「愛」の本質について
「愛」という、老人(そうじゃない人たちも)には、いささか、木っ端恥ずかしいテーマを、苫野一徳著「愛』に基づいて考えていきます。
苫野氏の「愛の本質とは何か」についての哲学的な答えを、いきなり、書くと、「合一感情」と「分離的尊重」の弁証法である、というのです。いったい「何のこっちゃ」となりますが、これを解きほぐしていきます。
愛について哲学的に答えるのは、非常に難しい、と言うのです。
「好きか」と尋ねられたばあいには「好き」「好きじゃない」「あんまり好きじゃない」「ま~ま~好き」というぐあいに、自分が、ありありと感じることができる、純粋の情念である。
ところが、「愛しているか」の問いのばあいは、「愛しているのかな」「私が感じているこれは、本当に愛なのかな」というように、頭で考え直さざるを得ない概念となる。自分のこの感情に、利己的なものではないかなどと自問自答することになる。
そうすると、なかなか、愛とは何かを、結論づけるのは、難しくなる。それは、愛は情念であるとともに、理念でもあるから、というわけです。
理念であるということは、私たちは、それを、たやすく理想化してしまい、「絶対的な愛」というものがあり、それでなければ、愛とは言えないのじゃないかなどと思わせてしまう。
苫野氏によれば、愛の本質は科学によって解明することは決してできない、と言う。
下記は、科学的説明の例です。
「恋をすると、特に腹側被蓋野が活性化し、脳内麻薬ドーパミンが分泌される。するとわたしたちは、その快楽のとりこになって、報酬の獲得ーーー恋の相手を手にいれることーーーをほかのすべてに優先させるようになる。」
こうした科学的な説明は、愛(恋愛)について考えるにあたっての参照すべき重要な知見ではあるが、どこまでも愛という現象(仮説的な)説明にすぎない。
これは(仮説的な)事実説明はできても、それがどんな本質的な意味を持っているかについては、ほとんど何も教えてくれないということである。
愛の現象学
わたしたちのうちにありありと感じられる愛の感情、体験。その本質を内省によって洞察し、それが真に普遍性を備えたものであるかどうかを確かめること。このような哲学的本質洞察ーーー現象学的本質観取ーーーのほかに、わたしたちが「愛」の本質を明らかにする方法はない、と言う。
「好き」といった感情一般から考察する。「好き」とはいったい何だろうか?
この映画が「好き」、お酒が「好き」、あなたが「好き」など、こうしたごく単純な「好き」が意味しているのは、その対象によってこのわたしのエロス(快感)が掻き立てられることが「好き」であるということである。
したがって、ごく単純な「好き」の本質は、一種のエゴイスティックな欲望である。その対象がもはやわたしにエロス(快感)を与えなくなった時、わたしはそれが「好き」ではなくなる。
「愛」はこの原初的な「好き」から生まれながらも、そこから遠く離れたところにあるものである。
さらに、音楽を「好き」のばあいは、何度も聴いてみたいという反復性があり、それを欠いては「好き」とは呼べない。
「好き」な音楽が与えてくれる高揚感、「好き」な人がわたしに与えてくれる安心感、これらのエロス(快感)を、わたしは繰返し反復して味わいたいと願うのだ。ここにもある種のエゴイスティックな欲望に根をもつ感情である。
一方「愛着」は、この「好き」のエゴイズムをいくらか超え出た感情である。大切にしていたモノが、見知らぬだれかに切り刻まれた時、わたしが感じるのは、このわたしが踏みにじられたという怒り以上に、失われたそのモノそれ自体への哀惜であるはずだ。
これについては、「愛着」と「執着」の違いを考えればよりはっきりするだろう。
「愛着」が、対象それ自体への慈しみを含意する情念であるのに対して、「執着」、どこまでもこのわたしの欲望への拘泥であるからだ。
アルコール依存症の人は、お酒に「愛着」を持っているのではなく、お酒が満たしてくれる自身の欲望に「執着」している。お酒そのものを慈しんでいるのではなく、それが与えてくれる快楽や現実逃避の欲望に「執着」しているのである。
ただの「好き」は、そもそもエゴイズムを根に持つ感情であるがゆえ、わたしたちにその欲望への執着を芽生えさせるが、いとも容易く「憎悪」へと転換することがある。
しかし「愛」は違う。「愛」はわたしたちのそのようなエゴイズムを、それへの執着を、すでに超え出た理念的情念なのである。
愛は憎まない。憎しみを生み出すのは、わたしたちの執着心にほかならないのだ。
しかし、エゴイスティックな「好き」と「愛着」との差は、不明瞭である。
「好き」な音楽とわたしが言う時、それは多くの場合、わたしの「愛着ある音楽」を意味している。「好き」と「愛着」は、かなりの部分重複する概念である。
「合一感情」と「分離的尊重」の弁証法
弁証法と言うのは、「合一」と「分離」という一見相矛盾する二つの項が、何ら矛盾することなく統合されていることである。
古来、「弁証法」という言葉はさまざまな意味が込められてきたが、ここでは、矛盾的・対立的観念のいわば高次の綜合を意味する概念として用いることにした。
これは高度に理念的な本質である。友愛、性愛、恋愛、親の子に対する愛など、どのような愛であれ、わたしたちが「愛」の名の下に包摂する概念は、いずれもこの弁証法的情念、あるいは弁証法的理念を本質としていると言えるのでは、と苫野氏は考えている。
愛の理念性には、高いーー低いという審級性をもつ。
低いものとしては、愛着であろう、そして最も高いものしては真の愛というものが考えられる。愛における一般的な「合一感情」は、真の愛においては「存在意味の合一」となる。
それはすなわち、相手の存在によってわたしの存在意味が充溢するとする確信、相手が存在しなければ、わたしの存在意味もまた十全たり得ないとする確信である。
真の愛には「絶対分離的尊重」がある。相手はこのわたしには決して回収され得ない存在であるとする、絶対的な分離的尊重がある。
その意味で、わが子を自分の所有物であるかのように愛する親の愛は、真の愛とは決して呼ぶことはない。それは、ただの愛着、執着、支配欲でしかない。わが子といえども、個としての独立した人格であるのだから、それを重んじなければならない。
もう一点、真の愛には必ず「自己犠牲的献身」がある。単なる自己満足に回収されることのない献身、「自己犠牲」という言葉の究極の意味を、わたしたちは「愛」において真に知るのだ。
たとえば、線路に落ちたわが子を、命を顧みずに助けようとしたときは、親のわが子への真の愛といえるだろうか?
それが、見ず知らない人が助けたばあいは、それは限りなく立派な行いと言うことはあっても、「愛」ゆえの行為と呼ぶことはない。
それは、使命感や義務感であったり、あるいは、ほとんど無意識な反応だったかもしれない。しかし、それを「愛」だったと言うことはできない。
なぜなら、愛は「合一感情」と「分離的尊重」の弁証法であるからだ。この二つの契機なしの自己犠牲的行為は、限りなく立派な行為ではあったとしても、「愛」ではない。
逆に言えば、「存在意味の合一」と「絶対分離的尊重」の弁証法の先にある「自己犠牲的献身」は疑いの余地なく「愛」である。つまり、子供を助けた親は真の愛と言えるのである。
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