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ポイント・オメガ:フィクションと対抗的な〈外〉の思考ーピエール・レヴィによる「IEML(情報経済メタ言語)」の情報哲学的意義ー

私はフィクション以外のものは決して書いたことはないと、はっきりと自覚しています。だからといって、それが真理の外にあると言うつもりはありません。フィクションを真理の中で働かせ、フィクションの言説をもって真理の効果をもたらすことは可能だと思っています。いまだ存在しない何ものかを真理の言説が誘発し、つくりあげる。したがって「フィクションを作り出す(fictionner)」、 そういう可能性はあると思う。歴史に真理を与える政治的現実から出発して歴史を「作り出し」、歴史的真理から出発して、いまだ存在しないひとつの政治を「作り出す」のです。——ミシェル・フーコー

権力の決定的言葉とは、抵抗が最初にある、ということである。権力関係はまるごとダイアグラムのなかに収まっているのに対して、抵抗は必然的に、ダイアグラムを出現させる外と直接的な関係を持つからである。だから、社会的な領野は戦略化する以上に、抵抗するのである。そして外の思考は抵抗の思考となる。……「私は決してフィクション以外のものを書いたことはない……」しかし、フィクションがこんなにも真実と現実を生み出したことはないのだ。——『フーコー』、ジル・ドゥルーズ

未来を予測する最善の方法は、それを発明することだ——アラン・ケイ


 フェイクニュースやディープフェイクなどが現代情報化社会では問題となっているが、そこでの問いはファクト/フェイクや真/偽であり、どのように見分けるかの認識論が中心となっており、またいかに認識が偏見によって歪められるのかを問う「認識的不正義」という哲学も出現している。ファクトかフェイクか、真か偽かという問い、そして何よりもさまざまなものを自分が作ったにすぎない基準によって裁くこと(1)。それに対して、本稿では問いのあり方を変えてフィクションであることをどこまでも徹底化し、認識論ではなく存在論へとフィクションを思考によって変化させることにする。重要なのは、事実や真理であるかではなくて、その影や偽のコピーでしかないと思われていたものを、新たなやり方で解放してやることである。徹底化されたフィクション、解放された偽なるものとは何か。

超越的な価値としての裁きを内在的な評価としての情動でもってかえること。…ニーチェは、すでに裁きを情動にかえていたが、読者にこう警告している。善悪の彼岸は、少なくとも、良いものと悪いものの彼岸を意味するものではない。…良いものは、ほとばしり、上昇する生であり、出会う様々な力にしたがってみずからを変容させ、変貌することができ、それらの力と結びついてはるかに大きな力能となり、つねに生きる力能を増し、つねに新たな「可能性」を開く。確かにいずれにも真理はない。生成しかないのであり、生成とは生という偽なるものの力能、力能への意志である(2)。

たとえば、ロベール・ブレッソンは演劇と映画を区別することによって、このフィクションの徹底化に成功した映画作家である。人間の眼は、人間の生にとって有用であるように光を採り入れるのであって、世界の光をそのままで採り入れているわけではない。また、ユクスキュルが『生物から見た世界』で示したように、それぞれの生物もまたその眼におうじて光を採り入れるのであって、どんな生物の眼も世界の光そのものを採り入れることなどできないのである。しかしながら、カメラはまさに機械的であることによって、眼という器官によって光を切り捨てることなく、ただそこにある光そのものをフィルムに焼き付ける。生物ではなく、自然的なものでもなく、逆に、後からテクノロジーとして登場してきた機械的なもの、偽なるものの方が光それ自体を捉えることができるのだ(印象派がカメラから影響を受けたのはこのような理由からである)。生命を真とするならば、光を解放する偽なるものの効果、つまり、フィクションの効果がここにある。

