はじめに これまで確認してきた橋姫のお話を要素分解し、前回は産女について確認しました。今回は謡をうたうことについて見ていきます。
初回↓
11.謡いについて(前篇) それから今度は謠をうたつては惡いと云ふ言ひ傳へをあらまし説明しよう。
「橋姫」本文29 これもまた各地方に同じ例の多い事で、九州では薩州山川港の竹の神社の下の道 、大隅重富の國境白銀坂 等に於いて、謠をうたへば天狗倒しなどの不思議があつたことは「三國名勝圖會」 に見え、
「橋姫」本文30 越後五泉町の八幡社の池の側では、謠を謠へば女の幽靈が出ると「溫故之栞」第七號 に見えてゐる。
「橋姫」本文31 また駿州静岡の舊城内杜若長屋といふ長屋では、昔から「杜若」の謠を嚴禁してゐたことが津村淙庵の「譚海」卷十二 に見えてゐるが、これは何故に特に「杜若」だけが惡いのか詳しいことは分らぬ。
「橋姫」本文32 しかし他の場合には理由の明白なるものもあるのである。例へば近頃出來た「名古屋市史」の風俗編 に、尾張の熱田で「楊貴妃」の謠を決してうたはなかつたのは、以前この境内を蓬萊宮と稱し、唐の楊貴妃の墳があるといふ妙な話があつたためで、
「橋姫」本文33 「新撰陸奧風土記」卷四 に、磐城伊具郡尾山村の東光院といふ古い寺で、寺僧が「道成寺」の謠を聞くことを避けてゐたのは、かの日高川で清姫が蛇になつて追ひかけたといふ安珍僧都が、實はこの寺第三世の住職であつたためであるといつてゐる。
「橋姫」本文34 信濃の善光寺へ越中の方から參る上路越の山道で「山姥」の謠を吟ずることは禁物と、「笈埃随筆」卷七 に書いてある理由などは、恐らくはくだ〳〵しくこれを述べる必要もないであらう。
「橋姫」本文35 しからばたち戻つて前の甲州國玉の逢橋の上で、通行人が「葵の上」を謠ふと暗くなつて道を失ふと「裏見寒話」 にあり、近代になつては「野宮」がいかぬといふことになつたのはそも如何。
「橋姫」本文36 これは謠といふものを知らぬ若い人たちでも、「源氏物語」を讀んだことのある方にはすぐ推察できることである。つまり「葵の上」 は女の嫉妬を描いた一曲であつて、紫式部の物語の中で最も嫉みの深い婦人、六條の御息所といふ人と、賀茂の祭の日に衝突して、その恨みのために取殺されたのが葵の上である。「野宮」 といふのもいはゆる源氏物の謠の一つで、右の六條の御息所の靈をシテとする後日譚を趣向したものであるから、結局は女と女との争ひを主題にした謠曲を、この橋の女神が好まれなかつたのである。「三輪」 を謠へば再び道が明るくなるといふ仔細はまだ分らぬが、古代史で有名な三輪の神様が人間の娘と夫婦の語らひをなされ、苧環の絲を引いて神の驗の杉の木の上に御姿を示されたといふ話を作つたもので、その末の方には「又常闇の雲晴れて云々」或ひは「其關の戸の夜も明け云々」などゝいふ文句がある。 しかしいづれにしても橋姫の信仰なるものは、謠曲などの出來た時代よりもずっと古くからあるは勿論、「源氏物語」の時代よりもさらにまた前からあつたことは、現にその物語の中に橋姫といふ一卷のあるのを見てもわかるので、これにはたゞどうして後世に、そんな謠を憎む好むといふ話が語らるゝに至つたかを、考へて見ればよいのである。
「橋姫」本文37
30.「三國名勝圖會」 『三国名勝図会』は、薩摩・大隅・日向の三国の地誌で、鹿児島藩主島津斉興の命を受けて五代秀尭・橋口兼柄が撰進し、天保14(1843)年に成立しました。
国男は「薩州山川港の竹の神社の下の道」と「大隅重富の國境白銀坂」の二つを挙げているので、それぞれ確認してみましょう。
