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「生きずらさ」について
年金生活者のため、社会から閉ざされるようになってからは、「生きずらさ」をようやく感ずることなく過ごしている。
妻と時々、たわいもないことで、意見の相違のために、感情がゆらぐことはあるが、それとても、「生きずらさ」からはほど遠い。
だが、現役のころは、ほとんど「生きずらさ」に捉われていた。
そうした時期を思い出しつつ、苫野一徳著『はじめての哲学的思考』に基づいて、「生きずらさ」について考えてみます。
私たちはどうすれば、「生きずらさ」や「不幸」「絶望」などのいわゆる実存的問題を乗り越えることができるのだろう?
その方法として「欲望相関性の原理」が、この問題に対して絶大な威力を発揮する、と苫野は述べる。
「欲望相関性の原理」とは何なのか?
「これはグラスだ」とか、「この人は善人だ」とかいった〝確信〟や〝信憑〟は、いったいどのように僕たちにやって来るのだろうか?
この問いに最も原理的な答えを与えたのは、ニーチェやフッサール、それにフッサールの弟子のハイデガー(1889─1976)や日本の哲学者の竹田青嗣(1947─)などだ。
彼らの出した結論は、簡潔にいえば次のようなものだった。
僕たちは世界を、僕たちの「欲望」や「関心」に応じて認識している
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たとえば、目の前のグラスを飲み水を入れる容器として認識する場合、なぜそのように確信したかといえば、喉が渇いているので、その水を飲みたいという欲望があるからと言える。
そして、誰かが、ふいに襲ってきたとすれば、反射的にその人に投げつけた場合は、グラスは武器となる。さらに、退屈してグラスをいじくりまわしていると、オモチャとなる。
このように、世界はつねに、われわれの欲望の色を帯びている。竹田青嗣氏は、これを「欲望相関性の原理」と呼んでいる。
われわれが日頃出くわす、さまざまな問題から、政治的・社会的問題にいたるまで、「欲望相関性の原理」を応用すれば、かなりの程度解き明かすことができる、と言う。
世界は欲望の色を帯びている、ということは、つまりわれわれの生きずらさや不安、怒りなんかも、その理由の根本には、われわれに何らかの欲望があるということになる。
会社では、嫌な人がいたが、そんなときは、「あの人は皆から嫌われている」「かんしゃく持ちですぐに怒る」のように、客観的に人間としての問題がある輩だと考えていた。
しかし、考えてみれば、「家ではやさしい人だったかもしれない」「あの人と楽しそうにして飲みに行く人もいた」ように、別の人からみれば、評価されていたわけで、客観的な悪人はいないと考えられる。
つまり、私が嫌な奴だと「確信」した理由は、本当は私の内側にある。私の何らかの欲望が、その人を悪人だと確信させたということだ。
確かに、こうした発想をしたことがない。つねに相手の客観的な問題点に帰結しようとしたから、やり場のない憤りや不安や焦燥感にさいなまれ続けたということだろう。
欲望を知ることで、自分と折り合う。これが、さまざまな実存的な悩みや生きづらさを克服するための、「欲望相関性の原理」のひとつの応用の仕方なのだ。
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「折り合いのつけ方」として、ルソーの著書『エミール』を引き合いにだして、①「能力を上げる」②「欲望を下げる」③「欲望を変える」を提示している。
①毎日コツコツと努力するしかない。
②は、そんなに望ましいことではないが、欲望と能力のギャップがなくなれば、ひとまず不幸からは逃れられる。
③欲望の泥沼に、はまったままもがきつづけるのは、ひどく苦しい。だが、欲望を変えることによって、肩の荷がおりて、別の欲望で生きる道がある。
今でこそ「生きずらさ」は減ってきたとはいえ、「不幸感」はあるので、①②③を念頭にいれて、生きていきなさい、ということでしょう。