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『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』が描いた"救済"と"責任" 

どうも、こうきです。

本作は自分の言葉で書き記しておきたいことが多くあったため、Filmarksではなくこちらに記載する。

世界では2021年12月に公開されると瞬く間に記録を塗り替え、現時点(2022年1月)で既に全世界歴代興行収入トップ10入り。
日本でも2022年1月7日の公開以降、コロナ禍での実写映画No.1を記録する大ヒットスタートとなった『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』
公開前からかつてのヴィランが参戦することもあり、期待値が最高潮に達していた本作。監督からも「この作品はスパイダーマン版エンドゲームである」と称された本作は、私たちファンに何を示してくれたのか。

最速上映での鑑賞合わせて計3回鑑賞してようやく自分の素直な感情、本作から伝わるメッセージについての私なりの解釈が整理できたため、ここに書き記す。完全に個人的な意見の集約であることには留意してもらいたい。

※以下『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』、過去スパイダーマンシリーズ、MCU作品のネタバレを含む。


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あらすじ

前作でホログラム技術を武器に操るミステリオを倒したピーターだったが、ミステリオが残した映像をタブロイド紙の「デイリー・ビューグル」が世界に公開したことでミステリオ殺害の容疑がかけられてしまったうえ、正体も暴かれてしまう。

マスコミに騒ぎ立てられ、ピーターの生活は一変。身近な大切な人にも危険が及ぶことを恐れたピーターは、共にサノスと闘ったドクター・ストレンジに助力を求め、魔術の力で自分がスパイダーマンだと知られていない世界にしてほしいと頼むが……。

(映画.comより引用)

ストーリー

①懐かしきヴィランとの再会

まずなんと言っても、過去作ヴィランのアッセンブル。ドクター・ストレンジの魔法が暴走したことで、スパイダーマン=ピーターパーカーである事実を知るものが、マルチバースから押し寄せてくることになった。

2002年公開のサムライミ版『スパイダーマン』からリアルタイムで追ってきた私にとっては感慨深いものがあった。ドクターオクトパス(オットー・オクタビアス)の登場から畳み掛けるように現れるヴィランオールスターに心躍らされた。

しかも、改変されるのではなく、かつての彼らのままストーリーに登場させてくれたMCUには感謝する。『ワンダヴィジョン』でのピエトロ『ホークアイ』でのキングピンなど、過去シリーズからのサプライズ出演は出落ち感満載で、キャラクターを愛する人々を嘲笑うかのような扱いだったため、見るまでは不安が勝っていたけれど、心配無用だった。

その意味では、今回MCU作品に初めて本格参戦したマット・マードックことデアデビルは今後楽しみな存在である。今年3月には新ドラマシリーズ『ムーンナイト』の配信を始まるなど、MCUのダークヒーロー達の活躍が今後は鍵を握りそうである。

②二面性を持つ大人達

物語は進み、全5人のヴィランを地下室に収容したピーターだったが、彼らがそれぞれの世界で死ぬ運命であることを知らされる。

一刻も早く彼らを元の世界に戻そうとするストレンジ。ピーターはメイおばさんの助言から、彼らを救うためストレンジに立ち向かう。ミラーディメンジョンでのストレンジとの抗争に勝利したピーターは、ヴィラン達の運命を変えるため、能力を無くすという治療を行うことになる。(この救済についてはのちに詳しく考察する。)

 ドクター・オクトパスのシステムチップを取り除き、彼の意識を取り戻すことに成功。治療は順調に進んでいたが、強い嫌悪感をスパイダーセンスが示す。その危機察知はグリーンゴブリン(ノーマン・オズボーン)の登場だった。ノーマンの人格を乗っ取り、俺たちは神であり選択する必要はない、奪い取ればいいの主張するゴブリンが暴走する。ゴブリンの主張に賛同したエレクトロ(マックス・ディロン)もアークリアクターを身につけて逃走。サンドマン(フリント・マルコ)とリザード(カート・コナーズ)も逃げ出し、事態は最悪な方向に進み出す。

ここで注目すべきはやはり大人の二面性だろう。『スパイダーマン:ホームカミング』ではヴァルチャー、『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』ではミステリオ、そして今作ではグリーンゴブリンと、MCUスパイダーマン3部作では一貫して大人の二面性が描かれてきた。

