NYと交換された島|ナツメグのルーツを辿る
世界一のシェアを誇るインドネシアのナツメグ。現在は様々な国で栽培されていますが、それが19世紀近くまでインドネシア絶海の孤島、「バンダ諸島」でしか栽培されていなかったことは、あまり知られていないかもしれません。
バンダ諸島は、2300年〜3500年前にナツメグが調理された最古の記録が残っている場所であり、ナツメグの原産地。1511年にポルトガルに支配された後、1602年にオランダが進出してポルトガルを駆逐。その後イギリスが進出してきたことでポルトガルと対立し、教科書に載っている「アンボイナ事件」が起きました。その頃、日本では関ヶ原の戦いの後の大名改易で武士が失業。東南アジアに傭兵として渡った日本人の中に、このアンボイナ事件に関わった人もいたのだそうです。
さらに身近なところでは、1667年に当時オランダが支配していたマンハッタン島(現在のニューヨーク)と、ナツメグを巡ってバンダ諸島の一つ「ルン島」が交換された歴史があります。そんな激動の時代を生き抜いてきた人々は、今どんな風にナツメグの歴史を受け継いでいるのか…?私はインドネシアでホームステイをしていたアンボンから、100km以上離れた小さなその島へ行ってみることにしました。
そしてもう一つ、どうしても確認したいことがありました。それは前回の記事に登場した、セラム島のジャスランさんが、
「バンダ諸島のナツメグは、他の地域のものと違うんだ。」
と話していたこと。実際にどう違うのか?絶対にこの目で確かめなくてはいけません。
アンボンからプロペラ機で1時間ほど、空港があるのはバンダ諸島の交易の中心地「バンダネイラ島」。徒歩で回れるほどの小さな島です。この島をハブに、バンダ諸島の他の島々を結ぶ公共のボートが行き来します。私はホテルに荷物を置くなりすぐに準備をして、農家に会うために向かいにあるバンダ諸島で一番大きい「バンダべサール島」を目指しました。例によって農特に当てはありませんでしたが、多くの人々がこの島でナツメグ栽培をしていると聞いていたので、ボート乗り場から一番近くの商店を訪ねてみました。
商店を訪ねた理由は2つありました。1つはこれまでの経験上、地域住民からナツメグを集荷している可能性があること。集めていなかったとしても、少なくとも地域のハブとして、様々なネットワークを持っているはずだから。もう1つの理由は、島に着くなりスコールに見舞われ、雨宿りをするため。
「ナツメグ農家?それならお店の裏の丘にいいところがあるから、この雨が落ち着いたら連れてくよ。」
と、小雨になったのを見計らって、店主がバイクに乗せて連れて行ってくれることに。急な坂道を上り、集落を通り抜けると、高い木が覆い茂る森の中に入っていきます。樹々が雨を和らげてくれるのを感じながら小道を進んで行くと、ナツメグの樹に囲まれた小さな山小屋に到着しました。
出迎えてくれたのはロミスタさんという女性。山小屋の中ではコーヒーやお菓子、日用品、そしてお土産物としてナツメグも販売しているようでした。彼女たちはここを訪れる観光客に農園を案内しながら、お店を切り盛りして生計を立てているようです。
「ほら、ここで採れたナツメグ、メース、クローブそしてシナモン。あと、バンダ諸島はアーモンドも有名なの。」
そう言って、収穫したものをプレートに乗せて見せてくれました。バンダ島で初めて見るナツメグ。他の産地で採れたナツメグとどう違うのか?!手に取ってじっくりと眺め、香りを嗅いでみました。けれども、その違いはハッキリと分かりません。
ハッキリと違っていたのは、アーモンドの方です。明らかに日本でよく知られている「アーモンド」とは異なります。私はロミスタさんに、
「地元の人はこれをなんと呼びますか?」
と尋ねると、
「私たちはケナリって呼んでるわ。オランダ占領下の時代にナツメグのシェードのために植えられた、古い樹なの。」
と答えてくれました。実はこのケナリの存在はバンダ諸島に来る前から聞いていました。「野生のナッツ」という触れ込みでドイツのメーカーが商品化していて、日本でも販売されているからです。バンダ諸島のナツメグ農家は、このケナリの実を収入源の一つとしているところも少なくありません。
小屋のすぐ近くのケナリの樹を見せてもらいましたが、その大きさに驚きます。地元の人々はその樹齢は300年以上だと言いますが、実際のところは分かりません。ただその存在感と、生態系に与えている影響は確かでしょう。ナツメグは日向を好むため、ロミスタさんの言うシェードは、日除けというよりも、豪雨や強風から守ってくれる役割の方が大きいと推測しました。
バンダネイラ島に戻るボートでは、隣になったムスリムの家族が話しかけてくれました。話を聞くと、主人のリストさんは地元で警察をしながら、ナツメグに関するNGOで活動をしていると言うのです。私は連絡先を交換して、NGOの活動を見学させてもらうことにしました。
翌日リストさんに連れられて、NGOの活動をしている拠点に向かいました。現地で案内してくれたのは、リーダーをしているソロマンさん。彼らは、バンダ諸島のナツメグを後世に繋いでいくために、苗木づくりと植林の活動をしていました。歴史的な場所であるだけでなく、ダイビングスポットとしても有名なバンダ諸島は、欧米からの観光客も多いため、訪れた外国人たちにガイドツアーや植林といったエコツーリズムを提供し、その収益を事業運営に充てているようでした。
