滅私奉公と奉私滅公との間 ~「活私」が基本~
私を滅して公に奉ずる:滅私奉公。
私に奉じて公を滅する:奉私滅公。
漢字だけを見れば、こういう意味です。
噛み砕いて言えば、
大げさに言えばそんな考え方です。
皆様だったらどちらですか?
…でも、これはどちらも同じ穴のムジナ、
という感じがしますよね。
その心は? …極端が過ぎる。
「私」と「公」の定義は様々ありますが、
「私」は個人で「公」は集団。
「私」は単数で「公」は複数。
ワンフォーオール、オールフォーワン。
一人は皆のために、皆は一人のために!
とも言います。
この言葉は「一対」でセットです。
これがどちらか「だけ」だと、
滅私奉公・奉私滅公になる。
一人は皆のため「だけ」に=滅私奉公。
皆は一人のため「だけ」に=奉私滅公。
その「間」のことを
考えるべきだ…と私は思うのです。
本記事では、この問題について
考えてみます。
具体例を挙げたほうがいい。
Aという会社があるとしましょう。
このA社は超絶ブラックで、
漫画『カイジ』に出てくる「帝愛」のような、
すべてが会社の利益のために、
ひいてはトップの会長のために…
という会社だ、とします。
一人一人の社員は
見分けがつかない黒服を着て
「私」を「滅」している。歯車。
滅私して奉公、いや、
この場合は「奉社」している…。
滅私奉社。
…でもカイジの帝愛ほどではなくても、
戦後の日本の会社や組織では、
多かれ少なかれこの「滅私奉社」の精神が
前面に出ていた、ように思うんです。
個人の都合より会社の都合が優先される。
言わば「後私先社」。
私は、それが悪いと言いたいのではなく、
世の中に広まっていたのは
そうする人に対して
十分な恩恵があったからだと思う。
自身の生き方、キャリアに悩むことなく、
定年まで勤め上げることができる。
トップや上に立つ器量がなくても、
年功序列でそれなりの管理職に就ける。
下は上に従う。下は上を敬う。
上意下達。敬老!
だからこそ十分に
「滅私」をすることができた。
若い頃の苦労、上からの
パワハラまがいの無茶振りも我慢できた。
いつかは「上」に立てるから。
護送船団。愛社。帝愛。
「奉社」することこそが
私を生かすことにつながっていく…。
…ただ、その桃源郷は、
「バブル崩壊」あたりを期に
徐々に崩れていくことになります。
(注:組織によります。
今なお崩れていない組織もある)
「奉公」「奉社」してきた人が、
報われなくなってきた。
情報化の中、
ネットを通じて他社の情報が広まる。
リストラ、首切り、肩叩き。
そんな先輩たちを見た後輩たちは、
「滅私」しても意味がないのでは…?と
思い始めた。それも無理はない。
いわば当たり前の考えではありますが、
そう考える人が増えてきた。
「公」がある前に「自分」である、と。
「会社」は「私の集まり」である、と。
さて、ここで視点を変えて、
昔にさかのぼって考えてみましょう。
江戸時代は、いわゆる身分社会です。
「分を守って暮らすこと」が前提。
農民がいきなり殿様になるような、
「下剋上」を原則否定したのが江戸時代。
このような社会では、滅私奉公、というより、
「私」「個人」という概念そのものが薄かった。
プライベート、というカタカナ英語は
今でも日本語に訳しにくいですよね。
昔の日本家屋には「個室」がありませんでした。
武士はお家のために死す。
農村では同調圧力が強かった。
「お家」や「ムラ」が至上のものとされ、
それらを平穏を保つためならば
酷いことも認められてきた…。
(手塚治虫さんの衝撃作、
漫画『奇子』を読むと出てくる雰囲気です)
ワンフォーホームの精神。
家のための個人!
これが明治時代になりますと、
四民平等という建前の下で
新たなるヒエラルキーが生まれます。
お家というより国家が前提。
列強に対抗するための富国強兵。
いわゆる近代化、国民国家。
この国民国家が他国と戦争をしますと、
国を守るために「滅私奉国」する精神が
前面に出ます。
言わば、ワンフォーナショナルの精神。
国と個人とが直結していた。
…ただ敗戦し、戦後になりますと、
この忠誠の対象、国へ奉公しても
報われなかったのではないか…?
という解釈、風潮が出てくる。
そこでいくつかに分かれていきます。
人間それぞれ向き不向き、好き嫌い、
スタイルがあると思っておりますので、
どのスタイルが絶対善でどれは絶対悪だ!と
決めつけるつもりはありません。
ただそのような変化があった。
その延長上で政治の季節から経済の季節、
「高度経済成長」「安定成長」に移る中で、
徐々に「滅私奉社」スタイルが
主流になっていった…と言いたいのです。
…いや、厳密に言えば、
「専業社員&専業主婦」スタイルの
家族が増えていきましたので、
性別で違いますよね。
そんな「核家族」が主流になる。
ただ、ですね。
先述したようにバブル崩壊あたりを境に
『滅私奉社』の夫(男性・父親)が、
「俺はまだ自分を出していないだけ」
「本当の自分って何?」
と考え始める傾向が強くなった。
それと同時に、
『滅私奉家族』傾向だった妻(女性・母親)
もまた、社会に出ていきます。
ただ、夫(父親)がすぐに
家事を分担してくれるケースは少ないので、
◆『滅私奉家族&滅私奉社』
というハードモードに
なってしまった人も多かったのではないか。
じゃあ、どうすれば?
…ここまで読んでこられた皆様には、
すでに答えが出ていると思います。
その一つは、タイトルに書いたように
を模索し、自分なりの凸凹に合った
自分なりのスタイルを実践することです。
滅私、奉私、いずれも極端。
「私なんてどうなってもいい!」
「私が良ければなんでもいい!」
どちらも行き過ぎ。
活かすべきです。活私がいい。その上で、
奉公、皆のために頑張ろうが、
滅公、皆はどうでもいいと思うか、
それはその人のスタイルではないでしょうか?
基本は自分を「活かす」こと。
ただ「生かされている」だけでなく…。
最後にまとめます。
本記事では「滅私奉公と奉私滅公との間」
について、考えてみました。
皆様は、いかがでしょう。
自分を「活かす」ことはできていますか?
どのように活かしていきますか?
※福本伸行さんの漫画
『カイジ』シリーズの「黒服」「帝愛」に
ついてはこちらをどうぞ↓
※手塚治虫さんの漫画
『奇子』(あやこ)はこちら。
この物語を「江戸時代」ではなく
「戦後日本」を舞台にしているのが
さすがは手塚治虫…という漫画です↓
※本記事は 淀瀬 博行 さんの
記事にコメントしたことをきっかけで、
考えて書いてみたものです↓
合わせてぜひどうぞ!