西洋近代哲学(デカルト、スピノザ、ロック、ヒューム、カント)について
佐藤康邦著『近代哲学の人間像』に基づいて、デカルト、スピノザ、ロック、ヒューム、カントの哲学を学びます。
デカルト
デカルト は、 世界 が「 意識」 と「 事物( 身体)」 の ふたつ から 成り立っ て いると考えた。
意識の本質は思考することであり、事物の本質は空間的広がり(延長)をもつこと。
このまったく異なるふたつのものが共存している世界観を心身二元論という。これは今だに解決されていない難問である。
「人間は、意識であると同時に身体という事物でもある。では、精神と事物(身体)はどのように結びついているのか?」という疑問である。
デカルトは、次のようなことを言っている。
《帰謬論者たちが言うように、たしかにあらゆる命題は否定可能だ。疑い反駁することができる。だが、どれだけ疑い否定しようと思っても、最後の最後までどうしても疑えないものがあるじゃないか。それは、一切を疑っている、この”わたし”自身である。世界を疑っているのが”わたし”である以上、この疑っている”わたし”自身の存在は、どうがんばっても疑うことなどできないじゃないか》と。
「たしかなものなど何もない」という、帰謬法を駆使する人たちがはびこっていたこの時代、デカルトは、この言葉でもって、彼らの論法をひっくり返したのである。
なるほど、こうした文脈で「我思う、ゆえに我あり」という言葉が使われたのであれば、納得がいく。
デカルトは、この”わたし”も疑える可能性があると批判されることを想定済みだったので、”わたし”を身体と精神とに分ける「心身二元論」を主張した。だが、これに納得できる人はそう多くはなかった。
スピノザ
これに対して、スピノザは、世界には神の存在しかなく、精神も物質もそれぞれが神の属性のひとつだと考えた。つまり、精神と物質は独自のあり方をしているのであって、両者の間には平行関係だけが存在することになる、というわけである。
スピノザが考える神は、超越神ではなく、神に、意志や目的を帰属させることは厳しく批判される。だからこれは、神即世界という汎神論に帰結する考え方であり、それゆえ、キリスト教からもユダヤ教からも排斥されて破門となるのである。
この世界が必然性の支配するものとなると、ここには偶然というものがなく、人間の自由意志などもないとなる。
スピノザによれば、身体の活動能力の増大・減少に伴う身体の状態についての観念とされる。それは、欲望、喜び、悲しみの三つからできている。
この感情は受動的であるので、妥当な観念に達することはない、だから、個人と個人との間には隷属と不和が絶えない。だが、人間には理性があり、これに従うと、受動性を能動性に変えることが可能であるとスピノザは考えた。
万物の本質を神の本質のうちに直観する「直観知」について、スピノザは語っている。これは「理性的知」超えた神への愛であるとされ、精神にとっては最高の喜悦という。ところが、実際には、この段階に達するのは稀であり、困難であるとされている。
汎神論によると、人間の精神は神の一部であるということであるから、人間からの神への愛も神自身の愛の一部であるということになる。こうして神は自らを愛する限り人間を愛するという円環が成立することになる。
以下は、國分功一郎著「NHK100分で名著 『エチカ』」に基づいて、スピノザを学びます。
國分氏は、パソコンのOSが違えば作動しないように、スピノザ哲学を作動させるためには思考OSを入れ替える必要があると述べています。
まず、スピノザが考えている自由の定義から始めます。
人間には身体的な有限性があり、腕の場合、可動範囲があるので、腕の動きには、必然的な法則が課されています。だから、ここで言われている必然性は、その人に与えられた身体の条件があると考えられます。
ただし、人間は自分の身体がなしうることの全てを正確に理解していないので、自分の動作を確認しつつ、自らの身体の必然性を知りながら、少しづつ自由になっていくことになります。
そして、定義七では、自由の反対の概念は「強制」とされている。
定義の前半の「必然性」は、自由の反対と説明されていますが、これは「日常的にはそう言われている」と述べている程度であり、「強制」に力点があるからこそ、「むしろ」という言葉がその直前に置かれている、と國分氏は解説しています。
強制とは、外部の原因によって存在の仕方が決定されている状態のことであると言う。つまり、強制された状態とは外部の原因に支配されているということになる。