表では家族を守るため懸命に働く父親でありながら、裏ではアベンジャーズやヴィランの武器を違法で販売する悪徳業者であるヴァルチャー。
表では自分の世界を守れなかったことを悔やみ、同じ過ちを繰り返すまいと戦うヒーロー、裏ではトニー・スタークのハイテク技術を手に入れ、世界を我がものにしようとする詐欺師であったミステリオ。

彼らの二面性が移り変わる表情を上手くカメラに捉えるジョン・ワッツの手法にはあっぱれとしか言いようがない。特にヴァルチャーとピーターが車内で対話するシーンで伝わる緊迫感は絶妙で、マイケル・キートンの顔をドアップに映し出すことで大人が持つ怖さを伝え、観客に恐怖を植え付ける。

今作におけるゴブリンは二面性のはっきりした人物であるが、その違いをこれでもかと見せつけるウィレム・デフォーの演技は見るものを魅了した。ピーターとの戦闘シーンで顔面を殴られているにも関わらず、満面の笑みで佇むゴブリンの様子は何度見てもゾッとする。

マイケル・キートン、ジェイク・ギレンホール、ウィレム・デフォーという名俳優陣を最大限生かした演出だと言える。

③最大のサプライズ

ゴブリンとの戦闘は最悪な形で一旦終焉を迎える。メイおばさんは「大いなる力には大いなる責任が伴う」という言葉を残して帰らぬ人となる。ヴィランを救うという過ちを選択した自分自身を責めるピーター。体も精神も限界まで疲弊した彼の前に現れたのは、別世界の自分自身だった。

トビー・マグワイアアンドリュー・ガーフィールドの2人が演じるピーター・パーカーの登場である。

予告の段階である程度は予想できていたけれど、まさかそんなはずはないだろうという考えから期待は持たずに見ていただけに、彼らの登場シーンは自分の中で堪えきれないものがあった。特に初見時は登場シーンの会話を字幕で追えなかったほど、ただただ驚き感動でいっぱいいっぱいだった。

そして、トビーピーターは『スパイダーマン3』、アンドリューピーターは『アメイジング・スパイダーマン2』から時が経過した姿で登場させてくれたことに感激した。その方が過去作を否定することもなく、受け手側で考察を膨らませることができるだけでなく、我々が見えていないだけで、ピーターはそれぞれの人生を歩んでいることをたしかに実感できたから。

その意味がトム・ホランド演じるMCUピーターに出会うシーンで如実に現れている。トムホピーターが2人の歩み寄ろうとすることを拒絶し、責任を放棄しようとする。メイおばさんを死なせてしまったことに対する責任を重く受け止めていた。そして、ゴブリンを殺したいという復讐心が芽生えていた。

そんなトムホにトビーピーター、アンドリューピーターが先輩として語りかける。アンドリューピーターの「I lost Gwen. She was my MJ」から語られる説得にはグウェンを失った喪失感、そこから立ち直れず、迷走している自分自身、そんな自分のようにはならないでほしいという心からの想いが溢れていた。
何かと批判の的にされがちなアメイジングシリーズではあるが、私はアメイジングシリーズが最も好きである。好きだからこそ、あの終わり方にモヤモヤを抱えて今まで過ごしてきた。そんなモヤモヤを解消してくれたアンドリューピーターの切なる想いの吐露は感極まるものがあった。その後のシーンで私の心は完全に救済されるのだが、そのシーンについては後ほど触れる。

そこからはファン心理を理解しているなという会話やシーンの連続。見たかったものを全部見せてもらえ、まるで夢を見ているような感覚になった。ウェブシューターやかつてのヴィランについて語り合う彼らをもっと多くの時間見ていたいと思えた幸せな時間だった。

④自由の女神での最終決戦

いよいよスパイダーメンとヴィランオールスターの最終決戦が開始。序盤、連携が上手くいかないスパイダーメン。作戦会議でトムホピーターがアベンジャーズでの経験を活かして指揮を取る。そして、アンドリューピーターから発せられる「I love you guys」というセリフに心が温まった。アドリブだったことを知って、より一層このシーンが好きになった。アンドリューの本心が感じられ、私たちファンの想いを乗せてくれたようなシーンだった。

