「自由」と「不自由」のかけ算
私はとても気分屋で飽き性。だから同じことはそう長くは続かない。でも同時に、それに反するように何か必ず同じことをしっかりルーティン化して続けていないとバランスを崩すという一面もある。
最近の私は、なんだか前の私より少し柔軟な考えができるようになった気がしている。前までは、正義感のあまり「こうでないといけない」が強く、良いと思えるものを強く支持したり、理想を高く持ちすぎるあまり、「こうなるために必要なことだけしかしてはいけない」と頑なになって行動を狭めたりすることが当たり前だった。それが最近やっと『バランス』というものを覚え始めたのか、極端に偏ることなく、負荷なくバランスを取って自分の“ちょうどいい“に合わせることができるようになってきたように思う。
そしてその結果、最近の私が気づいたのが「何も続かないくらい飽き性であること」と「継続したルーティンで整える必要があること」のバランスを取るということ。
私はルーティンにしていることがいくつかある。
・朝起きたら温かいものを飲む
・香りを焚く
・丁寧にスキンケア
・書く
・朝ご飯を食べる
とまあある意味誰でもやるであろう当たり前なこと。
でも以前までの私は、これをルーティンで固定化しすぎていた。
・朝起きたら白湯を飲む
・セージを焚く
・ココナッツオイルでスキンケア
・モーニングページを書く
・納豆ご飯を食べる
こんな感じで、行動の中の「何を」の部分までも決めすぎていたことがある。
これを決めることで、ルーティンを始めたばかりの頃は心身ともに整ってくる感覚はあるのだけれど、ある程度続けていると、途中から「今日はこの気分じゃないのになあ、決めちゃったからなあ…」と、自分で心地よくて決めたはずの習慣が結果妥協案に変わってくる瞬間が必ず来る。
かといって、一切ルーティンを決めずにすべて気分のままに日々を過ごすというのも、それはそれで今度は負荷がかかる。気分のままに動くというのも自分の気持ちを大事にしている行為のようで、都度都度選択に追われ、ストレスとなっていく。それを続けることでやりたくないならやらない、やるならとことんやる、というどちらかの選択肢しか残らず、結果やりすぎ、またはやらなすぎてバランスを崩すのがいつものおちだ。
私はこの、「全て自由」か「全て不自由」という両極端な状態を行ったり来たりしてきたことで、やっと自分にとってちょうど良い自由と不自由の掛け合わせ具合を見つけることが出来てきた。まず、行動そのものはルーティン化すること。(もちろんルーティンそのものが心地の良いものあることや、良い状態を作り出すものであることは前提としよう)そして、その行動の中の「何を」の部分だけはその時の気分で決めること。その「何を」の部分にはある程度の選択肢を残すということだ。
このちょうどいいバランスを見つけてから、またさらに私自身も整ってきた感覚が間違いなくある。間違いなく整うとわかっている習慣に、間違いなくその時の気分が乗ることを選ぶ。これを自分流に調整して作っていくことが、これからの私の楽しみにもなりそうだ。