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【大乗仏教】唯識派 識の変化

唯識派の思想において、人間的実体(主観的存在)と想定されるものは、生じた瞬間に滅する「識」が次々に継起して形成する識の流れです。そして客観的存在と考えられるものも、「識」の内部にある「表象」に過ぎません。識が瞬間ごとに表象を持つものとして発生することが「識の変化」です。実際にあるのは「識の変化」であって、それを人は主観的存在(自己)あるいは客観的存在と想定しているに過ぎないということですね。「識の変化」という術語をはじめて用いたのは世親(ヴァスバンドゥ)であったと推定されています。

○識の三層(世親の「唯識三十論」を参照)

▼阿頼耶識(アーラヤ識)
異熟とも表現されます。異熟とは善・悪の業の結果という意味であり、ここでは潜在意識としての阿頼耶識(アーラヤ識)に対して用いられます。
阿頼耶識とはあらゆる存在するものの種子の住居であり、この識は過去世における善・悪の業の異熟果であるから「異熟」と名付けられ、人がどのような世界に、どのような境遇を受けて生まれようとも、その人の生存の根底にあって瞬間ごとに継起し、識の流れを形成します。生起した阿頼耶識の種子から末那識と六識は生じます。善・悪の業がもたらす結果としての阿頼耶識は無記となります。

▼末那識(マナ識・自我意識)
思惟・思量とも表現されますが、阿頼耶識の流れを自己と思い込む自我意識のことです。
自我意識(末那識)は阿頼耶識の流れを自我と見なす思惟を本質とする識ということで、マナス(意)の同一視されます。五種の認識器官(五根)による認識(前五識)と並んで、第六に挙げられる思考力{マナス(意・意根)}による認識が意識(マノヴィジュニャーナ)と呼ばれるので、これと区別するために自我意識の名称には識を付けずに、「汚れたマナス」と表記されることもあります。それは自我に関する無知・邪見、自我への慢心・愛着を伴っている有覆無記の識です。自我意識は阿頼耶識から生じます。無限の過去から繰り返して来た、実在しない自己を仮構することの余習が阿頼耶識の中に種子として保持され、それが現勢化したものが自我意識であり、自我意識は滅尽定に入った時には生ずることなく、また見道において超世間的知識を得た後の修習の階梯においても生起しないとされますが、定(禅定)を停止したり、修習の途中で後退したりすれば、再び阿頼耶識から生じてきます。

※唯識派は末那識をマナス、即ち意根と同一であると説明していますが、筆者はこの説明に異論があります。末那識はヨーガ学派における意根(意思・マナス)ではなく、我執(アハンカーラ)と同一ではないかということです。意根(マナス)はマナスで独立して存在するものと思われます。

▼六識
対象の表象・了別境識とも表現されます。色形・音などの対象を自らの内部に持つ、視覚・聴覚などの六趣の認識機能を一括した呼称です。
六識とは五種の認識器官(五根)および思考力(意根)を媒介とする、それぞれの対象の認識です。六識は阿頼耶識の中に置かれた種子から生じ、種々の心作用を伴い、善・悪・無記の性質を持ちます。説一切有部においては、一つの瞬間に生起するのは必ず一種の識のみで、二識が同時に生ずることはないと説かれていますが、唯識派はそれとは見解を異にします。例えば、踊り子の舞踏を見ながら、音楽を聞き、嗜好品を口に噛んでいる場合には、眼・耳・舌による認識は同時に起きているということです。対象に応じて多くの識が同時に生ずる場合もあるというのが唯識派の説です。

○唯識派における輪廻の主体は阿頼耶識?