すると、自由であるとは、自分が原因となることであり、これをスピノザは「能動」という言葉で説明している。
ところが、自分の行為の原因になるとは、スピノザによれば、すべては神という自然の内にあり、すべては神の実体の変状であるということになる。
「神という自然に内にあり」とは、スピノザは「神すなわち自然」という汎神論者であると言われていて、森羅万象あらゆるものが神であるという考え方です。
といっても、日本のような「八百万の神」ではなく、だだ一つの神です。スピノザが考える神は、世間一般にイメージするそれとは大きくことなります。ではどんな神なのかを箇条書きします。
「神は無限である」⇒無限とは限界がないこと⇒神で有る無しの限界線がひけない⇒神には外部がない⇒すべては神の中にある
キリスト教でいう絶対者としての神に反するから、無神論者としてスピノザは追放された。
すでに古代インド哲学の概念である「梵我一如」について投稿しましたが、これは梵(ブラフマン:宇宙を成立させる原理)と我(アートマン:個人を成立させる原理)同一であるというものでした。この考え方と通底するものを感じます。
変状とは、ある物が何らかの刺激を受け、一定の形態や性質を帯びることを言います。たとえば暑さをいう刺激を受けると、発汗という変状が身体に起こるようなことです。
神の変状ということであれば、人間の存在や行為は神を原因とし、人間が原因ではないという意味になります。
普通、能動と受動は、行為の方向、行為の矢印の向きで理解されます。行為の矢印が、私から外に向かっていれば能動であり、逆に私に向かっていれば受動となります。
スピノザの考え方を、國分氏は、カツアゲの例で説明しています。
カツアゲにあって、お金を取られた時、自分からお金を手渡した場合は、行為の矢印からは、能動となるが、スピノザの能動/受動の概念ならば違ってきます。
完全に能動であるのは、自らの外部を持たない神だけというのです。
ただ、完全に能動になれないにしても、受動の部分を減らして、能動の部分を増やすことはできるという。度合いがあるということです。自由も同じで、完全な自由はないが、これまでよりはより自由になることはできるのです。
スピノザが言う自由とは能動的になることであり、自発性のことではない。
自発的であるとは、何もからも影響を受けずに、自分が純粋な出発点となって何事かをなすことを言うが、スピノザ哲学においては、そのような自発性は否定されます。
なぜならば、いかなる行為にも原因があるからです。自分が自発的に何かをしたと思えるのは、単にその原因を意識できないからです。
ちょっと分かりにくいが、國分氏の解説によると、私たちの意識は結果だけを受取るようにできているというのです。
物事の結果だけを見て、自分が自発的に決めたと思い込んでいるというわけです。結果には原因があるが、その原因を十分に理解することは人間の知性にとっては実に困難だというのです。
この自発性は一般に「自由意志」と呼ばれています。
自由意志とは、純粋な出発点であり、何者からも影響も命令も受けていないものと考えられています。しかし、そのようなものは人間の心の中には存在しえない。人間は常に外部からの影響と刺激の中にあるからと言う。
精神の中には確かに意志と感じられるものが存在しているが、それも何らかの原因によって決定を受けている。したがって意志は自由な原因ではないと言うわけです。
さて、ここからさらに、ややこしい話しになってきます。
意志と意識は違うというのです。
意志の自由を否定したら人間がロボットのように思えてしまうとしたら、それは人間の行為をただ意志だけが決定していると思っているからであり、それは意志が一元的に行為を決定しているからだと言う。
たとえば、歩く動作のばあい、人体の全体に関わっています。人体には様々な骨、関節、骨格筋から構成されており、それらが複雑な連携プレーを行うことではじめて歩くことができるのです。
ところが、人間の意識はそのような複雑人体の機構を全て統制することはできない。だから、身体の各部分は意識からの指令を待たずに、各部で自動的に連絡を取り合って複雑な連携をこなしているというのです。
行為は多元的に決定されているのであり、意志が一元的に決定しているわけではないということです。
「意志」と「意識」は混同しやすいので二つの言葉をきちんと区別するあります。スピノザは意志が自由な原因であることは否定していますが、私たちが意志の存在を意識することは否定していないのです。
