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戦国時代~安土桃山~江戸時代。
その頃に生きた人です。
加藤清正。かとうきよまさ!

1562年に生まれて、1611年に亡くなる。
約50年の生涯です。
熊本では今でも人気が高く、
清正公さん(せいしょうこうさん)とも
呼ばれるほど親しまれているそうです。

…ただ、この人、何をした人なのか?
と言いますと、なかなかパッとは
思い浮かばないかもしれない。

それもひとえに天下分け目の戦い、
1600年の「関ヶ原の戦い」に、直接
「参加していない」
ことが大きいでしょう。

しかしですね、この人は歴史の転換点で
かなり大きな役割を握っていた。
キーパーソンの一人だったのです。
本記事では清正の生涯と、その立ち位置を
私なりに書いてみたい、と思います。

1562年、尾張国愛知郡中村に生まれる。
今で言う「名古屋市」生まれです。
彼の母親は、有名人の母親といとこ同士。
(豊臣)秀吉です。

1573年、秀吉が近江国(滋賀県)の
長浜城主になりますと、
当時11歳くらいだった清正は
秀吉に仕え、小姓になります。

秀吉の子飼いの家臣、小姓たち。
「福島正則」も尾張から呼ばれた。
一方、後に関ヶ原の戦いで家康と戦った
「石田三成」は近江の出身です。

…後から考えますと、清正たち「尾張系」と
三成たち「近江系」、すなわち
出身の違いが歴史を動かした
ようにも思える。
秀吉が出世して信長が上京したため、
彼らは尾張から「転勤」して
はるばる近江までやってきていたのです。

この「尾張と近江の混成軍団」である
秀吉軍は、さらに西へと転勤します。
播磨国(兵庫県の姫路中心)のあたり。
中国地方の毛利氏に対して出陣する。

さて、1582年、清正が20歳の頃、
大事件が起きます。本能寺の変!
信長が、明智光秀に討ち取られた。

秀吉は「中国大返し」で敵の毛利軍と講和、
すぐに京都方面に引き返して
光秀を討ち果たしました。
翌1583年、今度は北陸の柴田勝家相手に
「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」を戦う。

この後にですね、秀吉は自分の家臣には
『賤ヶ岳の七本槍』という武将がいるぞ!
と、おおいに宣伝をしたんです。
加藤清正、福島正則をはじめ、
脇坂、片桐、平野、糟屋、加藤嘉明…。

ただ、清正自身は、この
「七本槍」を話題にされるのを嫌っていた、
と言われています。
なぜなら、彼はどちらかというと
「財務・民政」において活躍していたから。
政治家として出世したかったから。

…意外とは思いませんか?

加藤清正と言えば「豪傑」!
力自慢の暴れん坊!というイメージが強い。
確かに体躯は大きく、武勇に優れていた。
しかし実際は一騎駆けの武者というよりも、
「政治家」の面が強い。


1586年、秀吉は九州を平定。
1588年、肥後国(熊本県)の佐々成政が失脚。

「さて、誰に肥後を任せようか?」

そこで白羽の矢が立ったのが、
若干26歳の加藤清正なのです。
この出来事を見ても、清正は
武勇一本槍の男でないことがわかる。
人を見る目にかけては天下一品の秀吉。
政治のできない人に大領を任せるはずがない…。

清正は主に「財務官僚」として活躍していた。
九州平定の際も、後方支援、土地を調べ、
税を確実に取る仕事をしていた。
だからこそ、清正が任命されたのです。

秀吉は、肥後の北半分を清正に、
肥後の南半分を小西行長に任せます。

そんな彼は、1592年からの朝鮮への出兵で、
行長とともに出撃します。
…意外かもしれませんが、清正が
大軍を率いるのは「これが初めて」。
200人程度しか率いたことがなかった。
それがいきなり海を渡り、異国の地で、
万単位の兵を率いることになったのです。
どれだけ苦労したことでしょうか…。

