フィーコになる <旅行記シリーズ>
「海外に行くならきっと髪を切ろうと考えてるから、できたらローマでも散髪をしたいんだ」
研究のためにローマに暮らしている友人に、宿泊のお願いを引き受けてもらった。渡航日が近づいて、過ごし方の相談をするなかで、僕は散髪の希望を打ち明ける。すると、
「オススメの店なんてないけど、とにかく、あんまり安いところはダメ。ちょっと高い気がしても、それなりのとこに行ったほうがいいよ」
けんちゃん(仮名)はガラになく、真面目に力説した。力説はいつものことだが、真面目なのは珍しい。ローマに到着し、待ち合わせ場所にあらわれた彼をひとめ見たら根拠がわかった。
トルコはイスタンブール空港乗り継ぎで、24時間以上かけ辿り着いたイタリア、ローマ、荷物はリュックひとつだけ。食い意地が張っているので、市内についてまず目に飛び込んだ駅地下のピザ屋でひときれ、なにかを指さし食べるが、油っぽくって冷たくて、そりゃそうだ。どこに行ったとしても、おいしいものを食べないとおいしいものは食べられない。「あそこは食べ物がおいしいよね」と有名な場所にも、おいしくないものはたくさんある。ピザなんて珍しくもないんで「なんじゃこれ! へんなの! おいしいかどうかはともかく、おもしろ〜い」ってな楽しみもない。
入国し空港からの急行列車で市内に移動しその足で、アッピア街道方面へ走るバスに乗る。アッピア街道は古い道で、すごく古いけど使われている。車がビュンビュン通ってる。すごくすごく古いので世界遺産登録もされている。(公費で保護する対象になっている)敷設がはじまったのは紀元前312年というから、街道の全体がそうではないにせよ、「2300年前からそのまま残っている道」といえます。
石が敷かれている。その下に埋まっているであろう遺構を二十世紀以上隠し続けるその道は、がったがたで、非常に悪い。取り囲むゾンビ軍団に激しく殴られているようなものすごい打撃音が、バスの全部から鳴る。十五分乗っただけで誰でもヘルニアを発症し、三十分乗れば尾てい骨がノリになる。運転手にいたってはもう背骨がない。骨がこなれて砂になって、かための枕くらいの脊索に変じている。チキチキマシーン猛レースとか、昔のディズニー映画のカートゥーン画風でもってして、走行しながらバラバラになっていく車体のイメージが目に浮かぶ。かたく舗装された道というのは、車輪にとって都合のいい状態なんだと思い込んでいたが、どうもまったくそうではない。この道の石は、勝手に作物を育てるだとかして、市民が私的に「公」の土地をいじくることのできないようにかぶせられている鎧なのだ。
背骨が砕ける直前に降り、そこがどこかわからないまま古い街道を歩く。市の中心部までUターンする方角で散歩をはじめるが、古く狭い街道に案外車通りが多い。危険を感じ、途中で道を折れると、なかに教会のある、小高い丘を通り抜けるかたちになった。これがまあすがすがしい。腰から下げたラジオから大音量でオペラを流してジョギングしているローマのおじいがおり、これがイタリアか、と頷く。日本だったらさしずめ落語流しながらの散歩というところか。
街の景色にたくさんの遺跡が顔を出す。伝説時代の建築物のなか、しかし現代都市生活者たちが生きている。新しいiPhoneの広告もある。ドラゴンボールとコラボした腕時計の広告もある。天気はよい。コロッセオに近づくにつれ観光の人々が多くなり、あわせて観光客用の商売人も多くなる。似顔絵、花売り、タクシー、意味のないおもちゃを全力で遊び、観光客の子供が親にねだるのを促すイカサマ野郎たち。たいへん華やかである。コロッセオは見学の当日券がなくて入れなかったけれど、コロッセオを背景に自分で自分の写真撮ったりしてさ、観光客ですから。
それからいくつかの教会をめぐるのだけれど、その壮麗さは過剰で、ラファエロはじめ名匠たちの絵画彫刻よりも、教会全体の、息の詰まるような装飾性がもはやおどろおどろしい。
ローマ中心部の名物スポットをいくつか見て回って夕方になって、ようやくけんちゃんと合流した。日中は大学に行ったり、論文を書いたり、調査をしに行ったりで忙しいから、この時間での合流だ。彼は長らく、フェデリコ・フェリーニの映画を"モンド映画"として評価する研究を進めている。
彼の顔はどことなく、水木しげるの描く「サラリーマン山田」あるいは映画『ティファニーで朝食を』にでてくる日本人に近いものがある。80年前に「いらすとや」があったら、当時の平均的な日本の庶民として描きとりそうなニュアンスの全部を正しく身に受けている。それが、久々に会ったらより一層のインパクトがあった。坊主頭になっていたんだ。なんだかTシャツのカーキ色も日本軍の色にみえる。きくと、
「近所の安い散髪屋にいって、"ちょっと短くしてくれ"って注文したんだけど、文法を間違えたのか、それともむこうが誤解したのか、"短く、ちょっとにしてくれ"って受け取られちゃって、問答無用でバリカンで丸坊主にされた」