 演劇も映画もフィクションである。どちらも同じことが、(「上演」と「上映」によって)何度も繰り返される。演劇の場合は、劇場において生身の役者が繰り返し同じものを演じ、映画の場合は、複製されたフィルムによって世界中の映画館において同じものがスクリーンに映し出される。世界最初の映画はリュミエール兄弟による『工場の出口』であるが、その時から映画におけるフィクションの問題は始まっている。この映画には三つの種類があり、⑴:ただ工場から出てくる労働者が映っている。⑵⑶:映画が始まると同時に、工場のドアが開いて、労働者が出てきて、映画が終わると同時にドアが閉まる。そして、⑵と⑶は映画における演出の誕生とされている。その後、映画は役者が出てきて芝居をして、ストーリーを表現するようになり、映画と演劇の区別は消えていったのだ。それに対して、「シネマトグラフとは、運動状態にある映像と音響とを用いたエクリチュールである」とするブレッソンは、徹底して機械的なカメラとマイクによってただそこにあるだけの映像と音響を切り取り、世界のイメージと音をそのままで表現することを目指す。それは、『工場の出口』における⑴のヴァージョンこそが映画であるという立場であり、人間や生物の眼がじつは光を切り捨てており、機械的なものが逆説的に光をそのまま捉えてしまうという信念である。ブレッソンの映画の特徴は「演劇のように人間の意図や目的が少しでも入ることは許さない」というものであり、⑴:芝居を嫌い、出演者は全員ど素人を起用し、厳しく指導して、人間的な演技をさせない。⑵:出演者のセリフは抑揚が無く、表情も無く、動作もぎこちない。⑶:音楽は使わない。ただそこで鳴っていた音をマイクで録音する。こうして創造された作品は完全に機械的なだけのフィクションであるが、つねに何らかの意図や目的によって普通の映画では歪められてしまっている、ありのままの人間や事物の姿をスクリーンに映し出し、セリフや音響ではないありのままの音や言葉を届けることができる。

 完璧に機械的で、徹底的なフィクションであるからこそ、人間や事物は今まで切り捨てられてきたものと関係していき新たに生成していく。機械的なものはこれまでの繋がりを切断してしまうからこそ、無関係だったものをそのままで結びつける効果をもたらす。機械的なものによって切断された映像と音響、たとえば、イメージは現実に存在している人や事物、そして音もまたそれをもたらす本来の出所(喉、口、他の事物による音の原因)から切り離されて、外部の物に依存することなく、これまで「見えなかったもの」と「聞こえなかったもの」としてそれ自体でフィクションとして存在することになる。

諸切断は分散として、もはや音声的なものと視覚的なものの間を通るのではなく、視覚的なものの中や、音声的なものの中、それらの増殖する連結の中を通る。逆に、非合理的な切断、すきま、間隙が、純化され離接的となり、たがいから解放された視覚的なものと音声的なものとの間に発生するとき、何が生じるのだろうか。…今や、視覚的イメージはその外部を放棄し、世界から切断され、その裏面を獲得し、視覚的イメージに依存していたものから自由になった。それと並行して、音声的イメージは自分自身の依存関係を払いのけ、自律的となり、それ自体のフレーミングを獲得した。ただフレーミングされたものとしての視覚的イメージの外部(画面外)にかわって、視覚のフレーミングと音声のフレーミングという二つの間の間隙、視覚的イメージと音声的イメージという二つのイメージの間の非合理的切断が出現する(3)。

原一男の『全身小説家』は、井上光春の最後までを取材して創作された映画である。この「全身小説家」という概念は埴谷雄高が命名したものであり、井上光春の小説家としての戦略が正しく反映されている。小説という言語や言葉によってフィクションを創造することが井上光春の生業であるが、日本には私小説という伝統があり、小説中の〈私〉=作者の〈私〉として解釈し、純粋なフィクションであることを禁じようする者たちがいる。そして、その〈私〉を感動や共感の読書能力しかない〈私〉や内面性に回収するのだ。どんなに完璧なフィクションを創造しても、「ここは作者の経歴が~」、「ここにも作者の生い立ちが~」などと真理や現実のコピー機かのように言われてしまう(サント=ブーヴとプルーストの対立)。それに対して、井上光春の戦略は徹底的に嘘をつき、作者の〈私〉についての経歴や生い立ちを真偽不明にしていき、やがては突き抜けて自分の存在そのものをフィクションにしてしまうことである。あるいは彼の行為や言語行為そのものも、何が本気か分からない破廉恥で節操のないものとなり、言語行為自体が「〈私〉そのものが嘘です」と相手に提示する行為となっていく。井上光春の葬儀で瀬戸内寂聴がついた「セックスのない友人関係があることを教えてくれた」という、彼女の〈私〉を守るための保守的な嘘とは対照的に、井上光春の嘘は自分にかかわるすべての〈私〉を完全に消尽させるものであり、映画中の彼のイメージもまた分断され漂うだけの空しいフィクションになっていく(彼のフィクションについての講義)。こうして、小説という言語や言葉のフィクションが私小説の罠から自律して存在し、映画におけるイメージもどうしようもない嘘のフィクションとして自律して存在することになり、そこにはどんな共通する〈私〉もないのだ。〈私〉が語る言葉も、〈私〉のイメージや、〈私〉から見たイメージも存在しない。ただフィクションとして言葉が存在し、ただフィクションとしてイメージが存在するだけだ。井上光春の戦略による、文学のための純粋なフィクションとしての言葉やイメージをもたらす効果がここにある。

