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西の空に消えた姫(小説)
門を入ると、松風が響いた。寺の伽藍が黒く固まって見える。そこまでは、ずつと砂地である。女は、梅雨あがりの爽やかな朝、この寺の伽藍の周囲を歩いた。帽子の浅い縁から深い縹色の布がうなじを 隠している。
寺は、まだ誰も起きてこない。川は北へ流れ、平原の真中に旅笠を伏せたような山々。女は、山々の姿をたどった。「あの陽炎立つ平原を隅から隅まで歩いて見たい」そう思っていた。今なら山は落ち着き、野はおだやかだ。女は胸が騒いだ。突然、過去生を思い出した。
女の前世は、この一帯を領地とする豪族の姫だった。姫の父は伊達者であつた。大刀を横に吊り、豪華な服装で決めていた。姫は、一族の安寧を祈り、夜も昼も 一心不乱に経典を書写している。夏が過ぎ、秋になり、蟋蟀が昼も鳴くやうになった。庭の池には川千鳥がなく。今朝は、何処からか鴛鴦が来て浮んでいる。美しい模様にうっとりする。
写経が、五百部を越えた頃から、姫はだんだん神経質になり、みるみるやつれていった。蒼みを帯びた皮膚に、髪が黒く映え出す。ぼんやりとして、西の空を見入つている。美しい肌は、ますます透き通るようで、潤んだ目は、大きく黒々としている。
姫は、時々経文を声に出して読む。その声が響く。季節が変わり、西空の棚雲が紫に輝き、雲は炎になり、太陽は黄金になった。雲の底から立ち昇る青い光が姫を誘う。漆黒の闇が訪れた。
千部の写経を終えた姫は消えていなくなった。五百の兵士が探したが、見つからない。夕刻になり、峯を包む雲の上に爛熟した光がぐるぐる回った。山の端が、金の外輪をなびかせ、峰の間に、姫の髪、頭、肩、胸が浮き出た。
それは確かに姫の姿をしていた。兵士たちは、何もできず、それを拝んだ。薄暗くなつてきた。雨がしとしとと落ちている。青菜が濡れ、土が黒ずみ、やがては瓦屋根にも音がする。だんだん暗くなり、夜が来て、姫も消えてしまった。
女は伽藍の周りを歩きながら、自分の前世が、消えた姫であったことを、はっきりと理解した。一族のために、写経を千部終えた後、自らの体を西の空に差し出し、山の中に隠れた。気がつけば、旅の女として、後々の世の同じ場所に生を受けている。なんと不思議なことだろう。