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「訪仏線」と書いて「ほうぶつせん」と読ませたい

前から気になっていた"note"なるサービス。
これが最初の投稿です。

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まず「訪仏線」とは何か。
もちろん数学や物理でおなじみの「放物線」の音を借りた造語なのだが、まずお断りしておかなければならないのは「訪仏」(ほうふつ)…すなわち「フランスを訪れる」こと、およびその旅行記・滞在記的なものでは一切ない。
残念ながらフランスには行ったこともない。

もっと素直に漢字本来の意味に即して…そう、まさに「仏」(ほとけ/ぶつ)を、主には「仏像」を訪ねた記録(というか、どちらかというと記憶だろうか)である。
旧字体で「訪"佛"線」と表記した方がより意図に忠実で誤解もなかったかもしれないが、そこはなんとなくバランス的にシンプルに新字体にしてみた。

で、「訪仏線」と名前が決まったところで…といいつつ、過去10年ほどの間に二度同名ブログを立ち上げるも結局続かずだったのだが…今回三度目の正直でnoteにて再起をかけるにあたり、今一度この名前の音や語感だけでない、込めたいイメージや思いを、正直後付けではあるがいろいろ考えてみたい。

まず、見仏、観仏、拝仏…じゃなくてなぜ「訪仏」なのか?
自分の仏像拝観活動(仏活)やそのための旅(仏旅)のスタイルや目的を振り返るに、ただ「見る(観る)」だけでもないし、純粋に信仰心だけで「拝む」だけとも違う。
それらすべてを当然内包した行為である。

ただ、いずれにしても仏、あるいは仏像がおわす場所へ赴き、会いに(秘仏で直接の対面が叶わない場合でも)行かなければいけないことは確かだ。
そのために、先方の住所や連絡先を調べ、時には人を介して(市町村の文化財課など)アポを取り、訪ねていく。
あるいは、予約不要のお寺であれば、好きなタイミングでふらっと訪ねてみる。

もちろん場合によっては先方の都合が合わず拝観できないこともあるし、予約が不要だからと油断して行くと、定休日(博物館・美術館でなくても、お寺でもたまにある)だったり、修理に出されていて不在で空振りなんてことも結構ある。

なんだろう、そういうことも含めて、また前後の時間的な幅をともなう準備や思いも含めて、単にモノを見物・見学するのとは全く違う、まさに人を「訪ねる」行為と同じであるし、この表現がやはりいちばんしっくりくる。

次に「線」。
自分は一応運転免許は持っているものの、今は完全なるペーパードライバーである。
生まれつき運動神経も反射神経も注意力もなく、単純に運転が下手で危ないからだ。
そのためかなり辺鄙な場所にあるお寺などにも車やレンタカーは使わず、公共交通機関と徒歩で行くしかない。

だから、鉄道のローカル"線"や路"線"バスにはなじみが深いし、愛着も感じる。
けっして「鉄ちゃん」ではないし、全然詳しくないが、乗り鉄度はかなり高いと思う。
青春18きっぷなどお得なフリーきっぷを利用して仏旅のコースや行程を考えるのも大好きだ。
この件はまた改めて記事にしたいし、仏像ブログがすでに数多ある中で当noteの個性や特徴にもしていきたい部分だ。

そして最後に「放物線」という言葉からくるイメージを重ねてみたい。
文字通り空中に放ったボールなどの物体が描く緩やかな曲線のことだが、このいわゆる「弧を描く」イメージはまず単純に美しいし、よくよく考えれば仏像の造形として、眉、衣文、ポーズ、輪郭などあらゆる部分に取り入れられ、ある意味この曲線で構成されているとも思えてくるし、またこの弧の描き方こそが像の美を決める非常に大きな要素にもなっている。

また、「訪仏線」とはどうイメージが重なるか。
先に述べたように、車が使えない我が「訪仏線」の旅は、最短コースで行けない遠回りの連続だ。
直線ではなく大きく迂回して、つまり大きく弧を描きながら仏を訪ねるのである。
でも、だからこそ見えてくるものがあるし、それこそがこれからこのnoteで書いていきたいことなのかもしれない。

目的や目的地としての「点」としての仏像やお寺のことだけでなく、そこに至るまでに長い「線」を描くからこそ目にした風景、風土、土地柄、自然、人…

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以上、かなりこじつけもあるが、こんな理由やイメージからなにかこれ以外ないほどぴったりな気がして、三度目の正直の再々デビューでもこの名前だけはどうにも手放すことができなかったのである。

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