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前科者と呼ばれても、政治家として闘うワケ

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ー私を誰が嵌めたのかー 市長当選、逮捕、無罪判決、逆転有罪判決、そして、これから。 新聞やテレビでは報じられない事実を、私の目線から綴ります。
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2021年9月の記事一覧

#55 回顧録・先生は選挙に出ないの?

大きな目標とやりがいをもって取り組んだ塾講師。 ある日 「先生は選挙に出ないの?」 生徒の口から出た言葉でした。 こんなふとした会話が、まさか政治家を踏み出す一歩になるとは。 そして、決意だけでは成り立たない政治の世界。 さまざまな人の応援で、意思は固まっていきました。 >>>>>>>>>> 塾では、学習指導はもちろん、生徒との会話も大切にしていました。例えば、授業のアイスブレイクや合間の時間。私なりに、学ぶことの楽しさや勉強意欲が湧くような、それでいて子どもたちが

#54 回顧録・私の原点

待ちに待った保釈。 ようやく市民の皆さんの前で、私の無実をお話しできる。 こんなに嬉しいことはないのに、大きな不安が襲ってきました。 そんな時に、いつも行うことがあります。 それは不安な時や迷った時、いつも自分自身の原点に立ち返ることです。 保釈前夜、走馬灯のように過去の思い出がよみがえるのでした。 >>>>>>>>>>> 保釈決定が伝えられた翌日。荷物をまとめ、資料などを整理しました。 生活リズムに変化はありませんでしたが、全く寝付けない夜になりました。 (ようやく

#53 1,000万円払えば保釈

勾留から60日。 検察が主張している証拠すべてに同意しているにも関わらず、"罪証隠滅の恐れ"という理由で却下され続けていた保釈が、ようやく認められました。 しかし、会えない人やしてはいけないことなど、様々な条件がありました。 そして、そもそも保釈金が払えないと勝ち取った保釈請求も意味がありませんでした。 >>>>>>>>>> 8月23日の深夜、 保釈が認められたとの連絡がありました。 6月24日から始まった勾留は、60日目になっていました。 その日に保釈されることは手

#52 13回の保釈請求バトル

依然として続く、"人質司法"との戦い。 起訴前、弁護団は勾留取消の何度も手続きを行いました。 起訴後には、保釈と接見禁止の解除をするために多くの書類を提出し、更には、裁判の準備段階である公判前整理手続において、検察側の主張に最大限応じました。 そして、ようやく私の勾留が解けることになりますが、これには13回にわたる弁護士の奮闘がありました。 >>>>>>>>>> 少し時を戻します。 拘留所へ移った時のこと。 拘置所に移ると、身体測定がありました。 定期的なものなの

#51 40日ぶりの外の人

逮捕後から"接見禁止"。 弁護士以外の人とは面会も手紙のやり取りも許されていませんでした。 起訴が決まり、捜査が終わった後も変わらず続く接見禁止。一体いつになったら解かれるのか、全く検討がつきませんでした。 そんな中、二人だけ接見禁止が解除されました。 "市政運営のための情報交換"。要は仕事のために解除されました。 仕事と言えど40日ぶりに会う外部の人でした。 >>>>>>>>>> 8月7日、接見禁止の一部解除が認められました。 勾留状態を少しでも解くために、保釈申

#50 しるこサンドinココア

拘置所は法務省の管轄、留置場は警察の管轄。 同じような二つの施設ですが、多くの点で異なっていました。 留置場があまりに過酷だったためか、多少の自由度の広がりに喜ぶのも束の間。 よく考えれば、推定無罪の状態。 今までいかに行動が制限され、与えられた自由がいかにわずかであるかを痛感しました。 >>>>>>>>>> 留置場と比較して、いくつか自由になった点がありました。 まずは、書籍や机の環境。 本は棚に乗る分だけ部屋の中に入れることができ、机を使って物を書くことができました。

#49 いざ、拘置所へ

逮捕直後から勾留されていた留置場から、名古屋拘置所に移送されることになりました。 留置場、拘置所、刑務所、この違いがはっきり分かりますか? この3つの意味は全く異なるのですが、普通の生活をしていれば関わることも、知ることもないでしょう。 そして何より、こんな名古屋の真ん真ん中に拘置所があろうとは、知る由もありません。 >>>>>>>>>> 2014年8月6日、勾留から44日目。 拘置所へ移送されることが伝えられました。 起訴された直後に、移送されることは聞いていまし

