拶をするため高天原に入るが、天岩戸伝説の後に高天原を追放され地上へ落される。
その後大国主が根の堅洲国(黄泉国=常世)で素戔嗚に会うので、素戔嗚は日本神話の神様の中で唯一【高天原】【葦原中国】【黄泉国】のすべての国へ行ったことがある神様でもある。
そして素戔嗚は地上を初めて治めた神であり、物質世界最初の王。
ここで重要なのは素戔嗚は高天原を追放されたということであり、高天原を追放されたということは精神世界と繋がることができなくなったということ。
そして精神世界と繋がることができない素戔嗚が地上を統治したということ。
そして宗方家とは精神世界と繋がれなくなった物質界の王の子孫なのだ。
【穢れた天照大神】
宗方家は代々閉じ師として罪の代償を背負い続けてきたが、宗方家が背負ってきたのは祖先の素戔嗚側の歪みだけである。
では天照大神側の歪みの代償は誰が背負うべきなのだろうか。
逆に正そうとしたのが素戔嗚側の歪みのみであったから変わらなかったのではないだろうか。
素戔嗚側の歪みが【市杵島姫=瀬織津比売】による【八十禍津日】であるならば天照大神側の歪みとは何か。
その答えは【天岩戸=後ろ戸】と仮定すると見えてくる。
神話において天照大神が岩戸に隠れたことにより世界から光がなくなり悪神が満ちた。
そして光がなくなって悪神が満ちたということは天照大神が岩戸に籠るまでは地上に悪神がいなかったということになる。
【岩戸=常世】なのであれば、岩戸の中に籠ったということは天照大神は常世に籠ったと同義であり【常世=黄泉国】なのであれば、天照大神は伊邪那美と同様に常世で穢れてしまったのではないだろうか。
岩戸に籠るということはまず岩戸を開くことになり、その時に伊邪那美が伊邪那岐に放った悪神が黄泉国から解放された。
そしてウズメが再び岩戸が開いたときに戻ってきたのは穢れた天照大神だった。
【二系統の瀬織津比売】
神様には和魂と荒魂という二つの側面を持っている。
和魂とは慈悲の心であり、荒魂とは荒々しい、いわゆる悪神のような性質をもっている。
雷(神鳴り)は雨を呼び土地を豊かにするが、山火事を起こしたり人を殺す。
しかし同じ雷(神鳴り)。
そして天照大神の荒魂もまた瀬織津比売と同一視されている。
【天照大神(荒魂)=瀬織津比売=市杵島姫】
であるならば天照大神側の歪みとは【天照大神(荒魂)=瀬織津比売】による【八十禍津日】ということになる。
悪神とは常世に行った天照大神の荒魂ということになる。
そして素戔嗚も最終的に根の堅洲国(常世)へ行っているのでおそらく穢れてしまっている。
天照大神側を精神、素戔嗚側を物質と捉えるのであれば精神と物質の両方が穢れたということになり、草太が祓っているのは素戔嗚側の穢れであり、現時点で素戔嗚側の歪み【市杵島姫=瀬織津比売=物質】と天照大神側の歪み【天照大神(荒魂)=瀬織津比売=精神】の二つの系統の歪みのうち素戔嗚側の物質の歪みの代償のみを宗方家が背負っているという状態なのだ。
現世で生まれた罪や穢れは常世に流されて浄化される。
そして臨界点を超えると【八十禍津日】となり地上に禍を起こす。
この八十禍津日は人間に心(精神)と身体(物質)の両方があるように、天照大神(精神)と素戔嗚(物質)の両方の穢れの集合体なのでどちらかを祓ってもだめなのだ。
ではどうすれば天照大神側(精神)の穢れを祓うことができるのだろうか。
【歪みの根源】
天照大神は伊邪那美と同様に常世で穢れたと記したが、そもそも伊邪那美はなぜ常世(黄泉国)で穢れたのか。
それは創世時代に遡る。
伊邪那美は伊邪那岐と共に現世に島を産み様々な神を産んだ。
そして最後に火の神【火之加具土】を産んだことで女陰が焼け、それが元で黄泉国へと隠れることになった。
伊邪那美の死を悲しんだ伊邪那岐は伊邪那美を連れ戻そうと黄泉国へと迎えに行く。
