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土に深く根差した、健やかな草花のように生きる

先日とある会社のアドバイザリーに入っていてとても不思議だな〜と感じたことがある。

詳細は伏せるが、その方は自分自身が体験として響いたものがあり、それを事業として取り組みたいと起業をされた方だ。

アドバイザリーで求められたのは、「X倍成長するにはどうしたらよいか?」というディスカッション。

いろいろ話すことはできるが、話しても話しても、「その人」と話している感覚になれていない自分に気づいていた。
「経営者として売上を作る人」とは話しをしているが、奥の「本人」とは話せていない感覚。
(もちろん売上を作ることが楽しい人いると思うが、その人は「経営者」をしたいというよりも、自分が響いた体験を広げたいというアーティストタイプの人だった)

それは、まるで「土に深く根差した、健やかな草花」と「花瓶に美しく飾られた刹那的な草花」の違いのようにも見えた。


「本当の願い」「ニーズ」「いのち」「自分とつながる」どんな表現でも良いが、本来のものに根ざすことを妨げるものが多すぎる。

「土に深く根差した、健やかな草花」として生きることができるはずなのに、「花瓶に美しく飾られた刹那的な草花」のような生き方をしてしまう。


そして、その人の喜びにつながっていない事業で多くの人の時間が使われてしまう。
果たしてそれでいいのだろうか?


(絵としては綺麗にかけていないが)
重荷をおろす、本来性に根ざす、自然と表現があらわれてくる。
それを歩んでいるといつの日か育まれたものが固定化されていることに気づき、また最初のサイクルに戻る。


「土に深く根差した、健やかな草花」のような生き方がしたい。
そう生きる意思がある。
できない時もあるかもしれないけど、それでもそこに戻ってくる意思がある。


「土に深く根差した、健やかな草花」として生きる。
そんな支援をコーチとしても、コンサルタントとしても、アドバイザーとしても、母としても、
あらゆるインターフェースで大切にしていきたい。

そんなことを感じながら、大好きなharuka nakamuraの曲をきく。


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