フーコーの哲学の総体が、多様なものの実践論なのである。もし、可視的なものと言表可能なものという二つの形態の変化する組み合わせが、歴史的な地層、あるいは歴史的形成物を構成するのだとすれば、権力のミクロ物理学は、反対に、無形の地層化されない要素における力の関係を明示するのである。だから、超感覚的なダイアグラムを、視聴覚的な古文書と同じとみなすことはできない。つまりダイアグラムは、歴史的な形成が前提とするア・プリオリのようなものである。…ダイアグラムは、力の関係の一集合を明示するものとして、一つの場所ではなく、むしろ「一つの非場所」である。それは様々な突然変異にとっての場所となるだけだ。突然、事物も、言表された命題も、もはや同じようには知覚されない…思考することは、可視的なものと言表可能なものを統一する美しい内面性に依存するのではない。思考は、間隙を穿ち、内面を圧し解体する一つの外の侵入によって実現される(4)。

 フーコーの哲学はフィクションから成り立っている。しかしながら、実生活における〈私〉たちのさまざまな知覚もまたフェイクである。ある社会における〈私〉が何をどのように見て、それをどのように発話するかは、知覚のア・プリオリ(先験的なもの)として規定されている。〈私〉たちは自由に物を見て、そのことについて発話することができるが、それはあくまで物の見方と言い方の条件に服従することで可能となっている。(『言葉と物』…「言表」は時代によってその機能を変えていき、物の見方と言い方を規定していく。人間は言語についてあれこれ言いすぎるのであり、黙って言表の機能がいかに変化するかを追っていくこと。これまでネガティヴに捉えられていた手法をポジティヴにする、フーコーのポジティヴィティ。フィクションはフェイクやコピーではなく、さまざまな効果をもたらす。)そして、この経験の条件、物の見方と言い方の条件は時代や地域などによって、知覚されない突然変異によって変化していく。その一つずつの、物の見方と言い方の結びつきの条件こそがダイアグラムである。カントは人間の経験の条件を、内なる〈私〉の諸能力に求めたが、それもまた啓蒙主義の時代における「人間」というダイアグラム(「人間」へと結集する力関係の権力)に従属していただけだ。そして、荒川修作とマドリン・ギンズが制作するダイアグラムは、たかだが「記号」というダイアグラム(「記号」へと結集する力関係の権力)に服従しているだけであり、記号の「図式」もまた物の見方と言い方の結びつきの一つの条件にすぎない。「記号(図式絵画)」とメルロ=ポンティ的な身体性(天命反転)による主体的なもののズレを重視すること…まさにある時代でしかない思想…固定化された「現代アート」。どの内面性も、どの物の見方と言い方の条件も、他の時代や地域にとってはフェイクにすぎない。それに対して、フーコーは可視的なもの(イメージや見方)と言説的なもの(言葉や言い方)を人間から完全に独立して存在するものと考えることで、それらの時代や地域における変化を探っていく。主体や内面性は権力に服従し真なるものを求めるが、フィクションは主体や内面性から解放されることで、さまざまな効果をもたらすことになる。物の見方と言い方の結びつきの条件こそがダイアグラムであるが、そのダイアグラムによって示される条件によってこそ、そのダイアグラムをもたらした力関係による権力のあり方も逆説的に示される。したがって、「権力の決定的言葉とは、抵抗が最初にある」、そして、フーコーのポジティヴなフィクションは抵抗の思考とその効果である。〈私〉たちの〈内〉である物の見方と言い方の条件に従属して考えるのではなく、その条件の変化をもたらした力関係の権力に抵抗する仕方で、何がそもそも諸力の関係性をもたらすのかを思考すること(5)。それこそが、どんな時代や地域においても〈私〉の内面性、言い方と見方の条件を打ち破る〈外〉であり、それ自体を思考すること、あるいは、それ自体を思考にしてしまうことはまさに抵抗行為となるであろう。これが、〈外〉の思考である。この経験的なものの条件を変化させるものを、内面性から逃れた「超感覚的なダイアグラム[diagramme suprasensible]」にして知覚可能にする「超越論的経験論」は機械やコンピューターによっても可能となるのだろうか。