竹之山神祠〈地頭館より未申の方、二十六町余、〉 山川村にあり、祭神谷山烏帽子嶽權現大天狗 なり、山上に石小祠二を建つ、一は絶頂、一は山七分にあり、此竹之山、南の方は海邊より壁立して、形状險絶なり、其高さ二町程絶頂の廣さ方六歩許、又竹山より八町許東に當り、海に臨みて一山あり、鳶之口峯といふ、形状の峻絶、竹山に類す、二山並峙つといへども、其根相連り、二山共に、陸地の方は、漸く低くして、登路あり、二山格嵓石を神體として、古松疎生せり、此兩山天狗 の栖止する所なりとて、種々の靈怪 あり、或は絶頂に神燈現し、或は太鼓笛螺の音鳴り響き、或は數十丈の嵓石崩れ墜る聲ありて、一石の落たるなく、或は此山下夜中通行する時、散樂の謠 、幷に高音にて談話すれば、石礫山上より來る、又往年揖宿の某誓願あり、毎年十二月廿九日夜、三年竹山神祠へ參詣せしに、中年より社頭に暖なる餅と、粽五つづゝあり、二ツは即ち食し、餘は携へ歸れり、かくの如き事あれば、其祈願必ず成就すといへり、又山川の某、竹山に二夜三日參籠せしに、夜中大鳥の羽音を聞しこと度々あり、其時は覺えず頓首して地に伏し、頭を擧ることあたはざりしとかや、又竹山の下なる海上は、船を繫くことを忌む、然るに文化八年、十一月二日夜、官船明神丸と云へる船を、鳶之口峯の下邊に繫しに、竹山の上に星の如く火點せしが、其船に飛來り、忽ち帆柱の上に提灯現し、山伏の如き者見へければ、舟人大に恐れ、船中に遁れ入しかども、悉く蹴倒されて、魂魄を失へり、翌朝視れば、其帆檣は扭斷てありしとぞ、是等の類、昔より今に絶えず、故に當山の靈怪あるは、遠近知らざる者なく、衆人畏怖恭敬し、常に諸郷より參詣す、况や當邑をや、就レ中正五九月、春秋彼岸には、諸人特に多く、縁日は毎月廿八日にて、其日は百人許に及ぶとなり、
卷之二十二 薩摩國揖宿郡 山川 神社 竹之山神祠 『三國名勝圖會(全五巻)第二巻』五代秀堯・橋口兼柄(昭和57年8月)青潮社 p467 五代秀尭, 橋口兼柄 共編『三国名勝図会 : 60巻』8(巻之22-24),山本盛秀,1905. 国立国会図書館デジタルコレクション 五代秀尭, 橋口兼柄 共編『三国名勝図会 : 60巻』8(巻之22-24),山本盛秀,1905. 国立国会図書館デジタルコレクション 竹之山と鳶之口峯の二つの山に、天狗が住んでいると言います。 山の頂上に神が降臨したり、太鼓や法螺貝の音が鳴り響いたり、がけ崩れの音はするけれど一つも石が落ちた形跡はないそうです。
そして、夜、散樂の謠をうたったり、高音で談話したりしていると、石が降ってくるそうです。
近年見られる騒音問題みたいですね。デカい声で歌ったり騒いだりしていると、近隣住民から苦情が来るみたいに、天狗から石が飛んでくるわけですw 天狗礫ですね。
続いて白銀坂の方です。
白銀坂 脇元村白銀山中にあり、薩隅の大道にて、本府より行は、降坂なり、坂の長さ一里に近し、〈坂下より、坂中吉田境芝まで、凡二十四町二十四間、重富の内也、〉坂中に薩隅二州の境木あり、鹿兒島郡の方は、地形高敞にして、姶羅郡の方は地形漸く低く、岡巒廻合して、大道其間に通ず、水泉縦横に流れ、石路崎嶇として、行人足を傷り易し、本府近地の險は、白銀を以て第一とせり、是坂を下り、薩隅の境木を稍過れば、隅州の遠地豁然として一望の内に歸す、高千穂嶽は天際に聳へ峙ち、米山蔵王二巒、突兀として奇を目下に呈し、群山高低、遠く雲間に相連り、曠野平田、微渺として、村落の樹色薺の如く、帖佐通道一里の列松は、海に沿て煙翠を浮べ、遠くは上別府川、近くは渡瀨川、白練を曳て海に入り、南は裏海蒼然として、隅州の地を抱き、櫻華岳海中に秀抜して、盆山の如く、山海相映して、景状絶勝なり、心なき俗吏賤卒といへども、必す杖を停めて賞歎し、吟詠の情を起す、いはんや、騒人墨客風流の侶に於てをや、此坂は種々の妖怪 ある處にて、本藩武樂の歌、琵琶法師の歌、或は散楽の謠等を忌む 、若此禁忌を侵せは、俗に云へる天狗倒し 必すあり、又棺の通行することを忌む、若この禁忌を侵せば妖魅の爲に失亡せらるといへり、
巻之三十九 大隅國始羅郡 重富 橋道 白銀坂 『三國名勝圖會(全五巻)第三巻』五代秀堯・橋口兼柄(昭和57年8月)青潮社 p645 五代秀尭, 橋口兼柄 共編『三国名勝図会 : 60巻』13(巻之37-39),山本盛秀,1905. 国立国会図書館デジタルコレクション 五代秀尭, 橋口兼柄 共編『三国名勝図会 : 60巻』13(巻之37-39),山本盛秀,1905. 国立国会図書館デジタルコレクション 白銀坂は大変景色がよく、平凡な役人や下級の兵士であっても、足を止めて褒め、短歌を詠もうというような気持ちになると言います。まして、詩人や書画をたしなむ風流な人たちならなおさらです。
ところが、この坂には様々な妖怪がいるようで、本藩武樂の歌、琵琶法師の歌、散楽の謠などは良くないそうです。
