清正の宿敵、小西行長 ~秀吉カラーの男~
加藤清正の『宿敵』とも言うべき男!
それが小西行長(こにしゆきなが)です。
確かにこの小西行長、
加藤清正のような『七本槍』『虎退治』という
勇猛なエピソードもなく、
石田三成のような『家康と戦った男』という
歴史に残る事績もあまり知られていない。
ただですね、この人を調べると、
まるで「秀吉の化身」のような
奥深い能力と
幅広い視野が浮かび上がってくる…。
本記事では、小西行長について書きます。
1558年、堺(さかい)の商人、
小西隆佐の次男として、京都で生まれました。
加藤清正が1562年生まれなので4歳年上。
備前の福岡(九州ではなく今の瀬戸内市)の
商人の養子になりました
…この備前に、恐ろしい男がいた。
宇喜多直家です。
裏切りや謀略が日常茶飯事の戦国でも、
この男は超A級の最恐レベル!
反逆、毒殺、騙し討ち、何でもござれな男!
行長は、彼に才能を見出されます。
商人から武士へジョブチェンジ、家臣となる。
直家は毛利軍と戦う秀吉と同盟を結び、
まめに連絡を取り合っていたのですが、
行長はその連絡役を任される。
じきに秀吉も、この行長の才能を発見。
自分の臣下に加えるのでした。
…凄いと思いませんか?
下剋上の権化のような直家、秀吉。
この二人からスカウトされて家臣になる。
秀吉も正規の武士の出身ではなく、
農民や商人などからジョブチェンジした男です。
「こいつ、自分と似ている!」と思ったのでは。
彼は、豊臣政権の中で
ユニークな出世街道を歩みます。
『舟奉行』に任じられるんですね。
「摂津守」にもなる。摂津は今の大阪。
「商売もできる水軍司令官」です。
1585年、23歳の頃には、瀬戸内海の
「小豆島」で1万石の大名になった。
この頃、高山右近という
キリシタン大名の影響で洗礼を受けます。
ただ信心深い右近とは異なって、行長は
「ビジネスキリシタン」的な要素が強い。
商人や貿易となれば、
スペインやポルトガルとつながりの強い
キリシタンのほうが有利ですからね。
西日本、特に九州はキリシタンも多い。
ワールドワイドな活躍への鍵、でもあった。
しかし1587年、秀吉は
「バテレン追放令」を発します。
信心を捨てなかった右近は改易される。
面従腹背の行長は
右近を密かに島にかくまい、秀吉に諫言。
行長の才智を知る秀吉は
半ば黙認する形になる…。
同年の1587年、秀吉は九州を平定します。
1588年には佐々成政が失脚し、
肥後(熊本)が空く。
そこで秀吉は、肥後の北半分を加藤清正、
南半分を小西行長に任せるのでした。
…この人事が、私にはどうも解せない。
とにかくこの二人、対照的。
「同じ水槽に入れたらいけない魚」です。
良く解釈すれば、対照的な二人に
九州で同じ仕事をさせることで
「お互いの良いところを吸収しろ!」
『ライバル』同士で切磋琢磨させた。
でも悪く解釈すれば、対照的な二人を
同じ国にあてがうことにより
反発させ、喧嘩させ、力を削ぎ、自分は
その上に「絶対君主」として君臨した。
一筋縄ではいかないのが、秀吉の人事です。
(注:しかしこの人事が後に豊臣家を滅ぼす)
肥後に入った行長は、今の熊本の南の
宇土に「宇土城」を築きました。
『商売のできる水軍司令官』の城らしく、
船が行き交う「水の城」だったようです。
この工事に反対する天草の国人一揆を、
清正の援軍によって鎮める。
ただ一説によれば、天草のキリシタンたちを
傘下に収めて力を伸ばそうとした行長を
清正が援軍の形で横槍を入れた…とも。
いずれにせよ、九州の地で
キリシタン大名の行長は勢力を伸ばします。
1592年、豊臣政権の一大プロジェクト、
朝鮮への出兵が始まりました。文禄の役。
肥後の二人、清正と行長は最前線に送られる。
海を越えた異国での戦闘、極限状態。
大義のない無理筋の侵攻…。
「宿敵」の行長と清正は、
その中で、徐々に反目していきます。
清正は忠義一途です。
秀吉の命令に愚直に従い、攻め進む!