とのこと。
頭の中央のライン(モヒカンヘアーならモヒカンのあるところ)を初手でいかれた。ハサミをはさまず、メインディッシュをはじめっからいかれたそうで、ビートルズならHELP!の構成。「ちょっとちょっと!」と突っ込んだところでどうしようもない展開だったから、虚心に、なすがままに刈られるばかりだった。
それで、僕がローマでの散髪を希望したとき、真面目に力説してくれたのだ。「あんまり安いところはダメ。ちょっと高い気がしても、それなりのとこに行ったほうがいいよ」
泊めてもらう約束をとりつける間柄だから、仲は悪くないはずだし、もちろん好意をもっている。これを大前提としたうえで、けんちゃんは性格が悪い。たとえば僕が、それなりに分量のある"おもしろエピソード"をひととおり話し終えたあとで、したり顔で頷き、偉そうな拍手をしてから、「この話は二度目でしたねえ。後半のたたみかけが前回よりよくなってましたねえ、ひひひ」などと品評してくる。飲んだあと、商業ビルの男子トイレにふたりで入って並んで用を足しながら、「ぼくな、2人で入ったからってすぐ隣でトイレするやつ嫌いやねん」などとあえて意地悪な言い方をする。
そんなけんちゃんが、「ローマで1番イケてる髪型にしてください」の例文を作ってくれた。紙に書いて、読み方を教えてくれる。この紙さえ美容師にみせれば、んでもって文字を指で追いながら音読すれば、どない間違うても丸坊主にはされへんから、大丈夫や! 太鼓判をおし、そして僕を送り出した。「じゃ今日、夜、ローマ・テルミニ駅集合ね。カルロスと3人でご飯しよう。お店はカルロスに任せてるから、きっと大丈夫。」
10月30日、街や駅や店や公園や美術館や美容室や、いろいろな場所にある時計の時間がバラバラな日だった。サマータイムの最終日なのだ。この日のうちに時計の針は1時間分動かされる。やがて迎える31日のために標準時間に戻される。そしてその操作のタイミングは完全に任意である。
かつ、イタリアでのサマータイム制の最終日という触れ込みでもあった。結局は撤回されることになるが、当時の自覚は「今日は、今年のサマータイムの終わりであると同時に、イタリアのサマータイム全部の終わりの日だ」というもの。おさまりの悪い1時間が一日のあいだ、時計ごとに不揃いにふわふわ含まれる。24時間にされた25時間を過ごす。だから、僕は美容院の予約の時間を守れたのか、破ったとして美容院側がそうととらえているのか、なにもかも頼りない。
10月30日は特定の日であり、かつ任意の時間である。去年も来年も10月30日は「同じ日」として扱われるし、どの10月30日も、10月30日として差別なく扱われ、まったく同じ旗が立てられるので「10月30日」に記号としての価値が生じ、そして暦をつくることができて、わたしらは暦のある世界こそが世界であるとの世界観のなかで生きてしまうようにできている生き物であるらしいんで、暦に従う以外に生き方がない。なかなかややこしい話だ。しかし大切な話なのだ。誕生日や命日にあるように、そしてあらゆる災厄の日にあるように、日付の価値はわれわれのとらえるわれわれの世界にとって、信じなければいけないものだからだ。0806や0809も、0911や0311も、そこに揺るぎなさを覚えない限り、われわれは歴史をつむげない。
なんて話、もしかしたら、10月30日よりも、その翌日の方が説明しやすかったかもしれない。10月31日はお祭りの日だからだ。
ヨーロッパのハロウィンは、生活に浸透している季節行事なので、日本のそれとはテンションが違う。個人が個人の好き嫌いで参加の程度をどうにかできるものでもない。
その日ぼくは、ローマの下町であり、かつ"ファンキーで自由な雰囲気"とも評されるトラストヴァレ地区にいた。教会で建築や絵や彫刻をみて、広場でぼーっとして、定食屋的なカジュアルレストランでランチセットを食べ、ぶらついて、画材屋をみつけて、見たことのない形状の筆やペインティングナイフ、量り売りの膠と顔料など、よさそうなものをバシバシカゴにいれてレジに出したら、ゆうに100ユーロをこえる金額になり、「マジでいいの?」と店員のおっちゃんにいさめられ、そのアシストのおかげでいくつもいくつも品物をカゴから間引いて、許容範囲ギリギリの値段に落としてから購入する。
そのあとまた別の教会にいき、TikTokかなにかを撮影している少女たちを意地悪な視線で眺めたり、庭の花をスケッチブックに描きとったり、知らん人らの結婚式を眺めたり、昔の面影の残る地区とされるエリアをじっくり歩き、そんなこんなで夕方に近づく。
観光ガイドにも載るピザ屋でピザとワインを嗜んで、にこにこしていた。店の入り口に1番近いテラス席で、路地の光景をつまみに飲食する。生のトマトと作りたてのソース、それからかなり強力な火力によって、ピザは、中央の、薄くて丈夫な生地には水分が充分に染みてしっとり重くなっている一方で、短時間でよく焼けた部分は香ばしさと硬さが軽い。つくりを考えりゃシンプルな味付け一色に染まってるはずだがいろんな味がある。楽しみながら眺める路地の奥から行列がやってきた。近所の子供達が列になって歩いている。ぐんぐん近づいてくる。