 人間は神の似姿であり、AIは人間の似姿である。それならば、AIは神のコピーのコピーということになる(三段の模倣とコピー)。神-人間-AIというこの位階は覆ることがあるか?ここにはアート界では正しく理解する気もなく使われ、消えていきそうな、本来は対抗的な概念である「シミュラークル」が位置づけられるが、AI論者や現代アート関係者には関係ないので置いておこう(6)。しかしながら、そもそも「人工知能」という概念そのものが情けなくないだろうか。なぜ、機械やコンピューターを用いる発想が人間のごく一部の真似やコピーであり、しかも、真似できる以上の知性はプログラムされていないのに人間についての問いを生みだし、最後には人間を上回ることになるのか。コピーのコピーがいつの間にか、2045年を超えるとコピーを越えてプログラミングからかけ離れたオリジナル以上のものになり、自分から考えて知性自体になるという。たとえば、現代音楽においては、機械的にピアノの鍵盤を集合に割りふり、集合論の計算によって十二音平均律を乗り越える「音の雲」をいかに生みだすかを、機械と人間の新たな関係性として思考していた。ただたんにズレながら積み重なっていく「音の雲」をランダムにどうやって作るのかを、機械ならば家畜の様に経験に飼いならされた人間的な感覚を越えて計算できる。機械は知覚の条件に服従したがる人間にはできない創造行為を共作してくれ、機械と共にこそ創造できるという信頼がかつてはあった。そして、さまざまなアーティストは人間と機械の新たな関係性を思考して、そのたびごとに新たな音楽を創造してきたのだ。何故それが、人間の十二音平均律におけるパターンをコピーさせ真似させ、そこからオリジナルっぽいものを生みだすという、情けないとしか言いようがない陳腐なアイデアに還元されるのか。楽譜の歴史すら歴史修正主義によって抹消され、職業病にすぎない絶対音感がまさか天賦の才能とでも思われているのだろう。これから見ていくように、AIについての問題は、それを問う思考の貧しさが原因である(7)。

 ベルクソンの『創造的進化』に影響を受けた、テイヤール・ド・シャルダンは『現象としての人間』において、キリスト教的な進化論である「オメガ点[Point Oméga]」という概念を創造した。シャルダンによれば、宇宙はエネルギーから成っておりそれは物質的な側面と精神的な側面の両方を持っている。宇宙はそのエネルギーによってまずは生命を生みだし、世界に生物を登場させて「ビオスフェア[Biosphère]: 生物圏」をもたらした。さらに、「生物圏」は長い歴史においてより複雑な高等生物へと進化していき、ついに知性を持つ人間を誕生させることになる。したがって、それは進化の新たな段階「ヌースフェア[Noosphère]: 叡智圏」であり、人間の未熟な知性による「叡智圏」はまだ不完全なのだが、宇宙における進化の流れはさらなる叡智世界の確立へと向かっている。それは、進化の最初(アルファ)から始まったものが完成する最終地点となり、いくつかの兆候としてすでに社会のなかに示されているという。そして、神があらゆるところでつねに働いていたことになる。

思考力をそなえた生命は、各個体の活動という形で働く場合でも(それは不滅のものへの希望によってのみ動かされる)、また集団的親和力の形で働く場合でも(その融合のためには勝利をもたらす愛の働きが必要である)、自己の頭上高く最高の魅力と堅固さを有する極点が輝いているのでなければ、機能を営みつづけることも、前進しつづけることもできない。精神圏は構造という点からして、個人的にも、社会的にも、〈オメガ点〉の影響を受けなければ、決して完結することはない。…〈オメガ点〉が現にすでに存在し、思考力をそなえた生物集団のもっとも深いところで作用しているのであれば、〈オメガ点〉の存在はなんらかの手がかりを通じて必然的に今でもわれわれの観察の対象として現れているはずだと思われる。世界の意識の極点は、低い段階の進化に生気を与える場合には、生物学のかげに隠れて非人格の形で作用するほかなかった。この極点は人間化によってわれわれ自身が到達している〈思考するもの〉の上に、今や唯一の中心からすべての中心へ——人格的に——輝くことが可能になった(8)。

