月光の盛り_『ペレアスとメリザンド』_2022年7月
■月光の盛り
ドビュッシーが唯一書いたオペラ、『ペレアスとメリザンド』を見ました。
音楽が染み入るほどに美しく、歌手も良かった。舞台装置も凝っており、壁紙の柄、舞台の奥にかろうじて見える花々までが美しかった。
ただ、直接的な性表現が多すぎて、私の好みには合わない演出でした。
そもそも私は、「官能」という旗の下に女性が半裸を晒したり、「生々しい」「体当たり」な表現や、濡れ場を見せられたりすることを大変不快に思うタイプの人間です。
人前で脱げることが表現者の度胸だという人もいるかもしれないけれど、私はその価値観にずっと嫌悪感を抱いています。
予習してきた「ペレメリ」は、妻のメリザンドと弟のペレアスの崇高な精神的つながりを前に、初老のゴローは太刀打ちができないといった、美しくも抗えない絶望が描かれていました。
しかし今回見たのは、メリザンドの頻繁な生着替えシーンはもちろん、露骨な肉体の交渉シーンが多く、下着姿でうろうろするメリザンドは義弟のペレアスとの情事を妄想し続け、夫のゴローとも義父とも身体をまさぐり合っている。これではまるで発情期の……もとい、「恋の季節を迎えほとばしる生命にあふれた」人間に見える。そして、ゴローが浮気現場を目撃し、乗り込んで、今まさに裸で盛っている二人を刺し殺す。ただの痴情のもつれによる修羅場に見える。
ヨーロッパではこの手の演出も目立ってきているというし、芸術的に必要だったのでしょうが、個人的に不快な表現でした。これでは「兄妹のように抱き合っていた」という言葉につながらなかったと思う。
いささか項垂れた帰り道、ふと昔見た商業演劇の記憶が蘇った。
ヒッピーたちが政府に抵抗する姿の表現手法として、20人くらいの男女の役者が全裸で舞台に横一列で並び、客席を睨みつける、という演出を現場で見せられた。あのときもずいぶん辟易しました。
今回はさすがにオペラなので下品だとまでは言いませんが、肉欲に起因する生々しい刺激などではなく、知的好奇心が満たされ、イマジネーションが湧いて止まらなくなるような芸術に触れたかった。
とはいえ、繰り返しますが、音楽が染み入るほどに美しく、歌手も良く、舞台装置も凝っており、壁紙の柄、舞台の奥にかろうじて見える花々までが美しかったです。
■補足
あるご指摘をいただいたので、補足します。
ネタばれになってはいけないと詳細に書かなかったことと、私の書き方が伝わりづらかったのだと思います。「性表現がいけない」と言って否定したかったのではなく、「個人的に抵抗感がある」とお伝えしたかったのです。
目の前で繰り広げられるあの肉体の打ち付け合いを「生命の根源」と好意的に受け入れるには、私にはまだまだ描写が長く、回数が多すぎたようです。文化をじっくり醸成してまいりますね。
■補足2
本作に「エロティシズムやセクシュアルな表現は欠かせない」との指摘を受けたので、補足します。
おっしゃることが理解でき、同意します(^^) おっしゃるとおり本作に欠かせないエロティシズムを、ここまでの直接的な表現ではなく、「セクシュアルな比喩」や「想起させる」もので表現していただいて、「この手があったか!」と、表現方法に関する知的好奇心が満たされ、イマジネーションが湧いて止まらなくなるような芸術に触れたかった、という意図で書きました。作品のエロティシズムとセクシュアリティ自体を否定しているわけではありません。
■見たかったのはこういう演出!「ジュリオ・チェーザレ」
批判するばかりではナンなので、最後に「見たかったのはこういう演出!」として、「ジュリオ・チェーザレ」のリンクを追加しました。
ジュリオはしみじみ、素晴らしいオペラでした。