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外からの衝撃、中への引っコミュ思案
人が閉じこもるきっかけの一つは「トラウマ」です。
精神的な衝撃!
個人史においても、日本史においても
同じだ、と思うのです。
外に出ようとして、外の空気に染まって、
摩擦が起こり、戦い、ダメージを受ける。
忘れ得ぬ記憶。大きな傷…。
そういったものを癒すには時間が必要です。
あれは何だったんだろう、と考える。
高い展望台に登って眺め、
外ではなく、中でゆっくりと思索する…。
日本史においては、対外的に3つほど
大きな事件がある、と私には思われます。
◆白村江の戦い
◆島原・天草一揆
◆日中戦争・太平洋戦争
本記事ではこの3つの事件の影響を
考えてみたい、と思います。
1つ目は「白村江の戦い」です。
はくそんこう。はくすきのえ。
白村江とは現在の大韓民国の第三の河川、
錦江(きんこう)の河口近く。
古代朝鮮の三国時代、
三つの国の一つ、百済(くだら)にとって
非常に重要な水上交通路でした。
古代の日本は百済と仲が良かった。
しかし、敵もいました。
中国の唐王朝と新羅(しらぎ)です。
日本&百済 VS 唐&新羅!
白村江で激突する。663年のこと。
…結果、どうなったか?
唐・新羅の連合軍に、大敗を喫する。
百済は660年には既に滅亡していましたが、
これによって「完全に」滅亡。
北部の高句麗も滅亡。
朝鮮半島は新羅が統一することになります。
(注:渤海という国が半島北部~沿海に起こり
『南北国時代』という呼び名もあります)
つまり、日本は朝鮮半島から「手を引いた」。
…逆に言えばそれまでは
「朝鮮半島に食い込んでいた」とも言える。
現代の日本の感覚から考えると
「日本列島=日本」なんですが、
白村江の戦いまでは完全に
『西』に進む方向に目が向いていた。
それは、中国王朝・朝鮮半島経由で
西から優れた文物が流入してきていたから。
漢字や仏教は、西から来た。
その一方で『東』は放っておかれていた。
…しかしこの敗戦によって、
朝廷は「日本」へと国の仕組みを整えます。
律令制度を採り入れる。
710年には長安を模した平城京をつくる。
東国にも朝廷の支配が及んでいく…。
「このままじゃまずい!」
敗戦による危機感が
外征から内政、西から東へと意識を移らせて
後の『平安時代』『国風文化』、
閉じこもりの時代の土台を
作り上げた、とも言えるでしょう。
2つ目に行きます。島原・天草一揆。
1637~1638年。
江戸幕府は西日本で多かった
キリシタンたちを警戒していました。
しかし、圧政への抵抗によって
「島原・天草一揆」が起こってしまう。
キリシタンとは、キリスト教徒です。
西欧からやってきた価値観。
江戸幕府は、キリシタン主体の反乱の鎮圧に
とても手を焼きます。ゆえに、
戦後には厳しく取り締まっていく。
キリスト教は厳禁。海外渡航は原則禁止…。
…この事件でまた「西」(西欧)からの
文物が入ってくるきっかけや干渉が
失われた、とも言えるでしょう。
キリシタンたちが根絶やしにされたがために、
キリスト教国とのつながりが断たれる。
「長崎の出島でのオランダの貿易」という
狭い窓口でのみ、幕府の監視の下で行う。
江戸時代は、長く続きました。
日本独特の文化が醸成されていきます。
元禄文化や化政文化。文学に浮世絵。
島原・天草一揆からの「鎖国」の流れは、
その後の日本史の行く末を左右した
大事件だった、とも言えましょう。
では、3つ目は?
日中戦争・太平洋戦争。
本記事でこの戦争の是非を問うことはしません。
ともかく、日本は進撃し、そして敗れた。
近代化をいち早く成し遂げて、
朝鮮、台湾、そして満州を手に入れた日本は
西の中国と戦争を始めます。
1937年~日中戦争。しかし、中国は広い。
なかなか戦争は終結できなかった。
そのうち、東のアメリカ合衆国とも
戦争を始めるようになります。
太平洋を主な舞台にして、ぶつかる。
1941年~太平洋戦争。太平洋も、広い。
1930年代からの経済的な対日包囲網は
『ABCD包囲網』とも呼ばれました。
連合国の陣営のうち、アメリカ(America)、
イギリス(Britain)、中国(China)、
そしてオランダ(Dutch)です。
江戸時代に長崎で貿易していたオランダ。
明治~大正時代に同盟を結んだイギリス。
そういった国とも敵対した。
…敗戦の結果、日本は再び
日本列島のみに封じ込められます。
(注:沖縄返還は1972年)
当然、国内の国民の意識も閉じこもる。
「冷戦」で対立する世界を横目に、
「平和国家」として復興、
加工貿易、経済成長へと邁進する。
外征はしない。内政を豊かにする。
その結果として経済大国になっていく…。
ただ、この閉じこもりの時代に
世界から『平和ボケ』と揶揄されたように、
世界的な感覚からずれていったように思われる。
その象徴がガラパゴス・ケータイです。
いわゆる『ガラケー』。日本独自規格。
まるでガラパゴス諸島のゾウガメのように、
独自のアレンジを遂げていく…。
以上、3つの事件とその影響を
書いてきました。端的にまとめます。
◆白村江の戦い→敗戦:日本成立・国風文化へ
◆島原・天草一揆→西欧否定:江戸期の文化へ
◆日中戦争・太平洋戦争→敗戦:戦後の文化へ
この3つに共通することは?
…「トラウマ」からの出発だと思うのです。
ひどい結果に終わった。無意識に否定したい。
そんな意識がその後に影響した。
「白村江の戦い」の敗戦によって、
日本は国内を整備する必要性に迫られます。
西から東へと意識が向く。
「壬申の乱」の時の大海人皇子、
後の天武天皇は「東」から兵を集めました。
白村江での敗戦で西では兵が足りなかったから。
都も内陸に移る。ひいては
鎌倉幕府による武家政権へもつながる…。
「島原・天草一揆」の衝撃により、
日本ではキリスト教文化、西欧の価値観が
(蘭学などの例外を除いて)
公には広がらなくなります。
『絵踏』などの思想チェックも行われる。
泰平の世、独自の文化を育む一方で、
「同調圧力」「攘夷」などの排他性も生み、
国際化や近代化の遅れにつながる…。
「日中戦争・太平洋戦争」の敗戦は、
かつての敵、中国やアメリカに対する
複雑な感情を生むことにつながっています。
それは、現代の日本にもつながる。
屈折した思い、依存からの反発。
行き過ぎたナショナリズムが生じることも…。
(小説家の三島由紀夫なども、
かなり衝撃的な最後を遂げていますよね)
最後に、まとめます。
本記事では日本史において
「閉じこもる」きっかけとなった
3つの事件を取捨選択して書いてみました。
いずれも「西」向きのベクトルがきっかけ。
外への行動と衝撃の反動により
たびたび閉じこもりの時代が生まれて、
京都、江戸、東京など、
ザ・ジャパニーズな文化を育んだ…。
読者の皆様は、どう思われましたか?
…あなたの個人史において、外での衝撃と、
その反動での閉じこもりの経験はありますか?
SNSなどの「外との窓口」をどう使いますか?
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