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問題作としての北野武『首』

0・はじめに

 北野武の19作目の長編映画となる『首』には、観るものに手放しで絶賛させることを、躊躇わせるような何かがある。さりとて失敗作として切り捨てることの出来ない魅力にも溢れている。何かが異常に過剰で、何かが圧倒的に足りないのだ。

 要するに、本作は、評価するのを戸惑わせるという点で、“問題作”ということである。少なくとも、私はそう思う。では、この作品を問題作にしている要素とは、どんなものなのだろうか。


 以下、ネタバレを含むのでご注意を。また当然のことながら、既に映画を観た方は、あらすじ部分は飛ばしても、全体の論旨に影響はない。



1・あらすじ

 本作は、戦国時代を舞台にした、群像劇である。荒木村重の乱を発端に、本能寺の変を経て、羽柴秀吉と明智光秀が激突する山崎の戦いまでを描く。

そのストーリーが展開されていく過程は、必ずしも単純ではなく、時に錯雑なものになる。また、織田信長や徳川家康といったメジャーなキャラクターに加え、忍びや雑兵や茶人などの歴史の表舞台に現れないキャラクターや、武将たちの性的関係なども映し出されていく。


 まずは、大まかなストーリーを確認しておこう。

 時は戦国時代。織田信長による天下統一が、もう目前まで迫っている。そんな中、信長の家臣である荒木村重が、謀反を起こす。乱は鎮圧されるが、信長とその家臣団のあいだには、不穏な空気が流れていた。というのも信長は、家臣に対して理不尽な暴力を振るう、狂気的な暴君だったのである。家臣筆頭である明智光秀と羽柴秀吉もまた、その理不尽に耐え忍んでいた。

 村重の反乱は鎮圧されたものの、当の村重の身柄は拘束することが出来ず、光秀はその捜索を願い出る。光秀は、村重の反乱をそそのかしたのではないかと疑惑をもたれており、頭を悩ましていたのである。その村重は、茶人の千利休が放った忍者、曽呂利新左衛門によって捕らえられていた。そして利休は、捕らえた村重と光秀を引き合わせるのだった。光秀は、村重を匿うことにし、利休はそれを黙認する。かねてから光秀と村重は、男色の関係にあり、その処遇を光秀は決めかねる。また信長も、村重を非常に寵愛していたということもあり、微妙な関係になっていたのだ。

 武将たちが暗躍を始めようとする最中、百姓のような階級のものたちも、野心を持ってうごめいていた。茂助という百姓は、仲間を裏切って殺し、敵の大将の“首”を獲得して侍に取り立てられようとする。そのところを曽呂利に見つかり、精神力を買われたのか、部下にされる。また曽呂利も、利休のような男の使い走りではなく、秀吉に仕えることを望んでいた。

実は、利休と秀吉は裏で繋がっていた。その利休の使いで秀吉陣営に向かった曽呂利は、そのまま秀吉へ仕官を申し出る。秀吉は、忍者の秘密組織の長である、多羅尾光源坊のもとに使いをさせ、無事に戻ってきたら、家臣すると言う。曽呂利は、茂助とともに、その任務を全うするだけではなく、多羅尾の一味と協力し、さらに光秀と村重が一緒に寝ているところの偵察にも成功する。この事件がきっかけで、光秀は多羅尾の一味を皆殺しにするのだが、いっぽうの曽呂利は、多羅尾から買った手紙と、光秀と村重の情報を秀吉に届け、その家臣になるのだった。

 秀吉が手に入れた手紙には、信長が自らの後継者として、息子の信忠を考えていることが書かれていた。信長は、最も多く手柄をたてたものに跡目を譲ると公言していたので、秀吉は真意を知り落胆する。そして、弟の羽柴秀長、軍師の黒田官兵衛と共に、一計を案じる。この手紙を、光秀に見せるのだ。手紙の内容を知った光秀と、男色関係にある村重が、ともに信長を殺すように仕向ける為だ。光秀は信長の狂気を、人間離れした天才の現われとして崇拝しており、ゆえに理不尽な暴力にも耐えてきたのだが、手紙の存在を知るや、信長も人の子と知り、激怒するのだった。