意識とは何かというと「観念の観念」とスピノザは定義しているのです。「観念の観念」とは、精神の中に現われる観念についての反省のことだと言う。
意志と意識は全く別物なので、意志が自由であることの否定は、意識の存在の否定とは関係のないことなのです。
意識は無力ではないが、万能でもないので、意識では身体の複雑な機構を統制することは不可能ということです。
ホッブス
ホッブズによれば、感覚とは対象物体が感官に与えた圧力が頭脳と心臓に伝達されて生じる、外的実在に関する想像のことだとされる。
ところで、私たちの心には、眼前の対象が取り去られてもその対象についての意識が残るが、それが心象といわれる。
個々の感覚内容も心象も言葉に移し変えられる。この言葉の解釈が示すものは、ホッブズが徹底的に名目論の立場にたっているということである。普遍は名辞に他ならないとされる。
この名辞を操るのが理性である。そして、この理性によって学問が形成される。この学問は、生まれつきによって得られるものではなく、特別な努力によるものだとされる。
それゆえ、デカルトが言うように、自律した実体としての理性を出発点として設定するようなことではない。
ホッブズは、人間は放っておいたら「殺し合う」、「万人の万人による戦争状態」になるという。
では、いかにして平和を実現し維持するための原理は一つしかない。人びとが殺し合いをやめ互いのいのちを守れる、強力で絶対的な国家を創りだすことだ。
それには、まず。自然権=相手を殺す権利を放棄し、自然法=人間の理性によって導かれた一般法則に従おう、という。
この理性の声に従って、各人は、自分の自然権の一部を断念して、契約を交わし、法を作り、それに基づいて「国家」を作る決意をしたというのである。これが「社会契約説」という考え方である。
ロック
ロックの政治思想は、現代でも大きな影響を受けており、その哲学はイギリス経験論の源流となった。
経験論とは、あらゆる観念は経験に由来する、と言う。神から授かった「生得観念(生まれつきもつ観念)」はなくて、人間は経験と通してすべての観念や知識を体得するとロックは考える。
ロックによれば、私たちは、自分の心に目をを向ける時、すでに白さ、硬さ、甘さ、思考、運動、人間、象、国家等々についての観念を持っていることを見出す。それらが、生得観念ではないとすれば、ではどうのようにして、私たちはそれらの観念を持つにいたったのか?
そこで、ロックは、文字の全く書かれていない「白紙(タブラ・ラサ)」の状態の心というものを出発点として想定して、そこに私たちの持つ膨大な知識と知的な推理が書き込まれていくという説明を試みる。その際、これらの観念の唯一の源泉は感性的経験でしかないとする。
ロックによれば、自然状態においても個人は十分に理性的で勤勉的であった。したがって、労働によって自然から糧を得、それなりに平和に暮らしていたのである。それは、「自然法」というべきものが人々の心を支配していたからであった。
このように、ロックは、あえて「自然法」という概念さえ持ち出すが、しかし、同時に、この自然状態には不安定性がつきまとっていることも認める。
特に、多くの人間がともに暮らすようになると、人間同士のトラブルが生じるようになる。そうなると、それを処理するためにお互いの間で決まりを作る必要が生じてきた。そこで、個人間の「合意」にもどづいて、国家設立の契約を結ぶことになったというのである。
ただし、国家が抑圧的となった場合は、国家に預けていた主権を取り戻すことができるという「抵抗権」を行使して、契約を破棄することができるというものであった。
【私見:世界2次大戦で日本は焦土と化した反省から、もう2度と戦争しないことを決めた憲法を施行しているにもかかわらず、これを破棄する政策を、国民や国会に問うこともせずに閣議決定して、米国に報告するという、この乱暴な政府のやり方は、17世紀以前の専制国家並みだね。いや、米国のポチ国家というべきか。】
ヒューム
ヒュームは、まず、私たちが持っている既成の知識に対して徹底的に懐疑の目を向ける。その点ではデカルトを想いおこさせるが、デカルトと異なるところは、デカルトは悟性や理性を決して手放すことはなかったが、ヒュームは悟性や理性ではなく、感覚や感情に力点を置いたことである。
ヒュームは疑いえないものは知覚だけだと考えた。ヒュームは、そこから驚くべき結論を導く。それが心の同一性や因果関係などはないという主張です。
知覚は常に変化しており、だから私たちが心と読んでいるものは、そのつど現れ、移り変わっていく「知覚の束に他ならない」。
たとえば、ヒュームは一艘の船を例にあげて説明している。
