ジョーカーを見て生き方について考え直してみる、スコセッシの風
ジョーカーを今さら見ました。
自分は小さい頃にアニメのアベンジャーズを見てたくらいで、ちゃんとバットマンを見たことはありませんし、マーベル作品も殆ど見てません。
バットマンはマーベル作品だと勘違いするほど見てません。
ジョーカーと言うと、ダークナイトなどでの悪のカリスマというイメージが強いようですが、自分はそのカリスマジョーカーを知りません。ハーレークインと熱愛のジョーカーも知りません。
知らないからこそ、キャラ設定に疑問を持つことなくジョーカーを面白く見れたので感想を投稿します。
ネタバレを含みます。
社会で虐げられている人たち
ジョーカーはもともとアーサーという名前でした。
アーサーは街の売れないコメディアンでピエロをやっています。家に変えると母の介護をしています。
日頃のストレスから、カウセリングを受けて薬を飲んでいます。
アーサーはチック症で勝手に笑ってしまうという特性があります。
それは、母親から生まれつきだと言われていましたが、実際は、幼少期に実際は親から受けた虐待による後遺症でした。心の防衛機制の一つなのでしょう。
それを知ったアーサーはずっと愛してくれていたと思っていた母親にショックを受け、入院していた母親を殺します。
そのため、変わった奴という烙印を押され、ストリートチルドレンやエリート階級の人々に虐げられます。アーサーには優しくしてくれる友達はいません。
これは、フーコーの監獄の誕生の話と共通します。
フーコーは近代化とは異常者を社会から隔離して社会をクリーンにしていくことだと言っていました。
舞台のゴッサムシティでも、異常者や犯罪者は精神病院に隔離されるシーンが強調されていました。
アーサーのような社会で浮いている人は、異常者とみなされ、誰にも相手にしてもらえません。
社会とはこの映画の場合、アーサーの住むゴッサムシティとなります。
アーサーよりも社会的地位が上の人は、アーサーがいち市民として静かに働くことを求めます。
しかし、アーサーも暴力によるハラスメントを受けているのにずっと静かに暮らしていくのは苦しいです。
そのため、アーサーは暴力を加えてきたエリート階級に対して殺人を犯します。アーサーはこれによって反知性主義の英雄となります。
アメリカの反知性主義、トランプ現象
反知性主義とは、教養や学問、それらを習得しているエリート層への反抗です
アーサーが起こした殺人事件は、反知性主義的であります。そのため、アーサーはアーサーと同じようにエリート層に反感を持つ民衆のヒーローとなったのです。
トランプ大統領の当選は、まさに反知性主義と言えます。冷遇されてきたアメリカ労働者階級の心に訴えかけるように利益重視のマニュフェストを謳うトランプはブームとなりました。
アメリカはヒラリーとトランプのような二項対立を脱構築する必要があります。
反知性主義は結局分断を深めるだけです。
ヒラリーを支持していたエリート層も思いやりの心をもっと持つべきです。
本質的な解決にはなりません。
スコセッシ作品からの影響
ジョーカーのクレジットからは外れていますが、巨匠マーティン・スコセッシがプロデュースしていた作品なんです。岡田斗司夫さんが言っていて気づきましたが、スコセッシの風を感じる作品です。
その証拠として、コメディアンたちが集まる楽屋でのシーンは「タクシードライバー」から来ていると思われます。
アーサーがテレビ番組について妄想するシーンは、
「キングオブコメディ」の妄想と現実が交差して混同していく感じが共通します。
京王線ジョーカー事件との違い
特筆すべき日本の事件があります。
京王線ジョーカー事件です。
電車内でおきた殺人未遂ですが、ジョーカーの映画の中でも電車内での殺人シーンがあるので、強い影響を受けたように見えます。
犯人の幼少期もアーサーと重なる部分がありますが、仮装していたのがダークナイトのジョーカー、つまり違う映画でのジョーカーのコスチュームであることや、悪のカリスマのジョーカーに憧れてていたという趣旨の発言から、この映画のジョーカーではないようです。これは岡田斗司夫さんも指摘していました。
しかし、犯人が反抗に至るまでのいきさつは、アーサーと酷似しています。
一番のアーサーと犯人の違いは、希死念慮です。
アーサーはそんなに死にたがっていませんでした。
諦めずに立ち上がったわけです。立ち上がり方は大問題ですが。
ジョーカーという映画は、分断される社会に対して、【俺みたいにならないように他人に思いやりを持って生きろ!!】と反面教師的に教えてくれます。
それが受け取るべきメッセージでしょう。
ジョーカーを生み出さないために
現代社会は、異常者を隔離することで成立している側面があります。
しかしながら、誰でも異常者になる可能性はあるし、成功するかどうかは運なのです。
社会的地位に縛られずに生きるのが大切です。
そういう見方をすれば、もう少し社会に絶望する人は減ると信じています。