#48 獄中バースデー

取調べが終わった勾留生活。 何もしないで、じっとしていることはできませんでした。 時間の限り、美濃加茂市の資料や、裁判に関わる本を読み漁りました。 そして、気がつけば30歳になりました。 留置場で30歳の誕生日を迎えるなんて、誰が想像していたのでしょうか。 >>>>>>>>>> 毎朝掃除の時間が終わると、本を三冊持っていけます。その際には、留置場の本棚に並んだ古い本から選ぶか、差し入れられた本を読むことができました。途中で交換はできないので、消灯までに読む本を選びま

#47 父からの手紙、母からのジャージ

取調べの20日間、それから先が見えない勾留期間。 「よく頑張ることができたね」と言われますが、多くの人たちのおかげで、私は乗り越えることができました。 市長として、政治家として、多くの人からのメッセージに救われました。 家族や大切な人からの励ましが、個人としての弱い私を支えてくれました。 >>>>>>>>>> 多くのお手紙や応援メッセージ、寄せ書き。 市民の皆さん、市役所職員さん、ご縁のある方々。本当に多くの方からいただきました。 これらの内容を弁護士の先生から伝えてい

#46 本当にあった留置場エピソード

留置場での生活については、前話で紹介しましたが、その他の... ・入って早々に"市長"と呼ばれたこと ・被疑者として警察官が来たエピソード ・護送車に乗った時のエピソード ・担当さんたちの話 私にとって印象深かったことをいくつか紹介したいと思います。 >>>>>>>>>> 留置場では、今でも忘れられない出来事がいくつもありました。 まずは留置場に入って間もなく、数名から"市長"と呼ばれたことについて。 取調べが終わっても続いた接見禁止。外部からの情報は、弁護士との面会

#45 留置場での一日

留置場生活は、経験することはもちろんのこと、これまでの生活では知ることもなかったことばかりでした。 お風呂は5日に1回。 お金を払えば頼める冷めたメニュー。 菓子やパン。 平然を保ち、過ごそうとしましたが、その一つ一つのことが、留置場にいることを痛感させる日々でした。 "102番"こと、藤井浩人の留置場でのスケジュールをご紹介します。 >>>>>>>>>> 8:00 お風呂は、まさかの午前中。5日に1回だったと記憶しています。 はじめは、その回数の少なさに驚きました。

#44 私の名前は、102番

逮捕からの取調べが終わり、ようやく身柄が解放されるのかと思いきや、裁判所からの許可は無く、勾留は続きました。取調べが無いことで、朝から晩まで留置場で生活をすることになりました。 2012年に一世を風靡した映画『レ・ミゼラブル(日本語版)』。主人公のジャン・バルジャンは窃盗により収監され、"24653"と呼ばれていました。 まさか自分が番号で呼ばれる日が来るとは... >>>>>>>>>>> 留置場での生活について紹介します。 私の名前は"102番"。名前では呼ばれません

#43 最後の取調べ

任意同行の日から、刑事と検事による取調べが毎日続きました。 手錠をつけ、パイプ椅子に座り続ける一日は、とても長く感じました。 毎晩寝る前に、その日のことをノートに綴りながら、残り8日、残り7日、6日、5日...と、勾留の日数を数えることで気を紛らわす毎日でした。 もしかすると、再び事件をでっち上げられ、再逮捕で更に20日間の取調べが行われる可能性も聞いていました。 そして、ようやく迎えた最終日。 新たな証拠も証言も出てこない中、捜査機関は、どう締め括るのでしょうか。

#42 日常を奪う人質司法

勾留理由開示公判で、裁判官がいかに頼りないものなのかを実感しました。 そして、勾留取消請求は却下され、さらに10日間の勾留延長が決定しました。 弁護団は、私を一日でも早く不当な勾留から解放するために、できる手段全てに着手。 それぞれの手続きごとに新たな書類が作成され、提出前には必ずアクリル板越しに確認してサインをしました。 しかし、その努力も空しく、すべての手続きが却下されました。いわゆる"日本の人質司法"の大きな問題を身をもって経験することになりました。 >>>>>>