船には、多数の部品があり、それらを修理のために取り換えることが頻繁にある。したがって、5年前と今の船、10年後の船は厳密には同一物ではないにもかかわらず、同一の船と認定される。
というのは、各部品は、船全体の構造のための手段であるにすぎず、部品が変わっても、船全体の同一性の概念を損ねることはない、ということである。
したがって、私たちの心の同一性が意識されるのも、同じことである。しかも、このことは、理性ではなくて想像力によってなされるという。そこで、「われわれが人間の心に帰する同一性は、虚構によるものにすぎない」と結論づけられるのである。
この鋭いヒュームの懐疑を受け止め、それに応える形で、カントは、哲学を組み立て直そうとしたのである。
また原因と結果も別ものであり、このふたつが絶対に結びついているという根拠がない。
たとえば、コンロの熱(原因)でやかんの水が沸騰する(結果)の場合、このふたつをいくら調べても原因と結果という関係を見いだすことはできない。
ふたつが接近して経験され、また原因の方が結果よりも先に起こり(「継起」)、さらにふたつの印象が常に結びついている(「恒常的連結」)という私たちの経験により、因果関係があると思い込んでいるだけである。それは習慣から生じた信念に過ぎない、というわけである。
カント
ヒュームは、心の同一性や因果関係などはないという主張したことに対して、カントが示した答えは、私たちの認識の範囲が「現象界」にしか及ばず、「物自体」は認識能力のかなたに取り残されてとみなしている点でヒュームを受け入れるが、しかし、「因果性」がアプリオリなカテゴリーであるから、それによって私たちの認識内容の普遍妥当性が保証されると考えている点ではヒュームとはっきりとした違いも見せるというものであった。
カントは、「カテゴリー」をアプリオリなものであるとみなす。カントのカテゴリー表に基づくと、「因果性」の「カテゴリー」の場合は、「判断表」の「仮言的判断」に対応している。
たとえば、「太陽が石を照らすと、石が暖かくなる」というのは「仮言的判断」である。しかし、それだけでは、その状況を眺めた知覚経験にもとづく判断にとどまる、これが、「太陽が石を暖める」という判断になると、太陽という原因が、石を暖めるという結果を生じるという「因果関係」を把握を意味するというのである。
というのも、そこには「因果性」というアプリオリな「カテゴリー」が形式として介在しており、そのために、太陽が石を暖めるという「判断」は「カテゴリー」にもとづいた「アプリオリな総合判断」というものになるというのである。
以下は、竹田 青嗣監修『哲学書で読む 最強の哲学入門』から引用しました。
以下は、竹田青嗣著『はじめてのカント『純粋理性批判』』に基づいてカントを学びます。
現代では、カントの哲学は、形而上学だとして、批判されている。「神とは何か」、「世界とは何か」、「なぜ人間は生きて、苦しむのか」、「死とは何か」というような「世界の存在と意味の謎」を形而上学と呼んでいる。今でも、これを哲学の本領だとする哲学観は、一定程度生き残っている(とくに日本はこのような形而上学的哲学は根強い)。
ところが、ヨーロッパの現代哲学・思想では、形而上学はすでに終焉したスコラ哲学の遺制とみなされており、近代哲学も、この形而上学の残滓であるとして長く批判されてきた。
こうした意味で、カントも批判されているのだが、竹田の説では、カントの『純粋理性批判』は、哲学を、スコラ哲学的な「形而上学」から「人間の本質」についての哲学に取り戻した点に最大の功績がある、と述べるのである。
カント以前の、哲学にはスピノザを代表とする大陸合理論とヒュームを代表とする経験論が対立していて、カントはこれを統合した、というのである。
スピノザの考えは、世界はそれ自体が唯一、永遠なる神である、とする合理的推論による理神論、これに対して、ヒュームの考えは、絶対的に正しい世界像は存在せず、すべてはさまざまな文化が習慣的に形成している世界像にすぎない、という徹底的な相対主義的経験論だった。
実は、このスピノザの考えのような、形而上学的独断論とヒュームの考えのような相対主義的懐疑論の対立は、2500年の哲学を、眺めてみると、ず~っと続いてきたことであった。
カント以前は、私たちの外側にある世界はどうなっているのという問うてきたが、それに対して、カントは、私たちは、世界をどのように認識しているかと、認識装置に目を向けるようにとコペルニクス的転回をしたことに意義があった。