 光秀もまた、村重の件から信長の目を逸らす一計を案じる。信長にとっては格下の同盟者で、やや煙たい存在であるに違いない、徳川家康を利用するのだ。村重のアドバイスで、村重が家康のもとに逃げ込んだと、信長には報告し、乱の黒幕が家康だと思わすのである。信長は光秀の嘘の報告を信用し、家康に刺客を放つ。

いっぽうで秀吉は、信長が家康を狙っているということを、当の家康に報告する。というのも、暗殺が失敗すれば、信長と光秀の仲は険悪になり、ますます光秀の信長殺しの動機が高まるだろうと踏んだのである。家康は、秀吉の協力と、影武者を使うことによって、暗殺の難を逃れるのだった。暗殺に失敗した信長は、光秀を責め立てるが、光秀は信長のことを愛していると告白することで、その感心を買い、怒りの矛先を変えることに成功。信長は光秀とともに、家康を京都の本能寺の茶会に招き、そこで暗殺しようとする。

 光秀は、必ず信長が本能寺にいる日時を把握し、そこで信長を襲撃して、殺そうとする。家康もまた利休とその部下、間宮無聊にいざなわれ、本能寺を脱出する。秀吉は、中国地方で敵の軍勢と戦っていたが、光秀襲撃の計画を、利休から告げられ、撤退の準備をはじめる。

 光秀は、ついに信長を殺すため、出陣しようとする。村重は喜ぶが、光秀はすでに心変わりしていた。光秀もまた、無暗に人を殺し、信長からの折檻を愛だと思うと言うような、狂気に犯された武人であったのである。光秀は、知りすぎた村重を籠に入れ、崖から突き落としてしまうのだった。そして本能寺で信長は襲撃され、炎の中で、近習の黒人・弥助に殺され、その首は灰になる。本能寺の焼け跡で、光秀は信長が死んだ証拠として、彼の首を探せと、部下に厳命する。

 秀吉は、首尾よく敵と和睦。軍勢とともに近畿まで引き返し、へとへとになりながらも、信長を殺した光秀を破る。

 秀吉の行動に危険性を感じていた曽呂利は、自分も秀吉に殺されると警戒し、秀吉の元を離れ、利休を訪ねる。しかし彼は情報を知りすぎ、また喋りすぎていた為、間宮に刺され、また彼も間宮を刺し、相打ちに。茂助は、敗走する光秀の首を掻き切ることに成功するが、落ち武者狩りの百姓たちに首を奪われ、かつて殺した仲間の幻影を見ながら、殺される。いっぽう勝利した秀吉は、切り取られた大量の敵将の首を並べ、その中から、光秀の首を探すのだった……


 さて、話はなかなか入り組んでいるようだが、本作は大まかに分けると、3つのストーリーを、複合させて構成しているようだ。

 すなわち、a・信長と光秀と村重たちの男色関係というテーマ、b・秀吉陣営との周辺の天下取りというテーマ、c・茂助や曽呂利の成り上がりへの志向というテーマ、である。以上のテーマ群は、問題設定によって幾らでも細分化できるだろうが、だいたいこの3つのテーマに軸を置いて、本作は鑑賞できると思う。



2・『首』における“無意味”の構造

 上では確認の為に、ストーリーを要約したのだったが、しかしこの要約に、どれだけ意味があるのかは、わからない。この映画の魅力は、ストーリーにあるわけでは必ずしもないからだ。ここには、微妙な問題が潜んでいる。その問題とは、本作のストーリーを駆動させる原動力としての、主題にある。

 問題の急所、それはこの映画全体を貫く“無意味”という主題にあると、さしあたり言っておこう。この映画ほど、生の“無意味”に憑りつかれたような映画は、珍しいかもしれない。

 とにかく、やたらと人が死んでいく。しかも、死という出来事が、それぞれのキャラクターたちの“実存”にとって、全く“無意味”であるという印象を与えるのである。

この“無意味”の印象が、ストーリーを侵食していき、“意味”を食い破り、映画自体の評価に、戸惑いを与える一因になるだろう。

 