フリント、コナーズと治癒していき、オットーの参戦によってマックスの治癒にも成功。ここでのトビーピーターとドックオクの会話が印象的で胸を熱くさせられた。

ストレンジが舞い戻り、いよいよ彼らを元の世界に戻そうとする際、ラスボス・グリーンゴブリンが現れる。パンプキンボムの爆発により、自由の女神が持つキャプテン・アメリカの盾が崩れ落ち、MJが空に舞い落ちてしまう。必死に手を伸ばすトムホピーターを邪魔するゴブリン。

そこに駆けつけたのは、かつて同様のシチュエーションでグウェンというかけがえのない存在を失ったアンドリューピーターだった。このシーンは全てのアメイジングファン、そして何よりアンドリュー自身を救済した瞬間だったと思う。
打ち切りという形で幕を下ろしたアメイジングシリーズ。シリーズの中で唯一2部作で終了した作品であり、アンドリューピーターは彼女という存在を失った唯一のピーターだった。トビーピーターもトムホピーターも抱いていない喪失感を吐露する場もなく終焉を迎えていたアンドリューピーターがこの瞬間に何を思い、感じ、前に進むことができたのか、言葉がなくてもアンドリューの表情だけで読み取ることができた。
自らの世界では救えなかった存在を、別の世界で救うことができた。その事実は彼を救い、一歩踏み出すきっかけを与えただろう。本作で最も琴線に触れた、ノスタルジックなシーンであった。

そして、トムホピーターとグリーンゴブリンの一騎打ち。お互いズタボロになりながらも戦いをやめない両者。しかし、メイおばさんの仇であるゴブリンに対する復讐心の強さからトムホピーターはゴブリンを圧倒していく。トムホの殺意剥き出しで殴りかかる様子は、緊迫感を作り出すには十分すぎるほどの圧力があった。そして、グライダーを手に取ったトムホピーターはとどめの一撃を狙う。

その一撃を止めたのは、トビーピーターだった。彼もかつて復讐心に囚われ、ベンおじさんを殺したとされていた相手に復讐し、真犯人であったサンドマンも殺そうとした。けれど、その心は決して晴れなかった。
そして、ゴブリンも自らの戦闘によって命を落とし、その結果友人であるハリーも失うことになった。多くを失った彼だからこそ、命を奪うという行為で報われないことを誰よりもわかっていた。誰にも命を奪う権利はないというメイおばさんの助言をしっかりと受け止めたトビーピーターの優しい眼差しにトムホピーターの殺意も消失する。サムライミ版3部作で描かれたピーターの物語により説得力を持たせるシーンとなった。

⑤辛く悲しいラストへ

ゴブリンの治療にも成功したピーター達だったが、マルチバースの扉を塞ぐことができず、次元の裂け目が広がり続けていた。
解決方法はただ一つ、ピーター・パーカーの存在を世界中の人々が忘れるという魔術しか残されていなかった。MJやネッド、ハッピーという強い絆で結ばれている人々も他人になってしまう。それでもピーターは自らを犠牲に世界を救うことを決断する。

トビーピーター、アンドリューピーターとの別れ。「ありがとう」と抱き合う3世代のスパイダーマンは夢物語だと思っていたファンの理想を実現し、映画史に残る出来事をやってのけた本作にふさわしく、輝かしいシーンであった。

そして、MJとネッドとの別れ。別れを拒むMJに、必ず会いに行くと伝えるピーター。愛してると伝え、返答は今度会った時にと繋がりを残すMJ。親友を信じているからこそ否定せず、受け入れるネッド。3人が紡いできた物語が頭の中を駆け巡り、壮大な音楽と共に描かれたピーターとの別れは美しく儚いシーンとなった。

魔術の成功で平穏が訪れたニューヨーク。ピーターは自分を思い出してもらうため、MJとネッドを訪ねる。そこには、大学進学を控え、ごく普通の暮らしをするMJとネッドがいた。
ありのままを伝え自分を思い出せば、また危険に巻き込んでしまう。自分が関わらない方が2人の人生は豊かで幸せなものになるかもしれない。そう考えたピーターは真実を隠し、その場を立ち去る。
高卒認定試験に挑みながら、アパートを借りて一人暮らし。かつてない孤独に立ち向かいながら、ピーターはお手製スーツを纏い、ニューヨークの街に飛び立つ。親愛なる隣人スパイダーマンとして。

”救済”の意義 


本作の重要なテーマとして挙げられるのが、"救済"である。過去ヴィランへの救済、トビーピーター&アンドリューピーターへの救済。過去シリーズで成し得なかった救いを、本作ではトムホピーターを通して行っていた。