しかし黄泉国の穢れた食べ物を食べた伊邪那美は醜い姿になってしまっていて、それを伊邪那岐に見られたことに激怒した伊邪那美は伊邪那岐を殺そうとさまざまな悪神を伊邪那岐に差し向ける。
なんとかそれらの悪神を祓いながら黄泉国と高天原の境である黄泉比良坂へと辿り着き、悪神が高天原へ来れないように黄泉国へと続く扉を千引きの石で塞ぐ。
伊邪那岐が黄泉の国と高天原の間を塞いだ後、黄泉国の穢れを洗い流した時に生まれたのが【天照大神命】【月詠命】【素戔嗚命】の三貴子であった。
黄泉国の悪神や穢れは伊邪那岐が黄泉国への道を塞いだことにより高天原への浸透を防ぐことになった。
そしてこの塞いだ千引きの石が天岩戸だったとしたら。
【肉体と魂の循環】
人は物質である肉体を常世から、精神(魂)を高天原から送られることで生まれる。
そしてまた肉体は常世へ、精神(魂)は高天原へ帰っていくのだが罪や穢れは祓戸大神によって常世(黄泉国)に送られる。
そして黄泉国(常世)と高天原の間は塞がれていたので穢れが高天原へ流れないようになっていたが、天照大神が岩戸に籠ったことにより天照大神が穢れ、ウズメが岩戸を開いたことで穢れが高天原まで流れ込んだということになる。
高天原が穢れてしまったのなら現世に送られる精神(魂)もまた穢れた状態だということになり、それが現世で増幅され常世に流されて、また高天原が穢れるという悪循環が起こっているのではないだろうか。
そしてその悪循環を止めるには再び岩戸を閉じる(戸締り)必要がある。
その戸締りをする役目を担うべきは岩戸を開くきっかけを作ったウズメなのではないだろうか。
【祭と政】
古代日本において国は祭祀王と統治王とで治めていた。
祭祀王が祭(神に伺いをたてる)をし、それに沿って統治王が政(まつりごと)を行っていたのだ。
まさに卑弥呼が治めていた時代がそうで、卑弥呼が祭祀王として治めていたころは平和だったが、卑弥呼が亡くなったあと統治王のみで治めた時代には争いが絶えなかった。
しかしその後に卑弥呼の後継者である台与が祭祀王となり国を治めると再び争いはなくなったと云われている。
古代において祭祀王と統治王の二人が揃って国を治めるというのが正しい政だった。
それは最初の統治王である素戔嗚が精神世界と繋がることができなくなってしまったことが原因なのでないだろうか。
精神世界と繋がれないという不完全な王だからこそ正しく統治するには精神世界の声が聴こえる祭祀王の存在が必要なのだ。
創世記の記述から伊邪那美と伊邪那岐が初代の祭祀王と統治王であったと思われるが、伊邪那美が黄泉国に隠れたことにより伊邪那美と伊邪那岐との間に意識の歪みが生まれた。
そして統治王である伊邪那岐の子孫のみが統治する世界になってしまった。
そして統治王のみで統治した世界は乱れた。
それは精神世界である高天原の統治王である天照大神も同様で統治王とはすべてを統べる者であり、祭祀王とはすべての声を聴くもの。
いくら高天原が精神世界だったとしても声が聴けない統治王だけではだめなのだ。
そこで苦肉の策として祭祀王の代わりに精神世界の声が聴くことが出来る巫女を補佐に付けた。
天照大神には天鈿女、素戔嗚には配偶神である櫛名田比売。
しかし本来の祭祀王の祭によって政を決めるという正しい方法から、まず政を決めてから巫女がその吉凶を占うという形に変わってしまったのだ。
精神世界の恩恵である神託は民のためではなく王を守る、もしくは王だと裏付けすることに使われてしまう。
これはユダヤ・キリスト世界にも共通する。
ダビデ王に対してユダヤの祭祀の一族アロンの末裔のツァドクはダビデ王に祭祀として仕え、洗礼者ヨハネもまたアロンの末裔であり、洗礼者ヨハネに洗礼を受けたイエスは救世主となった。
祭祀が王を補佐又は裏付けしている。
【高天原の正体】
現世における祭祀王の役割は神に伺いを立てるという祭を行っていたが、それは高天原と現世を繋ぐということ。