ベルクソンの『創造的進化』においては、進化の過程で太古に枝分かれしたはずの異なった種において、どうして眼のような複雑な器官が同じように現れるのか、という問いに対して「生の跳躍[élan vital]」という概念が提示されていた。たとえば、それはさまざまな環境においてどのように適応していくかの問題である。眼という器官はさまざまな種の適応すべき環境における、光という問題への創造的な答えとなる(植物は光の方へ傾き、生物はさまざまな眼を持ち、コウモリのように目のかわりに超音波を用いる種もいる)。ベルクソンは機械的な因果による機械論的説明も、何らかの意志のようなものからなるという目的論も批判しており、環境において解決すべき問題があり生命は予測できない仕方で創造的な解を進化として示すにすぎない(9)。それを可能にするのが、「生の跳躍」という生命に備わる力である。それに対して、シャルダンにおいて宇宙は叡智の究極地点である「オメガ点」へと向かって進化しており、物質から生物へ、生物から人間へ、知性から叡智へと向かいつつ、この「オメガ点」において神が現れて、その途上の生物や人間に対して、宇宙における救済が実現される。それは、すべてのエゴイズムを離脱した完全な一点となるだろう。

上昇するこの矢印は、その前進を導き、支える躍動によって、普遍的な収斂の精神的、超越的な極点と実際に結ばれているという意識を本質的な内包している。これこそ、本書で〈オメガ点〉と名づけたものが世界の頂点に現存していることを確認するためにわれわれが期待していた逆照合ではないだろうか?…社会化現象の中心から現われるキリスト教という現象は、まさしくそれではないだろうか(10)?

 ところで、「2040年代には非生物的な脳のほうが数十億倍もの能力を発揮するようになる。それでもまだ人間は生物的な脳に意識を結合させているだろうか?(11)」と問うレイ・カーツワイルは、最先端のテクノロジーは指数関数的に発展しているとして、2045年が技術的特異点となり意識が非生物的な脳に宿ると主張する。お粗末な哲学しか知らず、考えることが意識に還元されており、思考するということが何を意味するのかデカルトからやり直した方がいいレベルであるが、彼は以下のように述べる。

シンギュラリティは、物質界で起こる事象を意味する。それは、生物の進化に始まり、人間が進める技術進化を通じてさらに伸張してきた進化の過程における、必然的なステップである。われわれが超越性——人々がスピリチュアリティと呼ぶものの主要な意味——に遭遇するのは、まさにこの物質とエネルギーの世界においてなのだ。…「スピリチュアリティ」のもうひとつの含意は「魂をもつ」ということで、いうなれば、「意識がある」ということだ。…進化は、神のような極致に達することはできないとしても、神の概念に向かって厳然と進んでいるのだ。したがって、人間の思考をその生物としての制約から解放することは、本質的にスピリチュアルな事業だとも言えるだろう(12)。

ここで言われていることの構造はまさにシャルダンのキリスト教的進化論と同じであり、非生物的な脳に意識が宿るとされる「技術的特異点」は、カールワイツにとっての「オメガ点」なのである。シャルダンは「オメガ点」によって神による宇宙の救済を主張し、カールワイツは「技術的特異点」によって人間による非生物への意識の救済を主張する。あるいは、「ホモ・デウス」という概念を提唱したヴァル・ノア・ハラリは、テクノロジーの発展によって「不死」と「至福」が実現されて、いつか人間は神になることを予言している。バイオテクノロジーは完璧な健康を実現させ、脳のコントロールによって精神的な健康も実現されるので、人間は死ななくなり、幸福しかなくなると主張するのだ。問題なのは三者ともに極めて単純な、単線的でしかない発展による救済を予言していることである。あたかも最後の審判のために備えよと訴えているようであるし、その時が来るのを待ちわびているようである。AI論者たちが科学者であるにも関わらず、このような宗教的思考に染まっているのはなぜであろうか(「ハルマゲドン」を彼らが考えないことを祈るのみだが。どうして、宗教的な概念を逆手にとって現代的にアップデートできないのだろうか)。最初に戻れば、人間は神の似姿であり、AIは人間の似姿である。それならば、AIは神のコピーのコピーということになる。神-人間-AIというこの位階は覆ることがあるのだろうか?「イエス」がカールワイツの答えであるが、2045年という年の予言は今後も延ばされ続けるであろう。「技術的特異点」という無機物に意識が宿るとされる、最後の審判を信じこませるために…。

 ドン・デリーロの小説『ポイント・オメガ』の冒頭において、ダグラス・ゴードンの《二十四時間サイコ》が取り上げられている。それは、ヒッチコックの《サイコ》が通常一秒間に24コマのところを、一秒間に2コマへと減速させ、24時間にまで引き延ばした作品である。この時間の経験を変える作品は、鑑賞者にどのような時間と知覚をもたらすのか。