「2016年からこの活動を始めて、ナツメグの樹以外にもマンゴーなどの果実の苗木づくりもしている。これらの果実の樹は海風や強風からナツメグを守ってくれるんだ。ここでは地元の若者を中心に約30人が活動していて、これまでに6,000本以上の苗木をバンダ諸島の全ての村々に無料で届けてきた。バンダ諸島は年々、嵐や高波によって島が小さくなっている。だから島の内陸に新たに植樹しているんだよ。」
と教えてくれました。さらにソロマンさんはこう続けます。
「バンダ諸島のナツメグは特別だと言われている理由の一つは、土の違いにあるんだよ。我々はブルームケナリと呼んでいて、もしも樹から落ちたナツメグの実をそのままにしておくと、どこでも成長してしまうんだ。そのくらい土の肥沃度が高い。バンダナツメグは世界でも有名で、米国で高い評価を受けている。オイル含有量は96%もあり、水分量はたったの4%。ジャワ島のバンドゥンにある研究所に土のサンプルも送って調べてもらったところ、良い土の理由は火山のお陰だと分かったんだ。」
また、エコツーリズムをしているだけに、徹底してオーガニックに取り組んでいました。ナツメグの樹は時折病気にかかってしまうそうですが、薬は使わず草を燃やし、そのスチームで治すのだそうです。この日はジャカルタから大学生たちが見学に来ていて、インドネシア国内でもこうした取り組みの価値が広がることを期待しました。
その次の日、リストさんの奥さんがナツメグを使った2種類のバンダ料理のレシピを教えてくれるというので、前のめりにお宅にお邪魔させていただきました。というのも、インドネシアはナツメグの産地であるにも関わらず、地元の人たちは普段ほとんど料理に使いません。だからこそ、ナツメグ発祥の地でナツメグがどんな風に使われるのか、とても興味があったのです。ユニークだったのは、ホールのナツメグを割って食材と煮込むというレシピ。さらに、捨てられることも多いナツメグの実の部分を出汁に使ったレシピは印象的でした。教えてくれたエフィさんによると、後者の方が歴史のあるレシピなのだそうです。(長くなってしまったので、レシピの詳細は追ってinstagramにアップします!)
週末、バンダネイラ島から1日1便出ている公共のボートに行って、最古のナツメグ料理の証拠となる遺跡が発掘された「アイ島」に行ってきました。島民はわずか500名という小さな島で、現在人々はどんな暮らしをしているのか…?
しかし、島に着くなりネットが繋がらなくなり、Google翻訳が機能しないという危機に直面しました。地元の人はもちろん英語はほとんど通じません。ひとまず、島にある数少ない宿の1つにチェックインし、英語が少し話せるオーナーに話を聞きました。けれども、遺跡について知らないどころか、ナツメグの歴史を観光資源として活用している地元住民はいなかったのです。
たった1日の滞在でも、ここまで来て何も出来ずに過ごす訳にわいかないと、ひとまず島を歩いてみることに。アイ島は本当に小さく、民家は北の沿岸1kmほどにほぼ集中しています。そのあちこちの軒先で、ナツメグやメース
が干されているのです。そのうちの一軒で、玄関を開けてメースをナツメグから剥ぎ取る作業をしているお母さんと目が合いました。
「ナマサヤミサ、ジャパング、イニ、オケ?(私の名前はミサと言います。日本人です。ここ、いいですか?)」
と言って、思い切ってお宅にお邪魔させていただくことに。歓迎してくれたお母さんは、別の部屋にいた娘さんを呼び出しました。彼女はリアと言って、25歳でお母さんと2人暮らし。早くにお父さんを亡くして、現在は農家としてナツメグやクローブ、ケナリを収穫し生計を立てています。なぜそんなことが分かったのか?リアは私がアイ島に滞在している間中、島で通じるスマホのネットワークを共有してくれ、翻訳することができたからです。
さらにリアは、先祖代々受け継いできたというナツメグ農園を案内してくれました。中には最近植えられたであろう若い樹も。リアはそこからほど近いビーチに私を連れて行き、色々な話をしてくれました。男性は実家を継ぐ一方で、女性たちはアンボンやジャカルタなどに嫁ぐ人も多いこと。若者たちは農家を継ぐことにポジティブであることなど。アンボンでは若者の農家離れが進んでいるという話も聞いていたので、それを聞いて私はほっとしました。
私はリアに、この先チャレンジしてみたいことについて聞いてみました。彼女は戸惑いながらも、こう答えたのです。
「未来の子どものために、丈夫な新しいナツメグの苗を植えることが、私の地道な仕事の楽しみの一つなの。」
私はその謙虚で尊い答えに、うっかり泣きそうになりました。侵略を繰り返されながらも、この場所で確かに生き人たちの価値観が詰まっている。一方で、気候変動によって一番最初に被害を受けるのは、こうした謙虚な生活をしている人たちであることも、思い出さずにはいられませんでした。
海の向こうには、かつてマンハッタンと交換されたルン島が佇んでいました。その美しさの価値は、資本主義の社会では測りきれないでしょう。
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