本作に対する否定的な意見として挙げられるのも、この救済という行為に対してだと考えられる。いくらヴィランであろうと、個人の自由を束縛し、一方的な治療を行うことは正当化されるべきではないという主張は、至極真っ当な意見である。それほどヴィランの能力を一方的に無くすという行為は、自由を奪う危険な行いだとも言える。しかし、あの場で彼らの命を救うにはその他の手段があったとは思えないのである。

この論点で焦点に当てるべきは、マックスの存在だろう。オットーとノーマンは自らの意識を乗っ取られる形で意図せずヴィラン化した存在であり、処置を施さざるを得なかった存在。フランクとコナーズは、スパイダーマンとの戦闘で命を落とさないものの、意図せず能力を手にしてしまった結果、ヴィランにならざるを得なかった背景がある。

マックスも自らの意思と反して能力を手にし、思わぬ行き違いからスパイダーマンを逆恨みし、ヴィランとなってしまった。根源的には意図せず能力を得たことが災いの元であったと言える。しかし、マックスは今までのヴィランと比較しても、そもそもの人物描写が希薄で、どういった人格を持つ人物なのかが最も不明瞭でもある。本作でもアンドリューピーターが「マックスは最高に優しいやつだった」と述べているが、果たしてピーターの知っているマックスが全てなのかはわからない。スパイダーマンを過剰に崇拝していたかつてのマックスも相まって、元々ヴィランとしての素質が備わっていたとも考えられる。

ヒーローとヴィランは紙一重。両者の関係性は、たった1つの違いで変わる。それは、「能力を誰のために使うのか。」自らの意思で、己の野望、自由のために使う決断を下した瞬間、ヴィランになってしまう。

本作序盤のマックスは、自らが死ぬ運命を逃れるために、能力を失う選択を受け入れる。しかし、どこかでその決断に納得できない自分がいる。このマックスの本音とも言える部分はまさにヴィランそのものなのである。アークリアクターを手に入れ、元の世界に戻らない選択をしたマックスは、本作に登場する人物において自らの意思でヴィランを受け入れた唯一の存在となった。

こうした背景から自らの意思でヴィランを選択したマックスを治療する行為は否定されるべきものではないと考える。マックスの能力を治療しなければ、より多くの人々を巻き込み、被害が拡大していたためである。無理やり元の世界に帰すこともできたわけだが、ピーターはマックスの命を守る選択をした。どんな命も死んで良い命などない、命より優先される能力など存在しないのである。

本作では過去ヴィラン達の救済に加えて、トビーピーターとアンドリューピーターの救済としても大きな役割を担っていた。
自らとの戦闘で命を落としたノーマンとオットーを救ったトビーピーター、能力を授ける手助けをしてしまったコナーズと戦闘によって致し方なく命を落としてしまったマックスを救い、自らもグウェンを失った喪失感から救われたアンドリューピーター。
ヒーローと一般人の2面性に苦労しながら孤独に戦ってきた両者の報われてこなかった、悲しき要素を癒すことができた。
同時に、我々ファンの過去シリーズで感じていたモヤモヤを全て取り払ってくれた。登場人物のみならず、ファンの心も救済した作品なのである。

以上のように、あまりにも多くの人物を救済した本作は、1人の青年、トムホピーターの犠牲によって成り立っている。

”責任”との対峙

世界中の人々がピーター・パーカーという存在を忘れるという思わぬ形で幕を下ろした本作。この決断を通して見える、ピーターの成長は、歴代スパイダーマンにはない説得力を持っている。

そもそもMCUスパイダーマンの過去シリーズと比較して最も大きな違いは、他のヒーローの存在である。
ピーターは常に大人と共に行動してきた。『シビル・ウォー』から『エンドゲーム』まではトニー・スタークという師匠であり、父親のような存在、『ファー・フロム・ホーム』ではニック・フューリー(厳密にはスクラル人)。そして本作ではドクター・ストレンジと、ピーターの周囲には必ず先輩ヒーローが帯同し、彼のサポートを行なっていた。要は、1人のヒーローとしての立場を確立するまでにはいかず、あくまでアベンジャーズの一員、子どもヒーローとして描かれてきた。劇中でストレンジがもらした「まだ子どもであることをすっかり忘れてしまう」というセリフからも、ピーターは子どもであり、守られる存在であることが示されている。