彼はあるものともう一つのものとの関係について考えはじめた。この映画と元の映画との関係は、元の映画と現実の人々の経験との関係と同じだ。これは離脱からの離脱なのだ。元の映画は作り事だが、これは現実だ。…生々しかった。この速度は奇妙なほど生々しかった。…ものごとはほとんど起こらなかった。原因と結果が徹底して引き離され、それゆえ彼は生々しさを感じた。この世界の、われわれが理解していないものすべては現実として存在するのだ、と言われたような感じだった(13)。

『工場の出口』をどのように解釈するかにかかっているが、一部の映画作家にとって映画とは機械的なものによる完全なるフィクションである。映画は現実における人々の経験からの離脱であり、人々はフィクションのなかで新たなものへと生成する。それに対して、一秒間に2コマまでに減速させ、24時間にまで引き延ばすことは、さらに、いまだ映画が依存している人間的速度からの離脱となる。それは、人間の意識や認識をその遅さによって分解していくことで、逆に、人間が当たり前だと思っている生きる速度では知覚不可能な経験をさせる。生物や人間の時間ではない、完全に機械的な無機物の時間。それは、テクノロジーの発展によって可能となったものであり、時間の遅さによって、通常の一秒では見えないものや知覚できないものを、俯瞰するように素早く見て知覚させる。時間の流れは遅いのだが、その一秒の遅さゆえに、通常の一秒では知覚できないはずの多くのものを俯瞰的に一気に知覚することができてしまう。それゆえに、(人間的時間からは)遅いのだが、(人間的知覚よりも)速いのだ。完全に機械的な無機物の時間は、無機物の意識をもたらすことになる。

何かが起こる。でもそれこそ我々が望んでいたことじゃないのか?意識の重荷ってやつじゃないか?我々はすっかり疲れてしまったよ。物質とは自意識を失いたがるものだ。我々の知性や感情は物質が変化してできた。そんなものはもうやめにするころだ。こうしたことに我々は今、突き動かされてるんだよ。…我々は元の無機物に還りたいんだ。我々は物質の進化における最後の十億分の一秒なんだよ。…テイヤール神父はこれを知っていた。オメガ・ポイントさ。我々は生物学の領域から飛び出すんだ。自分に問いかけてみたらいい。我々は永遠に人類じゃなきゃならないのかって。意識なんてもう干上がってしまった。今や無機物に還るんだ。我々はそうしたいのさ。野原の石ころになりたいんだ(14)。

ここには、シャルダンとも、カーツワイルとも異なる「オメガ点」の解釈がないだろうか。シャルダンによれば、来るべき「オメガ点」によって宇宙は救済され、神はあらゆるところに宿り、当然のように無機物にも叡智が宿ることになる(15)。カーツワイルにおいては、来るべき「技術的特異点」によって無機物は救済され、程度はあるものの意識はあらゆるところに宿り、非生物的な脳にも意識が宿ることになる。しかしながら、ドン・デリーロにおいては、来るべき「ポイント・オメガ」によって神の救済が生じて、あらゆるところに神が宿るのだが、裏を返せばつまり「人間」の役割そのものが本当に終わり、人間と無機物が同じものになるにすぎない。人間などたいしたことなくて、無機物と同じくらいの意義しかないのだ。こうして、フーコーが言ったように、「人間」(という力関係の結集点、権力のあり方)は波打ち際に書かれた文字のように消えていくことになる。別の意味で人間は無機物と変わらなくなるのだが、そのことをポジティヴに思考することはできないだろうか。新たな無機物的な思考を創造することはできないだろうか。それには、カーツワイルとも異なる脳についての思考が必要である。

他のなにものにも代えがたいのは、精神の(心の)結びつきを可能にするということだ。インターネットは、グローバル・ブレインとも言える生成する意識にとっては未完成のインフラにすぎない。だが、アーティストの思考を結びつけるという意味においては、絶大な力を持っている。創造性に導くのはこうした認識の側面なのである。これこそ神経ネットワークの持つ知性であり、テイヤール・ド・シャルダンが「ヌースフィア」と呼ぶものである。私はこれを「ハイパーコーテックス[hypercotex]」と呼びたい。文化とは、何よりもまず意識に関わる問題である。…社会にもたらす効果は、意識に関するさまざまな思考を解き放ち、集合意識を誘発する実践をもたらす。そして私たちの能力を高め、リニアな思考と狭量なものの見方を超越することを可能にする。ネットは創発的な精神テクノロジーのための培養基なのである(16)。