先述した通り祭祀王がいなくなり天と地を繋ぐ存在が統治王に仕える巫女となってしまった。
祭に従って政をすることから、まず政を行い祭で吉凶を問うということになった。
それは精神と物質である肉体の両方を持っている人が肉体の欲求を優先するということと同じである。
肉体の欲求に対してその欲求を精神が止めることができなくなるということなのだ。
そして三大欲求や物欲など人が争う理由の根源は肉体の欲求ではないだろうか。
ユングは意識には階層があると提唱し、ケン・ウェルパーはその階層のスペクトルを研究し、最深部には統一意識という場所があると提唱した。
統一意識というのは人の意識は無意識の最深部で全て繋がっているというものだ。
常世が物質の全てが集まるところであるならば、高天原は精神の全てが集まる統一意識なのではないだろうか。
そうなのであれば祭祀王が伺う神とは統一意識のことであり、その声を聴くということは人類全ての声を聴くということになり、統治王が祭祀王の祭に従って政をするということは人間の肉体欲求よりも精神を優先させる政であり、全ての人を魂を満たすということになるのではないだろうか。
高天原にいる神々というのはまさしく人間全ての精神そのものなのではないだろうか。
神を信じないということは人が物質のみを信じて精神を信じないという偏った状態であり、土地から神を追い出すということは肉体の欲望に従って土地を支配しているということになり、それこそが人の意識の歪みの根源なのだ。
高天原の統治王である天照大神は全ての神を統べることは出来ても、全ての神の声を聴くことはできない。
鈴芽が戸締りをするときにはその土地に残された人々の意識の声が聞こえていた。
その声こそが統一意識(高天原の神々)の声であり、鈴芽は祭祀王の性質を受け継いでいると思われる。
【祭祀王の復活】
伊邪那美という祭祀王がいなくなったことで最初に影響を及ぼしたのは天照大神と素戔嗚の誓約だった。
先述していたように宗方家のモデルとなった宗像三女神は誓約によって生まれたのだか、誓約とは最古の占いとも云われており、お互いの宝物を交換して噛み砕いて吐いた伊吹から生まれた神がどういう神かによって吉凶を占うというものだった。
しかし肝心のどういう神がよくてどういう神が悪いのかを決めていなかった。
その結果なんとなく素戔嗚から生まれた女神が美しく純粋だったから素戔嗚が正しいとなってしまったのだ。
そして素戔嗚は暴れ、天照大神が岩戸に籠るという最悪の結末を迎えた。
天照大神と素戔嗚の歪みの原因は祭を司る祭祀王がいなかったからにほかならない。
では先述通りウズメが戸締りしたとしたならどうなるだろう。
ウズメが戸締りをすると再び黄泉国(常世)と高天原に結界が張られ、高天原に罪や穢れが流れなくなり高天原が浄化される。
そして高天原の浄化が完了すれば高天原には純粋な魂で満たされ、純粋な魂で満たされれば現世に生まれる人間も清らかになる。
そうなると必然的に罪や穢れがなくなっていき、流される罪や穢れが減ることにより八十禍津日は瀬織津比売へと戻るのではないだろうか。
さらに現世が清らかになり罪や穢れがなくなれば祓戸大神の浄化も完了し、常世の罪や穢れもなくなることになる。
常世(黄泉国)が浄化されれば黄泉国の食べ物も浄化され伊邪那美の姿も元の姿に戻ることになる。
そうなれば伊邪那岐はもう一度伊邪那美を迎えに行くのではないだろうか。
そしてその時こそ祭祀王と統治王が治める正しい世界が復活するのである。
【宗像草太とイエス・キリスト】
鈴芽が戸締りすることにより歪みの根源が正されることがわかったが草太の役割はなんだったのだろうか。
物語において草太は祖先である素戔嗚の歪みという罪を背負いミミズを祓っていた。
ミミズとは素戔嗚側の物質の穢れなので物質界である現世に影響を与えたのだ。
