留学記② 東京が情報過多な件について
昔の海外の友達と若干疎遠になってしまったのを後悔した半面、SNSを高校時代に真面目にやっていなくて割と良かったと思っている。昔の友達とは、SNSに再浮上して連絡すれば一瞬でヨリを戻せた。楽なもんだった。
ひょんな思いつきで、アメリカに来てしばらく、試しに日本とのSNSを可能な限り遮断している。友達のインスタのストーリーは可能な限り見ない。LINEは本当に本当に申し訳ないと思いながら仕事の連絡以外放置している(あとできちんと謝る)。ツイッターは、基本開かない。たまに受験終わった人などと絡んだり、全員の近況報告をいっぺんに聞くためにクラブハウスをやったりするが、なるべく日本のSNS特有の「幸せアピール」を遠ざけることによって即物的でものすごい幸せを得ている。
ここ、アメリカの田舎キャンパスがまだ「他人の空間」なのに対して、東京は個人的な繋がりが濃い空間である。自分が色んな感情を持っている人たちがいて、自分の比較対象になる。SNS上では彼らは活発だ。みんながみんな、キャラをセメントしながら、無意識に周りに対抗したくなって楽しそうだったりステータスになりそうなことを呟く。そして、この多すぎる情報の波の中で、皆どうにか自分を埋もれさせないように更に自分を情報化していく。しかしネタが切れるので、「もっと人生充実させなきゃ!」とかって気合を入れる。きっと「SNS疲れ」はこのヘンテコな循環装置の中に内在してるんじゃない?ただでさえ家にこもってみんな自分の対外価値が不詳になっているコロナ禍では、周りの投稿に自分を比べてしまって疲れるのは当たり前なんじゃないか。
SNSの個人のプロフィールページは、コンテンツである。この言葉について、ポピュラー音楽、メディア論の増田聡さんはこう述べる。
「ひとかたまりの情報で同等に扱える」ようにするには、矛盾はなるべく避けなければいけない。換言すれば、「私はこういう人だと思ってもらいたい」というイメージにそぐう情報を提供する必要がある。しかし、そうやって「対外キャラ」の権化たるプロフィールページが出来上がると、こんどはリアルでも自分をそのキャラで自己規定するインセンティブが働いちゃう。周りに合わせたつもりで投稿しつづけたSNS上の自分の充実度にリアルを釣り合わせるために、常に相手の求めるキャラでありつづけるために。こんなことは大変だ、というか無理である。だから、そうなってしまう人は自然体でいてもいいと思える人を見つけるべきだし、私はそう思ってもらえる人になりたい。
この、SNSの「固定化」されつつも「多い」情報。こういったSNSの窮屈な一様空間から私たちが感じ取る、「なんかよくわかんないけど満たされない」気持ち。じゃあもっと頑張ろう、となればいいけど、ただただ疲れてしまうこともある。なので東京にいると、得てして気分の上下が激しい。そんなことを田舎に戻ってから考えている。
さて、もう一つ、情報化社会の不本意な側面。以前、
という言葉をどこかでみて、メモっていた。たしかに!と思った。東京にいるときは、いきなり「ここで(もしくは、お互いの家近所で)何する?」とはならない。必ず「何かが出来る場所に行く」から予定決めが始まり、映画館にいく、美味しいご飯を食べに行く、美術館にいく、横浜にいく、海にいく、山にいく、、、といった固定化された選択肢から選ぶ。ここでも私が一番辛いのは、選択肢が「固定化されている」のに「多い」ことである。例えば、ご飯を食べに行こうとなったらば私はネットの記事を調べまくって、気になった店を食べログで再検索し、ごまんとある飲食店の中で良さげなものを選ぶ。この作業自体は本当に好きだし、一緒に食べにいく人たちが喜んでくれればもうそれは嬉しいのだが。まあ、とにかく、「調べる」という、特にクリエイティビティは要求されないくせに手間がかかる作業が発生するのは事実であり、日本なんてどこも美味しいじゃん、と思ったりすることがある。
それに対して田舎では、遊びは作るものとなる。特にコロナ禍において、私はアメリカのド田舎のキャンパスに幽閉されている。遊びに行くところなんぞ一つとして無い。日本人ならば普通に毎日勉強だけこなして帰りそうな状況であるが、私は死んでもそんな生活はしたくないので、たまに欧米人と一緒になって遊びを考える。
例えばこないだ同じ寮に住んでいる友人たちが、この寮でかくれんぼをしようというので驚いた。大学生が、である。いや君ら、金曜日の夜に未成年飲酒しとるやんけ。と直接は言わないが、かくれんぼなんて発想は出てこない。日本では中学の時点でダサい認定されそうな人たちだが、そんなことは彼らは気にしない。このあたりが、物的に豊かでありながらアメリカがいまだに「自由の国」でありつづける所以である。(ちなみに、私の寮は3階建て+地下1階あり、坂の上に建っていることもあって面白い建築構造をしているので、かくれんぼは普通にあほ楽しかった。身長が190cmはある友達の一人が異様に隠れるのが上手く、用具室のゴミ箱の影に潜んでいたりして大優勝。4ラウンドぐらいやって、暑くなって(真冬に)やめた。)
その翌日には、また違う友人のグループと氷点下の夜10時に林の中に歩いていき、新雪トレッキングをした。道を歩くんじゃない。もろ道を逸脱して林の中を歩くのである。「こっちじゃね?」「No, this way」「Can we go back?」とか言いながら。さらに別の日には、冬で使われていない野球場のど真ん中に2mはあろうかという巨大な雪だるまをつくった。こういうとき、アメリカ人は真面目である。とにかく真剣に遊ぶ。雪だるまをつくるとなれば食堂からバナナを持ってきて口にし、森まで歩いて行ってデカい木の枝を2人がかりで折って腕をつける。完成したら誇らしげに写真撮影して、誇らしげに野球場のど真ん中に放置する。きっと、4月まで溶けないだろう。
こういうのって、子供心なのだろうか。東京にもこうやって楽しむキャパシティーはあるはずである。なのに、都市には「クールな遊び方」が存在するので、みんなその普通に合わせて生きている。クールな遊び方だって純粋に楽しい。ただ、それを「楽しいと思う共通感覚」により強く縛られている気がして、息苦しいのかな、と思った。SNSも同様で、「クールな自分の見せ方」にみんな合わせちゃう。この「みんな合わせる」のがポイントで、だから情報は多すぎるのに、その内容には意外と多様性がない。日本は集団行動が得意な国だ。SNSまで集団行動しないでほしい。怖いから。
そんなわけで、東京でかくれんぼがしたいわけではないが、私は今この田舎でけっこう楽しんでいる。でも、私は将来日本で暮らす。東京でも流されずに楽しく生きるメンタリティを今のうちに鍛えよう、と思っているところだ。
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