子供達は平然と、すなわち、「トリック・オア・トリート」的なフレーズさえ口にせずにこっちにくる。自分に声をかけられたらどうしよう。急に焦り、同時に、今日がハロウィンだとようやく気づく。ピザ屋の店員が店の奥から登場し、ハロウィンのお菓子箱をにこにこ差し出して、高飛車な表情の子供らが、たいして嬉しそうなリアクションもせず、じつに事務的な手つきでお菓子を奪っていく。この下町に暮らす子供らだろう。
引率役は、地区のなかで持ち回りになっているんだろうか。つまり人によっては引率役を「やらされてる」というマインドで遂行するものなのだろうか。子供達の列の先頭にたち、かれらの様子を監督し、見守っているおばあさんが無愛想で、まったく乗り気ではないのがあからさまである。表情、態度、いやいややっている様子で、退屈という以上に、腹を立てているようにさえみえる。しかし彼女もハロウィンというイベントの都合上、仮装はしなければならないらしい。ほんとうに乗り気ではない人の仮装の投げやり具合は、ハロウィンという行事が地域の生活にしっかり染み付いている証拠にみえた。おばあさんは黒いマジックで乱暴に口のはじに線をひいただけの姿だったのだ。それで「口裂けメイク」をしているのだ。
そのあとも歩いたり飲んだりして、ローマ中心部のハロウィンの夜を過ごした。大麻が合法*なので、マリファナショップがある。冷やかすべく入店すると、店の奥、カウンターにいる店員の見た目が個性的だった。かなり極端な近視であるらしく、ものすごい度数のメガネをかけているのだ。平時からケント・デリカットと同じ目のサイズ感のおにいちゃん。ファミリーむけのブロックバスター映画のキャラクターのような際立ち方をしている。売られている製品を確かめるよりも店員が気になる。しかも、店の奥で高い声で早口でなんか喋ってる。僕しか客はいない。なんじゃこいつ。
無線のイヤホンをしながらウェブ会議を行っているとようやく気がついたころ、店先が急にガヤガヤやかましくなる。もう夜は遅く、しっかり暗い時間帯に、マリファナショップに、仮装をした大勢の子供達がやってきたのだ。ケントは声をあげ、ハロウィン用に用意していたらしい、大麻エキス配合の菓子を子供達に配る。ツノや蜘蛛や幽霊のついたカチューシャをした、黒くてらてらのマントを羽織った子供達は次々と、手に手に大麻ガムや大麻飴をとり、ケントにチャオを言い店を出ていく。それが10月31日。
さてその一日前、10月30日に話を戻す。
散髪の際に美容師にみせるよう、けんちゃんが書いてくれた文章には、「フィーコ(Fico)」というスラングが混ざっていた。文章自体はかなり丁寧な文法である。けんちゃんが言うに、Ficoとはどうやら"イケメン"という意味で、だから文章は「折り入ってお頼みごとがあるのですが、よろしければ私をイケメンにしていただけませんでしょうか」みたいな内容になっている、はずだった。
サマータイムの混乱を気にかけながら店にいく。こじんまりとした狭い店内に美容師はひとり、店の立つ区域も、店のなかも、なんだか高級感のある、清潔な印象で、にこやかな美容師のお兄さんに注文を聞かれる。けんちゃんの指示通りにメモ紙を見せ、指で文字を追いながら音読する。顔を寄せて一緒に文字を読んでくれるお兄さんは、僕の指がficoにさしかかったときにだけ「fico…」と呟き、読み上げ終えると僕の顔をまともにみて、「Fico?」と尋ねる。こわごわ頷くと、目を逸らさずもう一度、「Fico?」と念押しした。
その夜、日本語を勉強しているローマっ子のカルロスも交え、3人でご飯を食べた。散髪のことを伝えたらカルロスが爆笑した。「Fico? ほんとうに言ったの? Fico言ったの? Ficoしてって? 信じるができない」腹をおさえて体を折る。カルロスを問い詰めても意味は判然としない。なにせスラングだから、インターネットで引いても確かなことはわからない。その言葉を使用する地域や年齢や学校や界隈ごとに、こまかなニュアンスが異なっているはずだからだ。ちなみに単にFicoを辞書で引くと果物の名前「イチジク」の意味だと出てくる。
*大麻については、制限つきで合法化されて、状況をみながら議論がなされてるらしいから、実質的にはまだ実験的な制度といえる。高額な医療用大麻のほか、いわゆるドラッグとしての成分の含有量の低い「ライト・ヘンプ」のみが店先にあるらしい。マフィアの資金繰りを壊す目的もあるとのことだが、栽培や所持についての法律や、EU内での取り決めなど、是非を判断する素材が複雑なので、文章の読みやすさを優先して簡単に「大麻が合法」という言い方をしたが、ほんとうのところ、かなり微妙な問題であるようだ。