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読書感想文note【〈寝た子〉なんているの?】

「〈寝た子〉なんているの? 見えづらい部落差別と私の日常」を読みました。
気になった文章を一部引用しながら考えたこと・感じたことを書きました。

他者を尊重するために必要なこと

自分はその手法は批判するけれど、あなたがそうしたいのなら尊重するというスタンスを貫き、

p117

その人が選ぶ「手法」と、その人が「歩みたい道」。
その人の「意見」と、その人の「人格」。
それらを分けて考えることは、お互いを尊重し、建設的な歩みを進めるために大事なことだけど、簡単なことではないとも思う。
でも、やっぱり大事にしていきたい。

「社会」とは?

学校を卒業して働き始めることを「社会に出る」とか、働いている人を「社会人」とかいうのもそれまで当たり前のように使ってきた言葉だが、「有償労働こそが社会」という価値観がベースにあることから生まれた表現なのだろう。

p135

確かに。
学生でも、働いていなくても、「社会の一員」であることに変わりないはず。
誰かを社会から隔絶してしまう線の一つに、『「有償労働こそが社会」という価値観』があるのだと思う。
「自分であること」と、「自分らしくあること」は違って、社会の一員として「自分らしさ」を発揮していけるのは素晴らしいこと。
でも、その「自分らしさ」の発揮の度合いは、必ずしも「お金」で測られるわけではない。
お金で測られる場合もあるが、そのシステム自体に偏りがある場合もある。
現存の社会の価値観や文化、システムに影響され、「社会の一員である」という自覚が薄れ、それゆえに自分の声を上げられなくなってしまう人がいるのは悲しい。
「有償労働」だけが、「社会の一員としての証」になるわけではない。

二つの輪を回す

私自身は、なぜ制服を着なければいけないのか、なぜ髪の毛のゴムが黒紺茶色しかダメなのか、なぜ下着の色が白じゃないといけないのか、注意されるたびに先生に疑問をぶつけていたけれど、先生は「そう決まってるから」「そういうものだから」という回答を繰り返すだけだった。それでも、納得がいかないことに従っていたら自分の心が死んでしまいそうで、私は何度問題視されても自分が好きな色のゴムで髪を結い、好きな色の下着をつけて学校に通っていた。

p161

納得のいかないことに対して、「なぜ?」と声を上げること。
声を上げなければ、穏便に過ごせるかもしれないが、「自分の心が死んで」しまう。
「自分の声を上げる」というのは、「自分自身」、そして「属する文化」の二つの輪を回す必要があると思う。
納得のいかないことや疑問が湧いたことをそのままにせずに、声を発してみるという「自分自身」。
そして、その声を無視しない「文化」。
いくら声を上げようとも、その声が無視され、なんの反応もなく、「ない」ことにされてしまうことが続けば、声を上げていくエネルギーは削がれてしまう。
また、「決まっていることに声なんて上げてくれるな」という雰囲気の中では、いくら「自分の声」を持っていたとしても、それを発することに躊躇が生まれる。
個人としての「自分の声を上げること」と、それを支えてくれるセーフティーネットとしての「文化」。
二つの輪が回るといいなと思うし、どちらかだけに委ねるだけではいけないと思う。

当事者の声を聞く

どんな情報が必要か、どんなサポートがあったらいいか、マイノリティ当事者の声を聞くことなく勝手に想像して、それでいいと思っていた私の態度そのものが間違いだった。聞こうと思えば聞けるのにそれをせず、独りよがりな「配慮」をしたところで、それは自己満足であり、排除なのだ。自分がマジョリティ側になれば最も簡単に、無自覚にこうしてマイノリティを排除してしまうのだと、身に染みた一件だった。

p188

「当事者の声を聞く」ことは、大事にしたいと思った。
「想像」で「配慮」することはできるけれど、やっぱりそれは「当事者」を「無視」していることになる。
一方的ではなく、双方向のやりとりがあることではじめて「お互いにとっての調整」が実現されるのだと思う。

見よう、知ろう

自分が困っていないから見えていないということは、敢えて見ようとしなければ見えないということだ。見ようと心がければ、見えてくる世界はいくらでもある。

p186

自分が特権を持っていることには気づきにくい。それ故に、知らないうちにマイノリティへの構造的差別に加担してしまうのだ。知らなくてもしてしまう差別や、知らないからこそしてしまう差別がある。だから、まずはきちんと知って、差別が「ある」社会構造をしっかり見ることができるようにしておかなければいけない。その上で、自分が何をすべきなのかを考えてほしい。

p259

これも、「社会の一員」としての自覚が関わっているように思った。
「自分は差別はしないから、加担していない、関係ない」ではない。
僕らは、現に差別が「ある」社会で生きている。
それは、特権を持っている人からすれば、「見よう」「知ろう」としなければ、差別は「ない」と勘違いしてしまうかもしれない。
「見よう」ともせずに、差別は「ない」と自分と切り離してしまうのではなく、社会構造を見た上で、「自分の選択」を決めていきたい。
社会構造を知ったとき、自分が特権を持っていることに気づいたとき、「すぐにできること」は少ないかもしれない。
でも、うなだれるだけではなく、すぐにできることは少なくとも、その不平等さを解消するための道を「社会の一員」として模索したい。

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気になった方はぜひ読んでみてください。
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