阿頼耶識と七種の現行識(現前識)は変化しつつ生成していく時に、相互に因となると同時に果ともなりつつ、働き合って展開していくと、唯識派は考えます。つまり、阿頼耶識の種子からの末那識・六識の顕現(生起)と、顕現した末那識・六識が種子を阿頼耶識に置く熏習は、同刹那(同時)に起こります。阿頼耶識自体も刹那滅であり、前刹那の阿頼耶識が消滅しては、それを等無間縁として次刹那の阿頼耶識が増上果として生起する流れを繰り返します。

さて、ある個体が現在(現世)と異なる他の境遇に生まれ変わる場合、アビダルマ的には個体を構成する存在要素(心法+色法の感官などの集合体=有情)の流れが他の衆同分(心不相応行法の一つ)を得ることでした。衆同分とは多くの生命ある存在を互いに相似させる要素であり、欲界・色界・無色界の差別や、天・人・地獄などの境遇の差別や、その他、身分・性別・修習の階位の差別などに応じて、それぞれの衆同分があります。

個体を構成する存在要素を、全て識による仮構と説く唯識説に従えば、現在とは異なる衆同分に結合するのは「識の流れ」ということになります。即ち、現在の生存における善・悪の識(善・悪の六識の活動)によって、現在の生存における阿頼耶識の中で成長した異熟の潜勢力は、現在の生存をもたらした過去世の業(過去世の六識の活動)の牽引力が尽きると(=現在の生存から死滅すると)、現在とは異なる他の衆同分において、新たに阿頼耶識を生じさせます。その阿頼耶識は現在の生存中に現勢化した識(末那識・六識の活動)の種子を保持し、種子の現勢化によって新たに得た境遇においても再び煩悩の世界が現出されるのです。こうして、阿頼耶識は過去世から現世へ、現世から来世へと輪廻する存在の根拠として、その流れを途切れさせることはなく継起しているとします。

現在の生存は過去世の業の異熟果です。唯識説において、業は現勢的な識の働き(善悪の六識の働き)であり、それは絶えず同類の識を生ずる潜勢力を阿頼耶識の中に置きます。一生涯の間には様々な業がなされますが、その内で、特定の業が次の一生涯(境涯)を牽引し、他の業はその一生涯(境涯)の間の諸条件を満たす働きをします。前者は引業と呼ばれ、後者は満業と名付けられます。例えば、ある人が過去世にした布施の善業によって、人の富貴の家に生まれた場合、過去世の布施が引業に該当し、その他の様々な業は彼の寿命・経験・容貌・健康などを決定する満業となります。

○「識の変化」のまとめ
非常にややこしいので、新しい表現も用いてまとめてみます。

①まず、阿頼耶識は種子(識の種子)の運び屋です。生じては滅する刹那滅な阿頼耶識ですが、前刹那のものが次刹那のものに種子を渡し続けています。

②その種子は、二種類に大分類できます。「過去世の七識の活動に基づく種子」と「現世の七識の活動に基づく種子」です。

③「過去世の七識の活動に基づく種子」は、また更に二種類に分けられます。一つ目が「異熟の潜勢力」であり、現世の阿頼耶識を生じさせ続けます。二つ目が「等流の潜勢力」であり、阿頼耶識から現世の末那識と六識を生じさせ続けます。

④「現世の七識の活動に基づく種子」も二種類に分けられます。一つ目が「異熟の潜勢力」であり、二つ目が「等流の潜勢力」です。これらは現世の生存が終わった際に現勢化し、上の③状態へ移行します。

安慧(スティラマティ)は③を「結果としての識の変化」、④を「原因としての識の変化」に関連付けています。

善・悪の六識の活動が「異熟の潜勢力」となり、末那識と善・悪・無記の六識の活動が「等流の潜勢力」となります。輪廻の主体は阿頼耶識でなく、種子ではないかという疑問がありますね。つまり、業(カルマ)自体が同時に輪廻の主体の役割も果たしているのではないかということです。

世親(ヴァスバンドゥ)の著作として知られる唯識経典は、唯識思想としての一貫性の無さのようなものを感じますが、原因は唯識思想の解釈において見解が異なる弥勒菩薩(マイトレーヤ)と無著(アサンガ)の教えをまとめているためと思われます。このあたりは、後の記事で触れていきたいと思います。