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デリダとともに生きる

デリダは1930年にアンジェリアで生まれたユダヤ系フランス人 僕は1965年に日立で生まれた熊野系水戸人 
個人的に自分をディアスポラと思っている 
常にレゾンデートルに揺れている 根無草 
何をなしとげても不安しかない
だから詩を書く そして新しい言葉を発見する そこに自身の本質を垣間見るような気がするから 生涯にわたって自分は何者かを考えて生きてきた 僕の親はそれを諦めてニヒリズムのむこうの動物になった。
動物は現前性以外の言葉を持たない。
動物は脱構築しない。
平気で人を殺せるし
子供を切り捨てる。
サバイブだけが人生
僕はそこから弾き出された。
いや自分から出てきた。
将来僕の書いた文が アイデンティティクライシスに陥った人々の支えになることを願う

デリダはデコンストラクションの哲学である。それは
「二項対立(2つの反対の概念)」を覆すこと。現象学(先入観なく意識で対象をとらえること)を覆すことでもある。

僕たちは子供の頃から世界を理解するために、学校教育で反対語を叩き込まれる。生があれば死がある、正があれば誤がある、美があれば醜がある そうやって世界を整理してきた。それは確かに便利であるが 時におおきな間違いを犯す。
20世紀で顕著なのは ジェンダーや人種、植民地、病気などの問題だった。

デリダの思想にとって「差異」が重要である。
私は私である(同一性)ということより
私は私を構成する様々な部分の他との違いによってかろうじて成り立っている、と考える。

同一性の状態はあくまで仮である。
ここでデリダはギリシャのパルマコン(薬であり毒でもある)をイメージする。

生と死なら死を
成長と衰退なら衰退を
男性と女性なら女性を
都市と原生林なら原生林を
健康と病気なら病気を
注目する。

こうした二項対立のマイナス面に注目することを
「転倒」というのだそうだ。

非本質(遊びの部分)を擁護することは
世界を解放することにつながる。

デリダはパロール(話し言葉)を現前性(本物)として捉えた。
エクリチュール(書き言葉)は常に間違いを含むから非現前性であり、偽者(フェイク)であり、それは、人工的である。
デリダはそこに他者を見つける。
日常生活のあらゆるところに他者が泡立っている、と考える。泡立つ、という表現はわかりやすい。

人工的な生活だけでは生きられない。
生活の中に自然を取り込む、それが人間らしい生活であり、日々、僕らは他者を取り込むようにして生きている。他者に対して未練を持つ。
死んだ犬に申し訳ないと思う。
それはまさに脱構築である。
週末森を歩いたり 部屋に緑を置いたり ペットを買ったり。

脱構築の倫理とはこうした優しさにつながる考え方だ。 私たちは生きるために暴力性をもたざるをえないが それを全肯定するのではなく 脱構築することで 他者性を受け入れそれに対する反省を持つことで生きていける。

きらきらしたもの   〜デリダと共に生きる

おきると 
しんだはずのあなたが
わたしをみている
りびんぐでは 
しんだいぬが
ぼくにほえている
まちでは
むねんにしんだ
さむらいたちが
ただよっている

とりのこえのむこうに
おにのこえが
あらしのむこうに
たいようが
しずかなおんがくのむこうに
かーにばるが
にくしみのむこうに
いとおしさが
てきのむこうに
みかたが
さかのむこうに
へいやが
うみのむこうに
じょうどが
ぼくのなかに
べつなぼくが
べつなぼくの
むこうに
たしゃが
あわだっている
それはとてもきらきらしている

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