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ぼくらはみんなで生きている

1.アニメ

アニメの「ドラえもん」が嫌いで見ていなかった。すぐグズついて泣きわめくのび太の甘ったれがムカつくから楽しくないからイヤだから見なかった。子どものころの話だ。いまはそれを恥ずかしく感じている。
だってほんとうは、のび太こそがみんなにたくさんを与えているのだった。大人になってようやく気付く。
できる、というのはよいことだ。それ自体を否定はしまい。しかしそれは貧しい。できるに越したことはないが、できなさのほうが、さまざまなものを生む。
できなさによって我々は連帯している。世の中では、すべての人が少しずつのび太である。できなさによって、人への不満感であれ、手助けの気であれ、申し訳なさや頼ること、もしくは許すこと補うこと協力すること分け合うこと対立すること貸し借りをつくることなど、すべて社会的なつながりが生じる。われわれを「われわれ」たらしめる連帯の契機、玉突き事故の一台目がのび太だった。
できなさによって、われわれはひとりひとりではない存在になりえる。感受性によっては、テレビの前にいる30分のあいだ、のび太の姿に自分の分身をみることができるかもしれない。そして自分はひとりではないと思えたならば、そこで得た安心感は、誰かを一人きりにさせないぞ、という思いの準備につながるんじゃないか。


2.本

プラトンの『饗宴』と上間陽子『裸足で逃げる』を読んでいた。

プラトンの『饗宴』は、宴席でひとりひとりが愛(エロス)について演説をしていく、という筋のおはなし。最後に演説をするのがソクラテスで、つまるところ「やっぱりソクラテスはすごいなあ」というところに落ち着いていく。しかし話の組み立ては複雑で、
「最終的にソクラテスがエロスについて名演説をぶったという伝説の宴会に、直接いたわけではないけども、それでも詳しく内容を伝え聞いている人が、ほかの人に、「君の伝え聞いていることを教えてくれ」と頼まれたから、話してやった話」という構造になっている。え、ややこしいんですけど。

ただでさえ、いま誰の言葉が書かれているのか混乱するってのに、伝聞や回想もモリモリ織り込まれていて、状況や関係性を飲み込みづらい。きわめつけに、「そして」「そして」「そして」と、いわゆる添加の接続語が多く登場する。子供の話し方みたいだ。子供が「今日あったこと」を教えてくれるときの話し方だ。あのね、それでね、いいよって言ったからね、でもね、それはよくないって言ったからね、そのときにね、お知らせと違ったけどね、給食終わっちゃったの。(は????)

とにかく、『饗宴』は全体を通し、話者の声の存在感が強い。
ソクラテスのすごさを伝えたいだけならこんな構造にしなくてもよい。なのにそうしているというのは、声のリアリティを大事にしているためだろうか。言葉とは常に誰かの声なのだ。その「誰」を透明にしてしまうなんてのはあり得ない。そういう感覚が底にあるんだろうか。

ところが本文では、フィジカルなものを「程度の低いもの」として扱っている。肉体的な愛を「愛ではない」と否定……や、否定しているわけではないけれど、議論に値しないと考えられているのです。なぜなら、肉体的な愛は真理ではないからです。
肉体や命はいつかは終わるものでしかない。もっと高い次元の愛(エロス)とは、永続的なもののために心を尽くすことなのです。っちゅう話になって、そっから教育の重要さを説くフェーズにはいってく。教育こそが最も高い愛(エロス)なのだ。多くの人々に長く影響を残すのだからすごい!
そして、このトップ・オブ・エロスを実現できるのは、奴隷でも無知な人でもなく、優れた人間だけだとされています。

ひとつひとつの「愛」に順位をつけてくなんてのは変な話だと素朴に思うけれど、唯一性のある神や真理をうべなう者ならばさもありなん、仕方ない。



さて、上間陽子『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』も読みました。上間さんをこの本の著者として紹介するなら、レイプやDVによる被害を受けた少女たちを支援する人といえる。
寄り添ってきたひとりひとりの少女のこれまでといまが記され、同時に彼女たちの生きている社会のありようを示す本書のなか、なにより心を動かされたのは、少女一人ひとりと真剣にむきあおうとする上間さんの真剣さ、真摯さだった。なにかを(とても)大切に思う、というのは、美しい。上間さんの来歴に詳しいわけではないけれど、「目の前で痛んでいる人をほっとけない」という気持ちは共同体の原理である。本書はずっと、その原理が十全に駆動している。だからこちらの心も、深いところから共振する。