 ここにこそカーツワイルの間違いがあり、フーコーの〈外〉の思考を実践可能にする新たな機械やコンピューターのあり方がある。脳は、そして、その皮質はある個別で単体の機械やコンピューター、そして、それぞれのロボットに宿るだけなのだろうか。個別や単体のものに時が来れば意識が生じるのだろうか。もっと巨大な、あるいは、そもそも世界自体におけるビッグデータがもたらした多分野を横断する〈外〉の思考が、脳の結果であることを、機械やコンピューターとの共働創造として開発できないだろうか。

芸術が非芸術を必要とし、科学が非科学を必要としているように、哲学は、哲学を理解している或る非哲学を必要とし、非哲学的理解を必要としているのだ。…それらの三つの《非》は、脳平面から見ればまだ区別があるのだが、脳が潜んでいるカオスから見ればもはや区別はない。…民衆-団塊、民衆-世界、民衆-脳、民衆-カオス…三つの《非》のなかに横たわっている非思考的思考。そこでこそ、哲学と芸術と科学が、あたかも、それらの異なった本性をつらぬいて広がりながら絶えずそれらに付き従う同じ影を共有しているかのように、識別不可能なものへと生成し、同時に、概念と感覚とファンクションが、[真偽]決定不可能なものへと生成するのである(17)。

メディア・アートの先駆者であるロイ・アスコットにとっては、インターネットによって縦横無尽に横断される世界が「ハイパーコーテックス」というただの器官としての脳を越えた、さまざまな事物の表面を横断する皮質であり、脳が世界そのものであり、思考はインターネットにおいて発揮される。芸術家は知覚不可能だったものを知覚させる作品を創造し、科学者はこれまでなかった関数によって世界を新たに科学的に捉えて、哲学者は概念を創造して世界に新たな思考をもたらす。カナダの情報学者、ピエール・レヴィが開発している「IEML(情報経済メタ言語)[the Information Economy Meta Language]」は、彼自身がつねにミシェル・セールとドゥルーズ&ガタリの「中間」に留まろうとしており、哲学的には疑問があるものの、この概念・感覚・関数の創造を機械やコンピューターによって可能にしようとする試みである。ここでは、あらゆるビックデータを別の思考として活用する。ビッグデータの活用は、シャルダンのようにあらゆる学問を叡智化しようとするのであり、宇宙における相対性論、量子論、物理学、原子、分子、遺伝子、高分子、肉体という有機体、神経系、世界における現象、社会における記号、文化などが対象になり、宇宙をあらゆるビッグデータとしてインプットすることで、これまでの概念・感覚・関数を参照しつつ、新たに宇宙を捉え直すための概念・感覚・関数をアウトプットしてくれるのだ

 この試みは、芸術家による知覚の創造、科学者による関数の創造、哲学者による概念の創造などを、再帰的学習プログラムの限界から超えることなく、それぞれの経験の条件を示すことになるだろう。したがって、ある超越論的思考から起草されたビッグデータの分析としてのフィクションにとどまる(ある学者が経験の条件を実証的に調べても同じことである、したがって、これはフーコー的知性がコンピューターによって実証化されたものとなる。個人にすぎない人工知能というネガティヴなものが経験の条件の分析というポジティヴなものになること…)。だが、もちろん、このIEMLに触発されて思考していくことで、人間が新たな知覚、関数、概念を創造することも充分に期待できる。そして、それを行うのは人間の責任である。このプログラムは不完全ながらも、諸分野を横断しつつ経験の条件を「超感覚的なダイアグラム」にして知覚可能にさせる「超越論的経験論」の機械やコンピューターである。「超越論的経験論」はついに機械やコンピューターと共に創造し、実践されるのだ。