本藩は鹿児島藩でしょうか。武楽は武士の学問のことかと思いますが、そこに歌もあるのでしょう。琵琶法師はまぁわかるとして、散楽がお能のことです。謡曲もダメってことですね。
禁忌を侵すと「俗に云へる天狗倒し」が必ずあるというのですが、「俗に云へる」がわざわざ頭についているのはどういう意味があるんでしょうか。
天狗倒しは、山奥から倒れるような音がするけれど、行って探してもその現場を見つけられないという怪音現象です。
ついでに棺の通行も忌んでいますね。
31.「温故之栞」 「温故之栞」は温故談話会から発行された郷土史研究雑誌で、明治23(1890)年の創刊です。
名所舊跡の部 ◇謠ヶ池 中蒲原郡五泉町八幡宮は、延喜式内宇都良波志神社の正蹟にして、社殿宏壯位地閑雅千古の風致あり、境内一の古池を謠ヶ池 と云ふ、昔しより此池の傍はらにて謠を吟ずる 者あれば水面より烟霧の如く立登る中に黑髪を亂せし婦人 の姿顯はれ、大なる怪異に逢ふと言傳ふ、今尚ほ惡戯に謠を吟じ此怪を見る者あり。
「溫故能栞(オンコノシオリ)」第七篇 明治廿三年八月十五日刊行 『復版「温故之栞」第一卷』阿部松三(昭和11年10月)温故之栞刊行會 二四二頁 この本は見れるところが少なく、8年前の私は京都大学大学院経済学研究科・経済学部図書館まで行って閲覧させてもらいました。
今、改めて探してみると、NDLで公開されているではありませんか。 あの頃は「近代デジタルライブラリー」という名前でした。懐かしいです。 その頃から公開されていたのかのかも知れませんが、便利な時代になりましたね。
温古之栞刊行会 編『越後志料温古之栞』第1巻,温古之栞刊行会,昭11. 国立国会図書館デジタルコレクション 八幡宮の境内にある謠ヶ池の近くで謡を吟ずると、黒髪を乱した婦人が水中から現れ、大なる怪異に逢うそうです。大なる怪異ってなんでしょう? 今でも悪戯で謡を吟じ、怪を見る者がいると言うのですから、結構な話です。
現在は五泉八幡宮という名前で、インスタグラム がありますが、Googleマップを見る限り、池はなさそうです。
32.「譚海」 『譚海』は江戸の出羽久保田藩(秋田県)御用達商人である津村淙庵(つむらそうあん)が20年間の見聞を記したものです。(参照:日本人名大辞典)
○駿河御城内に、杜若 といふ御長屋あり。爰にて杜若の謠 をうたへば、かならずあやしき事あり。よつて駿河御番の衆には、杜若の謠 は御法度のよし、御條目の一つに仰渡さるゝこと也。
『日本庶民生活資料集成 第八卷』p205 卷の十二 員正恭 著『譚海』,国書刊行会,大正6. 国立国会図書館デジタルコレクション 員正恭 著『譚海』,国書刊行会,1917. 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1882242/1/221
こっちはカラー版です 駿河御城内の長屋では「杜若」の謡を禁止していたので、駿河御番の衆にも御法度であると御条目に書いてあるそうです。 御条目は見つけられませんでした。また、国男も言っているように、なぜ「杜若」なのかは、これだけではわかりませんね。
おわりに 今回も量が多いので、ここで切っておきます。
しかし、索引もないのにどうしてこんなに的確な用例を見つけれこれるんでしょうか。すべてに目を通しているんでしょうかね。恐ろしいことです。
有名なコンテンツが禁忌になる例というのは、現代でも少なからずあるんじゃないかと思います。
少し謡曲とは異なりますが、「モモの呪い」なんてのがあります。 アニメ「ミンキーモモ」の最終回が放送される日に地震が発生するという都市伝説です。こうなると再放送しにくいですね。
また、Vtuber事務所の「にじさんじ」で、代表曲である「Virtual to LIVE」をデビューしたての新人が歌ったところ、「新人が軽い気持ちで歌うな」と炎上した事件がありました。今思い返すと何でも炎上する時期だったなぁと思うのですが、界隈が大事にしているものというのは、扱いが大変難しいです。こういうことがあると、「新人は歌ってはいけない」という禁忌が生まれてもおかしくありません。