佐藤一斎、重職の心得を語る
さとういっさい、1772年生まれ。
江戸時代の人です。
日本史で言えば、田沼意次が
老中に就任した頃に生まれました。
さとういっさい、1859年に亡くなる。
日本史で言えば、桜田門外の変で
大老の井伊直弼が襲われる
前の年に亡くなりました。
長生きなんですよ。
1772年~1859年だから
約88歳の生涯を生き、亡くなった。
この人の残した言葉は
今でもなお、生きている、と言えます。
小泉純一郎元総理が、
「教育関連法案」の審議中に
彼の言葉を引用したことでも有名です。
若い時に学べば、壮年になり活躍する!
壮年で学べば、年をとっても衰えない!
年をとって学べば、死んでも朽ちない!
本記事では佐藤一斎と
その言葉の一部を紹介していきます。
儒者です。
江戸時代には、儒者、といって
「儒学を学び教える人」がいました。
儒学とは、古代の中国の
孔子(こうし)が起こして、
大成させた学問ですね。
いわば、江戸時代の学者さん。
元々は中国の学問ですから、
日本にわたって研究されていくうちに、
色々なカラーを持った「儒者」、
儒学者が生まれていきます。
佐藤一斎は、その中の一人なんです。
彼は1772年、江戸で生まれます。
美濃(いまの岐阜県)の岩村藩
というところの藩邸(江戸の出張所)で
生まれたんですね。
家柄はいい。
代々の家老を務める家でした。
ですので、岩村藩の大名、松平氏に仕えて
主君の三男の近侍になります。
…この三男がけっこう凄い人だった。
1768年生まれ、佐藤一斎とは
4年ほど年上。学問がよくできた。
江戸時代の藩主や藩主の一族には、
バカ殿様的な
どうしようもない人も出てきますが、
時々、このような優れた人も出てきます。
この殿様の三男、同じく学問好きの老中、
松平定信の命令によって、
「林家」を継ぐように命じられました。
りんけ。はやし、という名字の家。
江戸時代に幕府の儒官として、
「林羅山」以来、学問や文教の
総元締めをしていた由緒ある家柄。
ここを佐藤一斎の上司が継いだんです。
三男は、名前を改めます。そう、
「林述斎」(はやしじゅっさい)の爆誕!
彼は八代目で、林家中興の祖と呼ばれた。
当然ながら、彼に仕えていた
佐藤一斎も引き上げられていくのです。
松平定信、と言えば「寛政の改革」です。
この中で彼は
「寛政異学の禁」というものを出します。
儒学の中でも、特に
「農業と上下の秩序」を重視した
「朱子学」を正しい学問とした。
当時流行していた
「古文辞学」や「古学」を規制する。
いわば、幕府という政府が
学問の中身に踏み込んでいった。
林述斎と佐藤一斎は、
時の権力者、松平定信から
送り込まれた刺客の一面がある。
それまで「林家」が家の家業として
湯島聖堂というところで
儒学を教えていたんですが、
美濃の松平家の三男が乗り込み、
幕府の直轄機関の学問所にしていった…。
これが後の「昌平坂学問所」です。
(明治以降の「東京大学」の
源流にもなります)
1841年、この林述斎が亡くなります。
第一の門人であり
学友でもあった佐藤一斎は、
儒官(総長)に任じられる。
いわば、東京大学(の儒学部門の)総長、
になったようなものです。
朱子学とともに陽明学も修める。
「陽朱陰王」とも呼ばれた。
門下生、三千人とも言われる。
彼の影響を受けた人物、弟子としては
などのビッグネームが並びます。
当然、彼らに影響を受けた、
などの「志士」たちにも
大きな影響を与えた、と言われています。
西郷隆盛は、佐藤一斎の著書である
『言志四録』の中から
101条を自分なりに抜粋して、
『南洲手抄言志録』として
まとめているほどです。
(全部を闇雲に丸暗記しようとせずに、
自分なりにアレンジして活かすのが
いかにも実力派の西郷隆盛らしいところ)
1854年、日米和親条約の締結の際には、
林述斎の六男、林復斎を補佐しました。
1859年に死去。88歳。
田沼意次~松平定信(寛政の改革)
~水野忠邦(天保の改革)~ペリー
~日米和親条約~井伊直弼と続く、
江戸時代の後半に
儒学者、儒官として活躍した佐藤一斎!
最後にまとめましょう。
本記事では、佐藤一斎と
その言葉の一部を紹介しました。
彼は出身地である岩村藩のために、
『重職心得箇条』という
上に立つ者の心構えも書き残しています。
全部で17条あります。
これは聖徳太子(厩戸皇子)の
「憲法十七条」にちなんでいるそうです。
現代語風にアレンジして書いてみましょう。
…現代の経営セミナーでも
ふつうに使われそうな言葉ですね。
これ、江戸時代に書かれたんですよ?
佐藤一斎、恐るべし…!
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