しかし行長は違った。
この戦いは続けられない、と感じた。
石田三成たちと謀り、
朝鮮や明国側と講和交渉を行う。
…命令に背いてでも講和しようとした。
ただ、明国も大国だ。
講和するなら臣下となれ、と言ってくる。
行長は秀吉をごまかし、講和しようとします。
それがバレる。秀吉、激怒。行長に死刑宣告。
彼は何とか周りにとりなされ、刑を免れました。
それでも彼は、改易や追放はされない。
それどころか1597年からの慶長の役では、
再び出兵を命じられた。
いかに秀吉が行長の才能を買っていたか!
…しかし1598年、この秀吉自身が亡くなる。
「社運をかけたプロジェクトを強行した
旗振り役の社長自身が消えた」状態です。
残された者たちはカリスマを失い、反発し合った。
清正は行長を「臆病者だ、戦犯だ!」と罵った。
行長は「清正が講和を台無しにした!」と罵る。
…その豊臣家の家臣同士の内紛に
便乗したのが徳川家康。
1600年の『関ヶ原の戦い』は
「徳川家康と石田三成の戦い」ですが、
「加藤清正と小西行長の戦い」でもある。
行長は西軍。そして負けた。
九州にいた清正は東軍につき、
行長の居城、宇土城を攻撃した。
ゆえに、行長は関ヶ原に
多くの兵力を連れていくことができなかった…。
戦後、行長は捕らえられて、処刑されます。
まるで都合の悪い真実が明らかになるのを
口封じするがごとく。
約42年の生涯。
最後に、まとめます。
本記事では小西行長の生涯を
私なりに書きました。
後に、1637年に九州で起こった
「島原・天草一揆」には、
行長の旧臣が多数混じっていたそうです。
首領の天草四郎の父親も
小西行長の祐筆(秘書)でした。
江戸幕府はこの一揆を徹底的に鎮圧、
全国でキリシタンを弾圧。
秀吉流の「開国」「商業路線」を否定する、
「鎖国」「農業中心」の江戸時代の始まりです。
ゆえに、秀吉カラーの行長の事績も消されて、
「無かったこと」にされたのではないか?
…ただ、日本から遠く離れた
キリスト教の本場、ヨーロッパでは、
行長の名が残されていました。
関ヶ原の戦いの7年後、1607年には
「日本王アゴスチーノ・ツノカミドノ」
という悲劇がつくられた。
行長の洗礼名はアゴスチーノ。
ツノカミドノとは摂津守殿。
1756年には、オーストリアにおいて、
オペラ『アウグスチヌス・ツノカミドノ』
が上演されている…。
こちらの記事でも
彼の生涯がまとめて読めます。ぜひどうぞ↓
※文学者の遠藤周作さんは、
清正と行長の二人の確執を題材にして、
『宿敵』という小説を書いています。
リンクを貼りますので、よろしければぜひ。
※加藤清正については先日記事を書きました↓
『実は政治家、加藤清正』
※知られざる小西行長の生涯は
こちらの記事を参考にしました↓
※小西行長が生きていた頃、実は
スペインは世界最強の世界帝国です。
キリスト教がどんどん布教されていた↓
『スペイン無双の栄光、太陽の沈まぬ国』
※日本でのキリスト教の広がりを
阻止しようとした秀吉、また江戸幕府によって、
日本は独特の歴史を歩んでいきます↓
『鉄砲と、キリスト教と、フィリピンと』
※なお「関ヶ原の戦い」については、
司馬遼太郎さんが「家康の陰謀説」から、
宮下英樹さんがまた別の視点から、
見事に描き出しています。
それぞれ、小西行長の描かれ方も違う。
◆司馬遼太郎さんの小説『関ヶ原』↓
◆宮下英樹さんの漫画『大乱 関ヶ原』↓
合わせてぜひどうぞ!