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飯田橋セントラルプラザビル2階 「大樹」吉田誠製作 1984年
後楽園にこの店が銀座から移ってきたのは2023年7月のこと。 有名店のためだろうか、ネット上の評価は様々。いい評価もあるが悪い評価を書きこむ人もいる。このネット上の評価の正しさは、判断はつかないが、個人的には、焼き立てのスコーンと少し苦いコーヒーとの組み合わせは絶妙なので、混んでいないときを狙って、時々立ち寄って一息入れる店になっている。
飯田橋歩道橋の建設は1968年とされるので、建設後56年の月日が経っている。今、2025年2月完成を目指して、エレベーター付設工事がすすめられているので、この歩道橋は今後も活用されるのだろう。 歩道橋の多くは1960年代から1970年代にかけて日本全国で建設された。人と自動車を分けて、交通事故を避けるというのが大義名分だが、歩道橋を敷設して、横断歩道を撤去したり、横断歩道を敷設しないことがあったわけだから、歩行者よりも自動車を優先する、根本的に誤った思想に人々が陥っていた
多くの人がそうであるように、私も台湾台北に行くと誠品書店信義店を訪ねた。それほど店の作り方に魅力があった。その誠品書店が日本橋に進出したのは2019年9月のこと。 しかしその後、私は日本橋に出ても、三越や東宝シネマが北限で誠品書店日本橋を訪ねることはなかった。なお誠品書店日本橋といったが、正式な店名は誠品生活日本橋である。書店を核に文具をはじめとする生活用品を販売している。問題は日本橋と言ってもかなり北にあって、日本橋から向かうと微妙に遠いのだ。ところで昨日、地図を見て「
酷暑の中、早稲田の遇見書房を訪ねた。 場所は。穴八幡の鳥居がある交差点、馬場下町の交差点を、早稲田キャンパスに向かって歩く。ほどなく右側に焼き肉屋と油そば屋が並んでいるところ。油そば屋左手の階段を上がった2階にある。サインがあるが見落としやすいかも。 2階に上がり、室内に入って少し驚いた。開室されて空調も入っているのだが、店の主人がいなかった。それだけでなく、客もいなかった。ただ入口のカウンターに立札があり、主人は席をはずしているので「自助」=セルフサービスでやってく
酷暑の中、神保町に「局外人書店」を訪ねた。昨年末の開店は知っていたが、ようやく訪問できた。 訪ねて分かったことは、まずロケーションが素晴らしいことだ。地下鉄神保町のA7出口から、すずらん通りに出て、内山書店を過ぎた角を、右手へ。少し進むとファミマがある四つ角。その左手右側のビルの2階に看板が見えるはずだ。よくこの便利な場所が確保できたものだと感心した。 入店すると、座って本を読んでいたのが、主人の趙国君氏だろうか。「自由にご覧になってください」と一言、中国語で。そこでゆ
酷暑の中、1年前に銀座にできた単向街書店をようやく覗いてきた。 文芸書や、日本紹介の中国語本がある。政治とか経済を感じさせる本は見あたらない。文芸書で、日本人作家の中文や、中国人作家の日文は、内山書店などでも見られる品揃え。日本紹介のいわゆる観光用の本に目新しいものが見られる。また店内は新刊本満載を期待したが、新刊もあるが古い本も散見された。仔細に見れば発見はあろう。今日は、李渝(1944-2014)の九重葛与美少年(九州出版社2021)を見つけて、購入した。李渝は重慶に
千代田区立日比谷図書文化館(旧都立日比谷図書館)を訪れた時、しばしば立ち寄るのが1階奥にあるProntだ。今日はたまたま、窓際の席が空いていた。私が通常訪問する午後の時間帯は混んでいるので、窓側の席を利用できたのは幸運だった。残念ながらおしゃべりおばさんが隣席ではあったが(写真を見れば理解できるようにおしゃべりをする雰囲気は全くないのだが)、明るい窓側でしばし快適に過ごせた。 ところで書店と喫茶店が隣接しているケースはめずらしくなくなったが、図書館と洒落た喫茶店との組み合
慶應義塾大学三田キャンパスには国の重要文化財に指定されている建築物が二つある。一つがこの「三田演説館」もう一つは「図書館(旧図書館)」である。 「三田演説館」は明治8年1875年5月の竣工。大正13年1924年移築。都内に残る明治初期の洋風建築は貴重であるとして、昭和42年1967年6月に重要文化財に指定されている。木造瓦葺。壁は明治時代の建築に多い「なまこ壁」だが、窓は洋風であり、洋風を模して造られたことを伺わせる。 この建築の「おもしろさ」について以下を参照。 藤
慶應義塾大学三田キャンパスの建物はそれぞれ個性的で魅力があるが、その中で、華麗という表現があてはまるのは慶應義塾大学図書館(旧図書館)だろう。 慶應義塾大学図書館は明治45年1912年4月に竣工した。設計は、曾禰達蔵(嘉永5年1853年ー昭和12年1937年)、中條精一郎(慶應4年1868年-昭和11年1936年)の二人。その後、大震災(大正12年1923年)そして昭和20年1945年5月の空襲でも被害を受けた。現在の建物はこれらの被害からの修復を経たもの。昭和44年19
大正11年1922年に大隈重信が亡くなったとき、大隈記念講堂の建設が議論された。しかし翌大正12年1923年に関東大震災が起き、計画は一時頓挫。大正14年1925年頃から建設の議論が再燃し、かつ早稲田大学の建築科の教授陣を中心に改めて設計が行われることになった。設計の中心を担ったのは、佐藤功一、内藤多仲、佐藤武夫ら教授陣。戸田組(現戸田建設)が建設を担った。昭和2年1927年10月竣工。 平成19年2007年12月、ロマネスク様式(たとえば回廊部の半円アーチのモチーフの連
早稲田大学の校庭に立つ、早稲田大学初代総長を務めた、大隈重信(天保9年1838年-大正11年1922年)の銅像である。制作は朝倉文夫(1883-1964)である。完成は昭和7年1932年10月とされる。 上野の森にある西郷隆盛像(明治31年1898年12月除幕 高村光雲制作)の場合、西郷隆盛(1828-1877)がいかなる人かについて分からないことが像を見たあとも多く残るのであるが、大隈重信銅像は、顔の表情から、大隈の人となり、人物を良く伝えている。正装の上に角帽、ガウン
上野で西郷隆盛像(明治31年1898年12月除幕)に出会ったあと、皇居外苑にある楠木正成像を見たくなった。楠木正成(1294-1336)は南朝の後醍醐天皇(1288-1339)に忠誠をつくしたことが知られる。その意味で、皇居を守る意味で楠木正成像をここに設置したとみるのが自然だ。今にも走り出そうとする馬の手綱を強く引く、兜で身を固めた武人の姿は勇壮である。 なおこの馬の姿を、上野の山の小松宮彰仁親王像(明治45年1912年建立)の馬の様子とぜひ比較してほしい。正成像
上野恩賜公園の銅像から二体について述べたい。一つは西郷隆盛像である。銅像は通常、その人を顕彰する目的でつくる。また、その像が後世に残り人前に触れるわけだから、そのいでたちも問題になる。だからこそ多くの像は正装で作られている。 西郷隆盛像はその意味で異例である。着物を一枚羽織っただけの姿。わらじ履き。短刀を左手で帯刀するものの、右手は犬を連れており、直ぐに抜刀できない。平服の無防備な姿。西郷隆盛(1828-1877)は、明治維新で多大な武功がありながら、征韓論(李氏朝鮮が明