 この映画にとって、生と死が“無意味”だという印象を与えるものだとするなら、それは、ストーリー上に登場するキャラクターについての“フラグ”が、折られていくことに存する。

 “フラグ”とはここでは、キャラクターの今後の行動が、予測できるような合図のことである。

 ふつう映画において、キャラクターの登場には、“意味”がある。ストーリー上で果たされるべき機能=意味が、キャラクターには課せられているはずなのだ。例えば、スクリーン上に、男と女が映し出されたら、その男と女は、恋仲になるという機能を持っていると、観客は勝手に思う。銃を持ったトレンチコートの男が現れたのなら、この先に銃撃戦が待っていることが予感される。墓場に肝試しに行く女が、幽霊なんか怖くないとのたまえば、彼女は幽霊以上の怪物に殺される、と思う。どんな例えでもいいのだが、とにかく、ある一定の上映時間を、耐えうるに足る機能を、担わされるのがキャラクターのはずだ。そして、キャラクターがこの先にどうなるかを、おぼろげに予感させる記号が、“フラグ”と言われる。

 しかし本作品では、キャラクターの幾つかは、何らかの機能を果たすような徴候を示すのだが、観客が予想するような未来は、待っておらず、その生の“意味”は、僅かなものとしてしか機能しうることはない。つまり、“フラグ”が折られる。本作におけるその例のひとつは、忍者集団の頭領・多羅尾光源坊と、彼の部下・般若の佐兵衛の顛末である。

多羅尾光源坊は、何かおどろおどろしい印象があり、黒幕のような存在として演出されて、スクリーン上に現れる。しかし、不可思議な印象を与える演出をされていたのにも関わらず、光秀の手勢によって、すぐに壊滅させられ惨殺される。部下の般若の佐兵衛もまた、復讐を企んで最終盤に再登場するが、光秀を殺すには至らず、これも簡単に死ぬ。

なにより曽呂利新左衛門の最期が、ストーリー上において、極めて“無意味”な印象を与える。彼は、命の危険を感じて、秀吉の陣営を離れるのだが、その場面では、彼が忍者であると同時にお笑い芸人の始祖であるというキャラクターから、いかにもその後に生き残って、秀吉の勝利という出来事を達観して眺めることになるだろう、というような印象を与える。いかにも生き残りそうな意味深なセリフすら、言うのである。つまり、生き残るという“フラグ”が立ったように、観るものは思う。しかし曽呂利は、自分が生き延びるという目的を果たすことなく、無残な死を迎える。

 この曽呂利の最期に関する一連の演出は、北野監督の過去作品『アウトレイジ』の「水野」の死のシークエンスを思わせる。水野とは、『アウトレイジ』では、危機的状況に陥ったヤクザ組織の若頭である。彼は親分の大友から、わざわざ「一人ぐらい生きていないと結果がわからないだろう」などと言われ、身を隠すように諭される。しかし、水野は敵対するヤクザに殺され、助かるのは、生きているように言った親分の大友のほうなのだ。ここには、観客の予想を裏切る、“フラグ”を折る演出の妙味がある。

とりわけ本作では、戦国時代という時代設定もあるだろう、こうした“フラグ”を折るような演出によって、キャラクターがばたばたと死んでいく。

ちなみに『首』の公式HPには、主要キャストとして、19人のキャラクターが紹介されており、このうち明確にその死が描かれるのは11人である(村重は、史実の上からも、映画の演出の点からも、明確に描かれないので除外)。まあ、だいたい58パーセントくらいだろうか。この数字をどう評価するかだが、メインキャラクター以外にも、影武者やら兵隊やらが死んでいくので、人がばたばたと死んでいくという印象はぬぐえないのだ。

あらゆる死が、“フラグ”を折られ、生が“無意味”に彩られていくように、私には思える。


 作品の発端に現れる荒木村重ですら、その登場自体が、“無意味”であると、捉えることが出来るのだろう。つまり、光秀が秀吉の陰謀によって信長を殺すに至る、という筋書きを実現する為には、究極的には、秀吉が光秀を激怒させる手紙を見せれば、本能寺の変に至る進行にとっては十分であって、村重が登場しなくても、ストーリーのゴールを実現させることは可能だからだ。