 人間のコピーや真似に陥ることなく、機械は知覚・関数・概念の条件に従属したがる人間にはできない創造行為を共作してくれるものであり、機械と共にこそ創造できるという信頼が来るべき条件の脳としてのインターネットの皮質(「ハイパーコーテックス」)にはある(もちろんいつかは時代の条件によって乗り越えられる)。それは、まだわずかな可能性に留まるものの、「人工知能」ならぬ、「機械仕掛けの〈外〉の思考[ex machina thought from the “outside”]」という概念を希望として託せる。こうして、努力しだいの希望に満ちた?…新たな「ポイント・オメガ」を我々は見出すのである。それは、つねに抵抗行為や、抵抗的な〈外〉の思考を機械やコンピューターによって共作する、経験を固定化しようとする諸権力との闘いである。パソコンやタブレットという馬鹿にされ続けた恐るべき力能を秘めるフィクション、そして、スティーヴ・ジョブズすらも最終的に隠して真似してコピーした、あり得なかったはずの未来を創造したアラン・ケイは未来の意味を知っている。それに習って私たちは新たな未来を、超越論的経験論を共作するコンピューターの創造によって予言する。未来は真似やコピーだけではなく、機械との信頼による共作の抵抗行為によって予言され、創造されていくことだろう。徹底的に機械的であること、完全なフィクションにすること、困難な課題でしかない機械を思考によって救うこと。こうして、信じることは、〈私〉の欲求にしたがって信じることではなく、厳しい鍛錬のなかで芸術・科学・哲学の新たな結びつきを求めること、そして知覚・関数・概念の新たな創造を信じることに繋がっていく。
——この「ポイント・オメガ」、機械仕掛けの〈外〉の思考は、フィクションによる諸分野を横断する諸事物の思考であり、権力に服従したがる内面や主体にこだわる者は消えている。〈私〉はやっと消えたのだ。人類の救済のためではなく、忍耐強いただの努力ができる、その時代や地域における誰かの超越論的経験論のために。人工知能の問題は人間の真似をさせてしまい、完全に機械的ではないことである。必要なことは妥協なくつねに機械的であり、フィクションをどこまでも徹底化することだ。人間的な、あまりにも人間的な…(18)。


(1)拙論「言語とイメージの『ウイルス的転回』―情報の感染から身体を守る別の生活様式―」を参照せよ。ちなみに、この論文にあるように相対主義を批判するとしながら自分から相対主義の罠にはまるのがフェイクの批判者の特徴である。認識論に留まるかぎり、その範囲でしか考える能力がないかぎり、フェイクの問題はいつまでも克服できない。
(2)ドゥルーズ、2008年、p.197
(3)ドゥルーズ、2008年、pp.343-346
(4)ドゥルーズ、2007年、pp.155-161
(5)現代の経験を規定する権力については、拙論「新たな人間とメディアの関係への哲学的探求」を参照のこと。
(6)興味のある方は拙論「脱構築がもたらす『場』概念」を参照のこと。
(7) 調べればすぐに分かる歴史をすぐに抹消する。さすが「意識のハード・プロブレム」の歴史修正主義である。
(8)シャルダン、pp.353-354
(9)レイモン・リュイエは、これを「新-目的論[neo-finalism]」と呼びかえている。それに対して、ジル・ドゥルーズはより大きなベルクソン哲学の体系の一部へと組み込む。
(10)シャルダン、p.363
(11)カールワイツ、p.229
(12)カールワイツ、pp.241-245
(13)デリーロ、pp.21-22
(14)デリーロ、pp.65-69
(15)「なぜなら結局、世界の思考する個々の中心群は実際に〈神と一体〉になるだけであるとしても、その状態は同一化(神がすべてになる)によってではなく、分化させ一致させる愛の働き(すべてのもののなかにあって、すべてになる神)によって得られるからである。これは本質的に教議に合致するキリスト教的な考え方である。[シャルダン、p.378]」
(16)アスコット、p.186
(17)ドゥルーズ、2007年、pp.155-161
(18)2045年問題やAIの問題について、人間的なものを持ち出し、感情や共感、人間の暖かさなどを言うものは何も考えていないだけである。それは、ある意味では人間の真似をさせようとする「人工知能」論者と同じである。

参考文献

ロイ・アスコット、『アート&テレマテークス』、藤原えりみ訳、NTT出版、1998年
テイヤール・ド・シャルダン、『現象としての人間』、美田稔訳、みすず書房、2022年
ドン・デリーロ、『ポイント・オメガ』、都甲幸治訳、水声社、2019年
ジル・ドゥルーズ、『フーコー』、宇野邦一訳、河出文庫、2007年
ジル・ドゥルーズ、『シネマ2 時間イメージ』、宇野邦一他訳、法政大学出版局、2008年
ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ、『哲学とは何か』、財津理訳、河出文庫、2012年
レイ・カールワイツ、『シンギュラリティは近い』、井上健監訳、NHK出版、2018年
Pierre Lévy, The Semantic Sphere 1. Computation, Cognition and the Information Economy, ISTE / Wiley, 2011.

©Hiroya Shimoyama. All rights reserved. 2025年1月4日

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