読書感想文note【〈寝た子〉なんているの?】
「〈寝た子〉なんているの? 見えづらい部落差別と私の日常」を読みました。
気になった文章を一部引用しながら考えたこと・感じたことを書きました。
他者を尊重するために必要なこと
その人が選ぶ「手法」と、その人が「歩みたい道」。
その人の「意見」と、その人の「人格」。
それらを分けて考えることは、お互いを尊重し、建設的な歩みを進めるために大事なことだけど、簡単なことではないとも思う。
でも、やっぱり大事にしていきたい。
「社会」とは?
確かに。
学生でも、働いていなくても、「社会の一員」であることに変わりないはず。
誰かを社会から隔絶してしまう線の一つに、『「有償労働こそが社会」という価値観』があるのだと思う。
「自分であること」と、「自分らしくあること」は違って、社会の一員として「自分らしさ」を発揮していけるのは素晴らしいこと。
でも、その「自分らしさ」の発揮の度合いは、必ずしも「お金」で測られるわけではない。
お金で測られる場合もあるが、そのシステム自体に偏りがある場合もある。
現存の社会の価値観や文化、システムに影響され、「社会の一員である」という自覚が薄れ、それゆえに自分の声を上げられなくなってしまう人がいるのは悲しい。
「有償労働」だけが、「社会の一員としての証」になるわけではない。
二つの輪を回す
納得のいかないことに対して、「なぜ?」と声を上げること。
声を上げなければ、穏便に過ごせるかもしれないが、「自分の心が死んで」しまう。
「自分の声を上げる」というのは、「自分自身」、そして「属する文化」の二つの輪を回す必要があると思う。
納得のいかないことや疑問が湧いたことをそのままにせずに、声を発してみるという「自分自身」。
そして、その声を無視しない「文化」。
いくら声を上げようとも、その声が無視され、なんの反応もなく、「ない」ことにされてしまうことが続けば、声を上げていくエネルギーは削がれてしまう。
また、「決まっていることに声なんて上げてくれるな」という雰囲気の中では、いくら「自分の声」を持っていたとしても、それを発することに躊躇が生まれる。
個人としての「自分の声を上げること」と、それを支えてくれるセーフティーネットとしての「文化」。
二つの輪が回るといいなと思うし、どちらかだけに委ねるだけではいけないと思う。
当事者の声を聞く
「当事者の声を聞く」ことは、大事にしたいと思った。
「想像」で「配慮」することはできるけれど、やっぱりそれは「当事者」を「無視」していることになる。
一方的ではなく、双方向のやりとりがあることではじめて「お互いにとっての調整」が実現されるのだと思う。
見よう、知ろう
これも、「社会の一員」としての自覚が関わっているように思った。
「自分は差別はしないから、加担していない、関係ない」ではない。
僕らは、現に差別が「ある」社会で生きている。
それは、特権を持っている人からすれば、「見よう」「知ろう」としなければ、差別は「ない」と勘違いしてしまうかもしれない。
「見よう」ともせずに、差別は「ない」と自分と切り離してしまうのではなく、社会構造を見た上で、「自分の選択」を決めていきたい。
社会構造を知ったとき、自分が特権を持っていることに気づいたとき、「すぐにできること」は少ないかもしれない。
でも、うなだれるだけではなく、すぐにできることは少なくとも、その不平等さを解消するための道を「社会の一員」として模索したい。
*
気になった方はぜひ読んでみてください。
noteの感想もコメントでお待ちしています!
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?