 もちろん、直ちに反論が予想される。確かに、映画のストーリー上の荒木村重は、戦国時代の“男色”という世界観を強調する役割があるし、信長と光秀との関係性の中に、不確定性を導入する役割をも担っているからだ。だから、彼の生には“意味”がある、と反論できる。

 しかし重要なのは、人物の死あるいは結末に、必然性を欠いているという印象が、与えられることなのだ。つまり、村重というキャラクターの果たす役割は、別のキャラクターあるいはモノでも、良かったという印象があるのである。これは、村重だけではなく、他のキャラクターにも同じことが言える。

 ここで、侍大将に出世することを望む百姓・茂助の例を検討しておこう。

彼は当初、自分の仲間である為三とともに、秀吉の軍勢に加わるが、その途端、敵の襲撃を受けてしまう。敵も味方もほぼ全滅という状況のなかで、敵の大将首を獲ることに成功したのは、仲間の為三であった。辺りに誰もいない場所で、大将首を茂助に見せた為三は、そのまま茂助に腹部を刺されて、死ぬ。最終的に首を獲ったのは、茂助ということになる。やがて彼は徐々に精神に変調をきたし、為三の亡霊を見るようになりながらも、順調に生き抜き、ついに山崎の戦いに参加する。しかし、肝心の光秀の首を獲った直後、落ち武者狩りの百姓たち殺されてしまう。このとき、為三の幻影が現れ、茂助を刺すのである。やがて茂助も、首だけの姿になってしまう。

 このエピソードは、まだ“意味”のあるもののように思える。少なくとも曽呂利の死や、村重の結末がもたらす“無意味”の印象とは、質が異なる、ということだ。

というのも、茂助の死は、何らかの“意味”を、寓話=アレゴリーのようにして、観るものに伝える機能を果たしているからである。

 つまり茂助の死のエピソードは、ストーリーの最初に為三に対する裏切りを見せている為に、一種の“因果応報”的な世界観を表現しているとも言える。茂助の死は、悪人はその報いを受けて死ぬ、という神話として、捉えることが出来るのだ。これは、映画のストーリーにとって、“意味”のある死として、解釈することが出来るだろう。

 しかし茂助の死は、また別の捉え方も出来る。この死は、“交換可能性”の寓話である、というふうに。

まず、当初は仲間同士だった茂助と為三に、ほとんどステータスとしての差異はないと言えることを確認しておこう。茂助が為三になることもあったし、為三が茂助になることもあった。茂助が為三より遅く死んだことに、何か理由があったという描写は、為されていない。せいぜい、為三のほうが人が良さそうだった、ということくらいである。ここにはこの戦国世界における原理の不在、あるいはキャラクターの“交換可能性”の全面的な展開がある、と捉えることも出来る。

このキャラクター間の、“交換可能性”の原理が、茂助だけではなく、あらゆるキャラクターの運命を支配しているからこそ、“無意味”の印象が際立つように思われるのだ。


この“無意味”ということについて、もう少し考察を深めてみよう。

曽呂利の死のエピソードを再び検討してみたい。

 曽呂利は、超人的な戦闘能力を持ち、決して頭も悪くない。そもそも彼は、落語家の始祖として伝承されているようなキャラクターでもあって、むしろ知恵者として劇中では描写されているのだ。そして何か生き残るような“フラグ”を立てられながら、その“フラグ”を折られ、死ぬ。そこには、どんな寓話も介在しない“無意味”なもののように見える。

 ここで、曽呂利というキャラクターの死が無意味である、というのは、そのキャラクターの“実存”において“無意味”である、ということだ。

 ここで言う“実存”とは、キャラクターが持つ行動の動機、つまり目的や欲望のようなものだと思ってもらえればいい。

 曽呂利は、この乱世を生き延び、また秀吉のように出世したいという欲望をもつ。しかしこの欲望は、完遂されない。なぜなら彼は死ぬからである。ここには、キャラクターの目的の頓挫があり、その“実存”が“無意味”と化したということである。