カント哲学の大前提は「物自体」は認識できないというものである。私たちの認識装置は、外に出ることができず、物の表象しか見ることができないので、物そのもの、つまり「物自体」を認識できないのである。
そこで、カントは人間の認識能力として感性、悟性、理性の三つを提示し、その構成について詳しく解説したのが本書である。
感性
多様な外的印象(直観)を、空間・時間という形式の枠組みのなかで受取る能力。
悟性
多様な直観をまとめあげ(統合)し、それを一つの概念的な判断へとまとめあげる能力。
理性
悟性による対象の判断から、推論によってその全体像を導く能力。
悟性については、カテゴリーにはめ込んで判断できるように人間は、先験的(頭の中に)に持っているとカントは述べている。
カテゴリーとは、次の四つである。
分量
全体的判断(すべてのAはBである)
特殊的判断(いくつかのAはBである)
単称的判断(このAはBである)性質
肯定的判断(AはBである)
否定的判断(AはBでない)
無限的判断(Aは非Bである)関係
定言的判断(AはBである)
仮言的判断(AがBならば、CはDである)
選言的判断(AはBであるか、さもなくばCである)様態
蓋然的判断(AはBでありうる)
突然的判断(AはBである)
必然的判断(AはBでなければならない)
カントによれば、理性が推論の能力を駆使して極限まで行きつこうとする重要な領域は三つある。
①魂(私)とは何か。
②世界とは何か。
③最高存在(究極原因=神)存在するのか。
これらのことがらは、人間の経験の可能性を超えた領域であり、したがって絶対的な認識として検証も確定もできない。だが理性は、この検証不可能な領域でも、推論の能力の極限まで使用して弁証をおこない、その結果、誤謬やアンチノミーに陥るのである。
哲学者中島義道氏は『カントの読み方 』で、物自体について次のように述べています。
《カント以前は、神とか、魂も実在とみなされていたが、カントは、実在には、空間(時間)という条件も必要だと批判したわけです。すると、神とか魂は概念としては矛盾がなくても、空間に場所を占めていないので、物体とは呼べない。そのため、これを「物自体」と名づけた。ところが、レヴィナスが「物自体」を「他者」という意味として使用した。フッサール、ハイデガーが無視した「物自体」が、カントの意図から外れて、レヴィナスによって復活した》
「物自体」とは、何だか、神秘的で、不可知なものとして考えられがちだが、カントは、神とか、魂は物体ではないと、非常にシンプルなことを言っただけだということが分かる。現在なら、神、魂は物体でないことは、分かり切っているので、カントの批判の意図がつかめないが、フーコーが言うように、ある時代と社会における知の枠組み(エピステーメ)を考慮に入れる必要があるということになる。物体の概念のように、昔の常識が、現代の非常識となることは多いのだろう。
中島氏は、カントの認識論については、以下のように評価しています。
カントの時代から、量子力学も含めて、科学は大幅に進歩したとはいえ、「時間と世界」については、いまだに、謎のままである。
ビッグバン説には現代物理科学界では、異論もある。宇宙は、膨張が止まり、収縮していき、究極の収縮点で、また爆発して膨張を始めるという具合に繰り返しているという説もある。まるで、仏教の世界だ。
膨張から収縮への転換に関してだが、最先端の天文科学によると、宇宙は膨張速度が弱まるどころか、加速して膨張しているという観測結果が得られている。
それは、何故かということだが、宇宙に散らばっている、解明不可能状態にある、暗黒物質、暗黒エネルギーではないかという説である。「暗黒」とは、まるでスリラー小説かと、おちょくった名称だが、これが真面目な科学用語だというから、科学も、もはや、居直っている感じだ。
以前は、真空は、空っぽだから、真空中には物質は含まれていないと見なされていたが、なんと、ぎっしりと物質で詰まっているということが解明されているから、この暗黒も、いずれかは解明されるであろう。こうして、未知の世界に格闘している姿に価値があるのだろう。余談だが、暗黒は真空のことではと研究されていたことがあり、計算すると莫大なエネルギーとなってしまうという矛盾が出たということだった。
引用図書:
佐藤康邦著『近代哲学の人間像」
國分功一郎著「NHK100分で名著 『エチカ』」
竹田 青嗣監修『哲学書で読む 最強の哲学入門』
竹田青嗣著『はじめてのカント『純粋理性批判』』
中島義道著『カントの読み方』
中島義道著『純粋理性批判』を嚙み砕く』