そんな子ども扱いする大人に対し、自らの実力を示そうとする様子が『ホームカミング』で描かれ、自らの失態で事態を悪化させないために戦う様子が『ファー・フロム・ホーム』で描かれた。
この2作で最も留意すべき点は、そもそもの根源がトニー・スタークの存在であるという点である。ヴァルチャーはトニー・スタークが支援するダメージ・コントロール社に仕事を奪われる形になり、悪事に手を染め始めた。ミステリオは、自らと自ら生み出した技術を不当に扱われたことに腹を立て、ヴィランとなっている。つまり、これまでのピーターはトニー・スターク、師匠の尻拭いを任される形におさまっていたのである。

打って変わって本作では、ストレンジの魔術がヴィラン集結の元凶ではあるものの、ピーターが魔術の邪魔をしたことが最も大きな原因となっている。初めてピーター自身の行いが招いた事態なのである。
その責任、彼らを救済し、元の世界に戻すことに対して、ピーターは一度目を逸らしてしまう。自らの出る場ではないと事態の収束を一刻も早く済ませようとする。
そうした中でも、メイおばさんの助言と運命だと決めつけ、命を救う方法を模索しないストレンジに対する反抗心からヴィランの救済を決行する。
ここで注目すべきは、メイおばさんという大人の存在が決断に影響を与えていることである。

しかし、その行いがメイおばさんを失うという最悪の事態を引き起こしてします。もう救済などどうでもいい、自分の責任ではないと、再び責任から目を背けるピーター。そこに、トビーピーターとアンドリューピーターが語りかけ、復習の無意味さ、スパイダーマンとしての責任を語りかけ、ピーターは再び立ち上がる。
ここでも、先輩スパイダーマンという大人の存在があることを忘れてはならない。

全ヴィランを救済したものの、マルチバースの扉は拡大を始め、ストレンジの力ではどうにもできなくなってしまう。ここでピーターは、ある手段を閃く。自分自身の記憶を全世界から抹消するという方法を。他に手がないことを知っていたストレンジも、この方法だけは行うつまりはなかっただろう。何せピーターはまだ子どもであり、ヒーローとしてのみでなく、前途有望な学生としての人生を歩んでいる途中だからである。しかし、ピーターの決心した眼差しにストレンジは突き動かされる。

最後の決断で重要なのは、ピーター自身が誰からも口出しされることなく下したことにある。本作で2度、自らの責任から目を背けたピーターが、初めて自ら責任を受け入れる決断をした。
この決断が示すものは、大人として、ヒーローとしての自立となる。この瞬間にピーターはスパイダー「ボーイ」からスパイダー「マン」へと成長したのだ。

ここで思い出したのが『スパイダーマン2』でのメイおばさんのセリフ。

「みんながヒーロー愛している。人々は応援して喝采を送る。そして、何年も経って語り継ぐでしょう。苦しくても諦めちゃいけないと教えてくれたヒーローがいたことを。
誰の心の中にもヒーローがいるから、正直に生きられる。強くなれるし、気高くもなれる。そして、最後には誇りを抱いて死ねる。
けどそのためには常に他人のことを考え、一番欲しいものを諦めなくちゃいけない時もある。自分の夢さえも。

『スパイダーマン2』劇中セリフ

ラストシーンでも、愛する人を守るために、側にいないという選択をした。まさに、メイおばさんのセリフを体現したピーターの決断である。
他人のために、自己犠牲を厭わない存在が、人々を励まし、生きる希望を与える。師匠、トニー・スタークが自らの命を犠牲にして、全宇宙を救った姿を目の前で目撃したピーターなら、その意味を過去2世代のピーターよりも深く受け止めることができただろう。
ピーターは自らの力に伴う責任を理解し、師匠の死、おばの死、友人・恋人との別れを乗り越え、真のスパイダーマンとなった。

壮大なオリジンストーリー 

「大いなる力には、大いなる責任が伴う」
この一文にスパイダーマンの全てが詰まっていると言っても過言ではない。
ただ、MCUではこの一文が登場することがなかった。それは、オリジンストーリーが描かれていないことが起因する。ベンおじさんの死から責任を受け入れて、スパイダーマンになるというオリジンストーリーは過去シリーズで2度描かれており、MCUでは再度描かなくても十分でしょ?というスタンスでカットされていた。