 しかし、また同時に、曽呂利には、ストーリー上の“意味”は、有るのである。というのも曽呂利のような、武将の間で暗躍し、媒介になるような存在がいなければ、ストーリーが進行しないのだ。

 つまり、映画のストーリーという“全体”において、曽呂利の死は“無意味”ではなく、“意味”がある。

しかしながら、彼が担う“意味”とは、世界の“全体”にとっての“意味”でしかなく、個人の“実存”における意味は、全く“無意味”なのだ。そのような印象を与えるのが、『アウトレイジ』における水野の死のエピソードで為された演出に似た、曽呂利の死のエピソードとその演出にあると、私は思う。

 さらに付け加えれば、“実存”にとって“無意味”であるとは、そこに死の必然性の印象を、欠いているということである。死には、必然的な原理はなく、ただ偶然性だけが支配しているようなのだ。あえて、この映画を支配する原理を指定するとすれば、それは“偶然性の必然性”と言えるだろう。ここでのあらゆるキャラクターは、茂助と為三の関係のように、生死をわける必然的な原理が、ほとんど描写されず、ただ“交換可能性”だけが亡霊のように漂い、ただ偶然性に、あるいは偶然性の必然性に、従わされるようなのだ。勝者である秀吉ですら、弟の秀長などとの“交換可能性”に浸されている。


 議論がやや複雑になってしまった。まとめよう。

 映画には、ストーリーとキャラクターという要素がある。この『首』において登場する、目的を持ったキャラクターは、その多くが、“無意味”に死ぬ。しかし、そのキャラクターを、ストーリーの展開という点から再考すると、“意味”があるものとなる。ここには“実存”と“全体”との葛藤がある。またその葛藤は、“フラグ”を折るような演出によって表現される。

 以上のような構造を、ここで“無意味の構造”と呼んでみよう。“無意味の構造”とは、その世界の原理が、“偶然性の必然性”によって支配されているということだ。“偶然性の必然性”とは、キャラクター同士が、“交換可能性”の元にあって、その実存に必然性を欠く、ということであり、またその可能性が開示されるということである。



3・『首』の問題とその要因

 さて、映画の全編を通して現れる“無意味の構造”が、本作の評価を、微妙なものにしていく一因になるだろう。

 というのは、この“無意味の構造”は、キャラクターの実存においてだけではなく、やがてストーリーの全体を、覆うものになっていくからである。

 私は、キャラクターの実存は、そのキャラクターに即して考えれば“無意味”であって、ストーリーに即して考えれば、“意味”がある、というものになると言った。しかしまたストーリーそれ自体が、当初の目的を忘れ、無意味化していくように、変化していってしまうのを私は感じるのだ。


 本作は、冒頭から『アウトレイジ』シリーズを思わせるような雰囲気で始まる。

 『アウトレイジ』およびその続編『アウトレイジ ビヨンド』は、北野武のフィルモグラフィーにあって、最も商業作品としての完成度が高いものだろう。というのは『3―4X10月』『ソナチネ』『キッズ・リターン』『HANA―BI』『TAKESHIS'』といった、どこか非商業的でアーティスティックな傑作群とは異なり、ストーリー上の仕掛けを重視しているのが、『アウトレイジ』であるからだ(もちろんこの評価自体はかなり皮相的であって、本来であれば十分な議論を要する)。

 とりわけ『ビヨンド』の完成度は、かなり高いように思える。ヤクザ組織の抗争が描かれる『ビヨンド』を貫いているのは、誰が生き残るのか、誰がどうして死ぬのか、という問いである。この問いの軸は、作品の始まりから終わりに至るまで、ぶれることはない。そして、計算されたひとつの結末に向かって、粛々と暴力の連鎖が進行していくのだ。