この本『裸足で逃げる』をソクラテスに読ませたらどう思うだろうか。若者へ道を示す点では「程度の高い」愛だと判定されるのだろうか。けれども個別的で身体的なレベルでの「寄り添い」を、優れてはいない愛だと断じるのだろうか。


(映画:ミツバチのささやき)


結果として何万人もの人を救うことになる画期的な治療薬を開発する研究職の医者よりも、病室で患者の手を取る看護師のほうが愛情深くみえる。「具体的なシーン」のほうが人の心を打ちやすい。「物語」の強さはそこにある。(ならばこそ、ソクラテスの威光を示したいプラトンだって、周囲の人々の態度も含めた哲人ソクラテスの行状や表情を描写するわけだ)

研究職の医師の「愛情深さ」を疑っているわけではもちろんない。しかし、仮に「この研究でたくさんの人を救えるんだ、救いたいんだ!」との信念を握りしめている医師があるとして、その人にそのような思いを抱かせた具体的な出来事がどこかにあるんじゃないのか。少なくとも、のめりこませるきっかけと呼べるような誰かからの一言くらいはあったんじゃないのか。ついそんなふうに、勘ぐりたくなる。


僕の父親は、いわゆる部落差別の傾向がある。あからさまに表明して過ごしていたわけではないから、知ったときはショックだった。あるとき酔った父親が、なんのきっかけもなく突然、「ウチの実家の裏な、住んでる人コレやねん」と四本指のジェスチャーを見せつけてきたのだ。ぼくはただ、怒りと恥ずかしさで、顔を赤くして震えるばかりで、なにも言えなかった。
ところが聞くと、どうも父親を悪く言いきれない。詳細は知りようもないが、父の母と、裏手に住んでいた人とは折り合いが悪く、たびたび諍いがあったのだという。隣人は包丁を握って家におどしをかけてきた。そんなことが何度もあった。
それをまっすぐ、「被差別部落出身者は”そういう人”だ」につなげるのは論理的には誤りでしかないが、母親が包丁で脅されている様子を、息をひそめて見守る少年の心情が自らを納得させるために、そのような「物語」が効果を示すのも理解に難くない。
だからこそ、より、しんどく思う。

差別が問題になるときは、おそらくもう手遅れなのだ。問題として取り扱わなければならないレベルに肥大した差別よりももっともっと手前に、誰の日常にも種がまかれている。そこからはじめなけりゃどうしようもない。
「僕は人権意識にさとい、リベラルで物わかりのいい人物ですから、もちろん差別なんてしません」という態度の人ほど差別主義者だったりする。差別をだめなものだと捉えているからそうなる。斥けようとするからそう言う。それはちょっと、違うかもしれない。もちろん差別はだめなものではあるのだけれど、斥けることのできないほど身近なものなのだ。みんな日常的にウンコしてるのにその話をわざわざしないのと同様、「人目にさらすべきでないもの」「けどほとんど勝手に出てきてしまう困ったもの」なんだ。

愛&憎がアクチュアルなものとして表出するとき、そこには物語が控えている。


3.映画

いま話題の映画『どうすればよかったか?』をみてきました。(『鹿の国』と悩んで、けど『鹿の国』満席だった。ところが『どうすればよかったか?』も結局満席になった。人気すごい!)
※以下、決定的なネタバレはありません

映画の内容:
監督が、自身の家族にカメラをむけて制作したドキュメンタリー映画。
姉がある日、統合失調症を発症した。それにもかかわらず、両親はそれを認めなかった。姉と医療とをつなげないままで時間が経っていく。
発症後10年して、弟は、カメラをまわしはじめる。それからさらに十余年、弟は帰省のたびにカメラをまわす。数十年に及ぶ家族の日々を綴る。


姉の発症から数年、弟=監督は実家を出た。北海道からひとり神奈川へ引っ越して、会社員をしていた。そしてあるとき日本映画大学に入学したのだそうだ。この経歴紹介には、唐突なところがある。それまでの半生に映画の話題なんてなかったからだ。

へんなはなし、カメラはスイッチをいれれば撮れる。技術的な鍛錬なくとも直接かたちを残せる。(光学的に直接記録される)
目の前の現実、目の前にいる人、あるものを、なかったことにしたくない。どうすればいいのかはわからないが、どうにかはしたい。いてもたってもいられない。そういう思いが強い人にとって、カメラは、うってつけのメディアなのかもしれない。カメラを手に取り、目の前の誰かを記録せずにはいられない。なぜならほっておけない。


テアトル新宿


映画のタイトルは、『どうすればよかったか?』

「どうすればよかったか」という問いが出てくるというのはどういうことだろうか。
これでいいのだ、とは思えないから出てくる言葉なのは間違いない。とはいえ「完全に間違っていた」とは断罪しきれない逡巡も滲んでいる。