ただ本作を見て感じたのは、これまでのMCUスパイダーマン作品は全て含めてオリジンストーリーになっているという点である。
メイおばさんの口から明確にこのセリフが出た時点で、MCUではメイおばさんがベンおじさんと同じ運命を辿ることを察した人も多いだろう。
本作のラストシーンのピーターは名も無き人になり、助けてくれるヒーロー仲間もおらず、あてもなく貧乏で小さなアパートに一人暮らし。けれど、ニューヨークの街の為、スパイダーマンとして活動を続ける。この姿は、トビーピーター、アンドリューピーターの1作目で描かれた姿と類似している。

また、トムホピーターは過去シリーズの2人が経験していないスケールの大きな出来事を経験してきた。アベンジャーズの内戦に参加、宇宙での戦闘、師匠の死という本筋の3部作以外に経験してきてことは、彼のアイデンティティに大きな影響を及ぼしている。
特にトニー・スタークの死は、メイおばさんの死と同等の喪失感を与えたはずであり、その悲しみを乗り越える姿は『ファー・フロム・ホーム』で緻密に描かれていた。そして本作のラストで、トニーの自己犠牲の精神が着実にピーターに受け継がれていることが伺える。
高校生の期間に、ヒーローとしての責任自己犠牲、乗り越えるべきと向き合わなければならない現実を知ったピーターは過去2世代のピーターよりも強く、説得力を持ったスパイダーマンへと変化したのである。

以上のことから、MCU版3部作は過去2世代のスパイダーマンよりもより濃厚で、重厚感のある誕生物語になったと言える。オリジンストーリーを割愛して始められた物語が、立ち返ると壮大なオリジンストーリーを形作っていたというのは皮肉なものでありながらも、MCUらしい作品だった。

私とスパイダーマン

本作はファンのために作られた映画である。公式同人誌と言われていることも納得できる。ここは言い訳できない。これまでスパイダーマンを愛してきた人々のためだけに作られたと言っても過言ではない作品。
仮にスパイダーマンを1作も見たことない人が本作を鑑賞すれば、意味がわからず、つまらないと感じるだろう。でも、それでいいと思う。好きに言わせておけばいい。ご都合主義だと言われても、1つの意見だと頭の片隅に追いやって仕舞えばいい。
それだけ、20年を共に歩んできた私は最高級の感動を与えてもらえた。おそらく、本作を愛している多くの人々が同じ気持ちだろう。この気持ちは、スパイダーマンというコンテンツを、アイコンを、キャラクターを愛してきた人にしかわからない。

私が初めて映画館へ見に行った作品かは定かではないが、明確に記憶として残っているのは2002年に公開された『スパイダーマン』なのだ。純粋なヒーロー像に幼いながら魅了された。サムライミ版は家族と全作品劇場で鑑賞した。
2012年の『アメイジング・スパイダーマン』は初めて親の付き添いがない状態で友人と見に行ったことを覚えている。『アメイジング・スパイダーマン2』は中学2年生の頃に、そして高校生から現在の大学4年生までの最も色濃く鮮明に覚えている、感性豊かな時期にMCUスパイダーマンを見ることができた。

こうして振り返ると、私の歩んできた人生のステージそれぞれに、スパイダーマンの思い出がある。映画を見返せば、あの頃の自分と様々な出来事を思い出すことができる。これはリアルタイムで追いかけることができたこその、かけがえのない財産である。

たかが映画で何を言っているんだと思う人もいるだろう。映画なんてただの娯楽だと吐き捨てる人もいるだろう。そんな人々に私の気持ちを理解してほしいわけじゃない。ただ、一本の映画にも、人の考え方感受性人生を変える力があることは理解してほしい。

私にとって映画とは、自分とは違った人生を追体験できる媒体であり、人生のバイブルなのだ。
『スパイダーマン』を見れば、学生生活とヒーローの二面性に悩み苦しむ青年になれるし、『ショーシャンクの空に』を見れば、希望を捨てずに努力を積み重ねれば何だって越えられると思えるし、『アバウト・タイム』を見れば、1つ1つの出来事を噛み締め、時間を大切にしようと思える。
普段の生活では気付けない些細なことを、映画は気付かせてくれる。今の私では経験できない世界へ連れて行ってくれる。この映画の面白さに気付かせてくれた『スパイダーマン』に出会えたことを感謝している。そんな思いを今このタイミングで思い返させてくれた本作は最高の映画体験であり、間違いなく最高傑作だ。

画像:『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』公式サイト
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