ここで、別隊を率いた小西行長や、
本国と現地の連絡係をしていた石田三成と
仲が悪くなった
、と言われている。

本国の秀吉と現地の清正との間には、
海を隔て、とても長い距離がありました。
しかも、馴染みのない敵国での戦闘…。
誤った連絡、行き違い…。
極限状態の中で、次第に行長や三成との間に
いさかい、心理的な溝ができる。

1598年、秀吉が死去しますと、彼ら
渡海衆(海を渡った軍団)が帰ってきます。
清正は叫んだ。恨み骨髄。

「小西行長のおかげで酷い目にあった!」
「五奉行、石田三成の失政、許すまじ!」

自然、石田三成たちと対立する
徳川家康に接近します。
…しかし清正、家康べったりでもない。

裏で事件を起こす。

薩摩(鹿児島県)の島津家の内紛に際し、
反乱を起こした側の伊集院という一族を
密かに支援した
のです。

1599年、島津の若殿、忠恒が
家老の伊集院忠棟を誅殺した。
伊集院氏は豊臣家と直接つながっており、
島津氏を乗っ取ろうとした、という。
家康は島津氏に内紛を鎮圧させようとしますが、
何と清正、反乱側の伊集院氏を密かに支援。
家康に歯向かった。

豊臣家をないがしろにしがちな
家康に反抗する気持ちもあったのでは…。
ともあれ、この事件によって、
清正は家康から警戒されてしまいます。

1600年、関ヶ原の戦いが起きる前、家康は
東の「上杉討伐」に向かいますが、
清正は連れていってもらえなかった。

むしろ九州の肥後で「謹慎」させられている。

家康としても、危険分子の清正を
連れていき、その途中で反逆でもされたら
たまったものではない、と思ったのでしょう。
清正は「上杉討伐」に反対していたから。

…こうした背景から、関ヶ原の戦いでは
清正が西軍につくことも予想されましたが、
西軍の行長や三成とは不仲です。
また家康も、会津征伐についてきた
清正の家臣たちをあえて肥後に帰し、
東軍につくように清正に言わせた。

こうして清正は九州で、
「東軍」として西軍の城を破っていきます。
全国的な東軍の勝利に加担。
この功績によって、戦後には
滅亡した小西行長の旧領、南半分を合わせて
正式に肥後一国の領主になる。

1606年には熊本城が完成。
大坂の陣の前には豊臣家のために
徳川家との仲介もします。

ただ1611年、清正、急死…。
その後の1614年・1615年の大坂の陣で、
豊臣家は滅亡しました。

最後にまとめます。

本記事では加藤清正の生涯を
私なりにまとめて書いてみました。

◆尾張~近江~播磨~賤ヶ岳~朝鮮~肥後
◆秀吉の小姓、七本槍、肥後の領主、熊本城
◆小西行長や石田三成と仲が悪くなった

…もし親戚に秀吉がいなかったら?
小西行長や石田三成と争わなかったら?
関ヶ原の戦いに直接参加していたら?

歴史は変わっていた、と思います。

「七本槍」や「虎退治」などの
勇壮なエピソードだけで語られがちですが、
築城の名手で、内政にも明るい。
政治家としての手腕が高かった清正。

その手腕を恐れた徳川方の
「毒殺説」も根強く残っている…。

彼の死後、子どもの加藤忠弘は
改易されます。

清正とその一族は、戦国にパッと花咲き、
江戸時代には、しぼんでいったのでした。
勇壮な熊本城を遺して。

※豊臣秀吉の人事についてはこちら↓
『秀吉のマネジメント』

秀吉が生きていた頃は
清正も三成もおとなしく従っていましたが、
秀吉が死去すると、仲違いを起こしてしまい
徳川家康に漁夫の利をさらわれる…。
カリスマ的な指導者がいなくなった後の人事は、
なかなかに難しいものですね。

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