要するに天照大神側の穢れの罪を背負う鈴芽が精神世界の穢れを祓い、素戔嗚側の穢れの罪を背負う草太は物質世界の穢れを祓う。
宗方家のモデルが宗像三女神なのであれば草太も素戔嗚の子孫と同様の立場である。
しかし天照大神とウズメの関係は王と巫女なので鈴芽は天照大神の子孫と同等の立場ではない。
そして祖先の罪を背負うという点でユダヤ・キリスト世界と通じるものがある。
人類はアダムとイブが知恵の実を食べたという原罪を背負っているからだ。
そしてアダムとイブの罪とは神と人類との歪みであり、その罪を一人で背負ったのが救世主とされているイエス。
イエスは終末後の最後の審判において正しいものたちを統べて至福の千年王国へと連れていく。
統べるのは統治王の役目であり、全ての声を聴く祭祀王の性質を受け継いでいる鈴芽に対して草太は統治王の性質を受け継いでいるのではないだろうか。
【二人のメシア】
クムラン教団が記したとされる死海文書によれば終末後には二人のメシアが現れると云われている。
一人はアロンのメシアで、もう一人はイスラエルのメシア。
アロンのメシアとは祭祀の支族であるアロンの子孫である洗礼者ヨハネの末裔であり、イスラエルのメシアとはイスラエル王の血筋であるイエスの末裔だと云われている。
洗礼者ヨハネとイエスを遡ればユダヤ世界の王【ダビデ(Dabid)】と祭祀【ツァドク(Zadok)】へと繋がっていく。
DabidとzaDokの二つの【D】
【D】を新約聖書の原典で使われているギリシャ文字に変換すると【Δ(デルタ)】となり王と祭祀の2つ【Δ】が重なるとダビデの星となる。
さらに旧約聖書の原典に使われているヘブライ文字に変換すると【扉】を意味する【ד(ダレット)】となり、【ד】を鏡開きのように二つ並べるとまるで鳥居のような形の【戸】になる。
もしこの戸が岩戸であるのであれば天照大神が籠り、ウズメが開いたのは祭祀王と統治王が揃ってないという歪んだ状態での岩戸開きだった。
それは素戔嗚と天照大神による歪みからであり、遡れば伊邪那美と伊邪那岐の歪みからだった。
岩戸を開いたウズメが戸締りをすれば先述の流れに沿って伊邪那美は浄化され、伊邪那美と伊邪那岐との歪みが正され、伊邪那美が再び祭祀王となることで伊邪那岐と共に祭祀王と統治王が揃った本来の岩戸開きが完成する。
【最後の審判】
ダイジンが要石に戻るときには最初に登場した時のように弱っていた。
力が弱った状態の要石ではいずれまた封印が解けてしまうだろうと思われる。
この物語が終末後の話なのであればその時こそが最後の審判の時だろう。
【君の名は】は災害を未然に防ぐ話であり【天気の子】は災害を受け入れる話だった。
そして本作【すずめの戸締り】は災害から立ち直り前へ進む話。
これを旧約聖書の時系列に当てはめると【君の名は】は人地を超えた力で守られているのでエデンの園で守られていたアダムとイブの時代にあたり【天気の子】はノアの方舟の洪水伝説にあたると思われる。
そして【すずめの戸締り】はインタビューでも語られていたように終末後の話。
【天気の子】には【君の名は】の登場人物が出ていたが【すずめの戸締り】には出てこなかったし、東京は晴れていた。
これは【天気の子】の後には洪水伝説同様一度世界は滅びたというのを示唆していたのかもしれない。
そして本作は終末後の物語なので、その後の最後の審判では救世主が現れるはずである。
一人目の救世主となるのがイエスと同様に祖先の歪みという罪を背負った【統治王】の性質を受け継ぐ宗像草太であり、もう一人の救世主とは戸締りをすることで歪みの根源を正し、全ての声を聴く【祭祀王】の性質を受け継ぐ鈴芽ということになる。
【ヒーローズジャーニー】
この物語は鈴芽が扉を開くことで日常世界を後にして、常世という異世界に足を踏み入れ、驚異的な存在のミミズと出会い、宗像草太と共に決定的な勝利をおさめることにより救世主となって帰還するヒーローズジャーニーの物語。