 『首』と『アウトレイジ』は、“群像劇”であるという点で共通した要素を持っている。

 また『首』は、その題材という点から、ストーリーの目的は、『ビヨンド』よりも明確であるように思える。というのも、この映画の主題は“本能寺の変”なのだ。つまり、歴史的知識のある人なら、織田信長が明智光秀に殺されてしまうことは、知っている。そして、荒木村重が明智光秀に匿われるという、史実には現れないフィクショナルな要素が付加されることによって、ではいかに信長は殺されるか、という問いが提起され、観るものはその問いの答えを求め、興味を刺激されるだろう。とうぜん、ストーリーの構成は、その信長殺しの理由というポイントに、焦点が絞られると思うのは不自然ではないはずだ。

 だが、まさに本作を褒めることが出来ないものにとって、この点が、問題になるのではないだろうか。

つまり、『首』にあっては、信長殺しの理由というポイントが、途中がズラされていってしまい、むしろキャラクターたちがいかに残虐に、あるいは突然に死ぬかということに焦点が移っていくのである。

 村重と光秀の男色関係が、信長殺しに決定的に作用するのかと観るものは思うはずだが、かなりその点は曖昧に描かれている。それに前にも述べたように、信長を殺す理由は、信長の手紙という、別の要素で置き換えることも可能なのである。ここでは、“交換可能性”の原理が、ストーリーの進行の上にも現れている。

 そしてもしこの映画に不満を抱く理由があるとすれば、それはこうした肩透かしをくらわすような、綿密な構成の崩壊にあるだろう。

 しかしこの一見、綿密さを欠いたような結構に、取って代わるのは、残酷さを茶化していくような、お笑いの原理である。

 映画が進行するにつれ、『ビヨンド』が持っていた、厳密な構成は見られなくなり、代わりに現れるのは、むしろ『みんな~やってるか!』や『監督・ばんざい!』のような、ショートコントの連続のような結構である。印象としては、ルイス・ブニュエルの『ブルジョワジーの密かな愉しみ』などに近いものを感じるのだ。

 とくに、秀吉が信長の死を知ってから、安国寺恵瓊との交渉、清水宗治の切腹、中国大返しといった有名エピソードを、お笑いとして連続的に処理していく仕草は、痛快というほかない。

 本作は、私の見立てでは、『アウトレイジ』のように始まったら、実際には『みんな~やってるか!』に落ち着いたような、そんな映画なのである。ただ『みんな~やってるか!』において、“やる”が性的な意味合いを帯びているのに対し、本作では生死を賭けた“殺る”ことも眼目になっているが。

 いずれにせよ、映画のストーリーの全体も、当初に立てられた“フラグ”を裏切ってしまい、“無意味の構造”に回収されていく。

 そしてこの映画の持つ評価の奇妙さは、作品の内的原理としての“無意味の構造”に由来するものであるがゆえに、簡単にそれを否定できないものになっている。この映画が極めて特異で、かつ評価を割れさせるような“問題作”であるとしたら、以上のような点に存すると、私には思われる。



4・おわりに

 本作は、“無意味の構造”に支配されている、と私は主張した。しかしだからといって、かつて北野武がそうだったように、自己を完全に無意味として否定するような地点に、いるわけではない。本作の“無意味”は、北野武がかつて『ソナチネ』で示したような、自殺の契機ではない。また、『TAKESHIS'』などで示した、自己言及的な試みでもない。

 北野武は、『アウトレイジ』以来、徐々に自己を生き延びさせるような映画をつくりだしているのである。あたかもニーチェが、ニヒリズムに能動的と受動的との区別をつくりだしたように、近年の北野武作品は、能動的なニヒリズムの作法を身につけているかのようだ。つまり、受動的ニヒリズムは、意味の喪失を嘆き悲しむだけだが、能動的ニヒリズムは、意味が無いからこそ意味を創出できることを、知っている。老年になった北野武は、無意味を積極的にコントロールすることで、映画を創り出す。そして、本作では北野武本人が演じる羽柴秀吉に、天下をとらせさえする。

 では、無意味を積極的にコントロールする北野武が映し出すのは、どんな世界なのだろうか。少なくとも本作では、一種の幼児退行をしたかのような残虐性の世界である。つまり、死体のオンパレードの世界。『アウトレイジ』のように、殺し方のバリエーションはもはや問題ではない。死体がどう映るかが、問題になっている。こうした点をどう考えるかが、この映画をどう評価するかに繋がるだろう。


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