言語と非言語の間 〜 詩人とコーチ
「現代詩手帖」3月号に、短い文章を書きました。
3月号の特集は「詩と災害」。
その中の「この一冊、この一篇」というアンケート。
微妙に趣旨を取り違えた気がしないでもないですが(笑)、
少し切り口を変えていきたかったこともあり、
荒了寛/苫米地英人共著「煩悩の教科書」を推薦しました。
荒了寛師(故人)は、
福島県出身の僧侶。当時、天台宗大僧正。
2013年の本なので、震災の話が随所にありますが、
この本の真髄は「阿頼耶識(アラヤシキ)」と、
「未那識(マナシキ)」の理解にあると思っています。
詳しくはぜひ本書を手にとってください。
この本にもある、煩悩たる自我「言語束縛」について、
現代詩手帖の献本を手にとって眺めながら、改めて考えました。
言葉で人を死に追い込むことができるのは、想像すら容易いことです。
それなのに「言葉は無力だ」などという人がいます。
言葉だけでなく、数学にしても、音にしても、色にしても、
意識化された言語には、有用性と裏腹の加害性があります。
言語化すると、必ずそこに心理的盲点が生じ、
逆進的に置き去りにされたものとの距離が開いていきます。
東北の震災に関連するアート作品が、
一部の人々に受け入れられなかった理由もそこにあります。
(さらにいうなら災害時にはIQが下がって駄作も増えます。)
詩人になりたければ、
最低でも言語の加害性を超克したところからが、
キャリアのはじまりと言えます。
もっともそれは、あらゆる仕事において言えることです。
無論、コーチング(本物に限る。偽物は論外。)もそうですが、
非言語を旨とする苫米地式コーチングにおいては、
言語の加害性を回避することができます。
私が苫米地式コーチを生涯の職業に選んだ最大の理由はそれです。
無意識をうまく扱うことができてはじめて、
意識に上るものも詳細に操ることができると、私は考えています。