このタイトルは、蓄積した現在の厚みなのだ。振り返って思いを馳せ、これでよかったんだろうかと、あとから問い返しているんじゃない。このままじゃよくない、どうにかしなきゃ、と思い続けてきた、たくさんの「いま」が押し込まれている言葉なのだ。


数十年ものあいだ、実家にいわば軟禁されていた姉は、のみならず自らの妄想のなかにも引きこもり続ける。

数十年を経てようやく正当な治療がはじめられたとして、そしていわゆる「正気」を取り戻したとして、そのとき、姉自身が、「いままでの25年なんだったのか、私の人生なんだったのか。私は周囲のみんなを苦しめていたんじゃないのか」との念にかられてしまうのではないか。はなはだ無責任かつ無神経に、そんなことも思った。「この人の人生はなんなんだろう」素朴にそんな残酷な思いがよぎる。その直後、
これでいいのだ、とも思った。イヤなことがあって、楽しいこともあって、どうせ死ぬだけのゴールまでの時間を、やれる範囲でしゃかりきに過ごして、それが人生じゃないか! 優劣なんてない。いろんな人がいるから、いちいち考えると不公平なこともあるけど、けど一面では人生みんな平等なんだ!
……そう思いつつも、なめらかでないものが心に残る。それでいいんだろうか。けど、だとしたら、どうすればよかったのか?

弟=監督は、どうすればよかったのか? と問うている。では両親はどうか。その思いをどれほど持っているのか。

持っていないとは言わない。しかし同時に、「これでよかったのだ」「しかたなかったのだ」という思いもあるだろう。
とはいえもし、誰かが、無理に医療につなげていた場合でも、数十年後の両親なら同じことを思っていたかもしれない。「これでよかったんだ」

どうすればよかったのか問うことは、問い続けることは、要するに人の幸せを願っているわけだ。
この映画の話ではなく、もっと一般的に言って、その問いを放棄して「置かれた場所で咲きなさい」的な(あるいは「ほぼ日」的な)充足に視界をもっていくこともまた、「自分を責めすぎない」という点ではまろやかなハッピーにつながる。状況がヘヴィであるならなおのこと。



娘を医療につなげ、「患者」にし、家から出し、病院に送るのは、冷たいような気がしたんだろうか。家族の一員を、はじきださねばならぬ異物としてみるような。これまで通りの家族をやり続けたい。マコちゃん(姉の名前)には、いつまでもマコちゃんであってほしい。そんな気持ちもあったんだろうか。どうなんだろう。誰かの幸せを願う、ということは、いかにして可能なのか。



状態がよいとき、弟にカメラをむけられて、姉はピースサインをしてみせる。彼女はにこやかにポーズをとる。子供じゃないんだぜ? 僕個人のもののみかたが濃い分析だが、世代/時代的なものも考えあわせると、急にカメラをむけられた大人がすかさず無邪気におどけてみせることができるのは、自分自身を嫌っていない証拠に思えた。おどけるその人は、かわいがってもらって育った人にみえた。


終盤で、音楽再生機器の画面がおおうつしになるシーンがある。そこには、ビートルズの曲名が書かれている。そのあとのシーンでビートルズの曲が流れるから、ここでビートルズを具体的に示す効果はあるのだろう。ただ、きっとそれだけではない。曲目の文字にピントをあわせたときに、監督はそこでフォーカスを固定している。カメラがパンして、再生機器をはなれ、別のものをうつした際に、その対象がぼやけてうつるようにしているのだろう。わざとぼやけさせるために、前もって、手前にある再生機器の文字にピントをあわせたんだろうと思う。




〇 おしらせ 〇

1 【個展】 ノーライフスタンド

とき:
1月28日(火)〜2月2日(日)
12:00~19:00
※金曜は20時、日曜は16時まで

ところ:
JINEN GALLERY

人形町駅A5出口からすぐ

2【グループ展】ArtSticker Showcase vol.1



会期中に展示作品の入れ替えがある(というか、気に入った絵があればその場で買って持って帰れるシステムの展覧会)だそうで、自分の絵をみてください!という宣伝をするのが難しい展示でした。

とき:
1月28日(火)〜2月15日(土)

ところ:
アートかビーフンか白厨
六本木のドン・キホーテ、道はさんで向かい側です。

会場自体は、飲食できるし絵もその場で買えるし、という場所。飲食店に併設されたギャラリー、といえばわかりよいか。飲食しなくても、絵を見るだけでも問題ないです。注意されません。逆に、飲み物片手にギャラリー絵を見ることも許されています。

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