空想日記〜水彩の月〜
これは空想じゃなくて本当の日記。いや、空想だったかもしれないから空想日記ということにする。空想であって欲しいの間違いか。
ちょっと飲み屋が集まっている駅前から北上して歩いていた。歩く分には気にならないゆるやかな坂だ。ほろよい気分の私の前に男女の楽しそうな集団が見えた、5、6人か。いかにも飲みが好きそうな、私の知り合いではいないタイプだ。
あの細身の彼の首から頭にかけての形あの人に似ているな。
すれ違いざま、とある男が空き缶を捨てに自動販売機の横のゴミ箱に手を伸ばした。私が集団を避けようとした側であった。
あっ、目が合った。
……。
彼は私から目を外し、仲間らと会話を続け去っていった。
私はたまらず振り返ってしまった。
目が合った瞬間こんなに時が止まったことが今まであっただろうか。
だって、
それはひどくあの人に似た顔だったから。
それはあの人だったのかもしれない。
しかしあの人は同じ区役所に届出をしているとはいえどこの駅前で飲むような人間ではないはず。元々おとなしい性格で飲み歩くような人ではない。いや、以前友人から煙草を始めたとか聞いたが……そういうことか。
そんなことはどうだってよくて、最も、最も私が強く望むことは、
傷んだパーマの髪が最もあの人であって欲しくないということだ。
彼との話をしよう。
彼は高校時代の同級生でなぜか同じ街に進学した。大学は別々であるがたまに会う仲であった。知らぬ街にいた私を知る唯一の人というべきか。
非常に風流な男で書を嗜み、香を好み、カフェでコーヒーを飲むことが好きだった。そして綺麗な髪をもっていた。真面目な彼によく似合うまっすぐな深い黒。
結局彼がどんな人間であったかは思い出せないが、彼との時間の心地よさだけは覚えている。温度も風も香りも。全てが淡いものであった。
しかし彼となんだか会わない期間が続いてその間に恋人ができたのなんだので一緒にどこかへ行くことは絶えてしまった。少なくとも最後に言葉を交わしたのは確か、桜を覚えているから春だろう。もう半年以上前だ。その頃すでに彼の正体はよくわからなくなっていた。実体を掴んでいた最後は一年前だ。そうだ。
傷んだパーマの男があの人だとしてだ、私は酷く傷ついただろう。
よく似た人である余地があることが救いである。
しかし、私は彼であるか、彼でないかの判断がつかなかったのだろうか。様々な要因があるが、最も大きいものは夜の中であったからである。いや、もう彼の顔が朧げだからか。
そしてさほど彼であるか、彼でないかは重要ではなかった。
私はその男を振り返った後、寂しく歩いて帰るわけで。この道は思えばあの人とよく歩いた。ここは一緒にコーヒーを飲んだことがあるカフェ。忘れていたことが少しずつ鮮明になっていった。
アパートの鍵を手にしふと上を見れば、水彩のように滲んだ月が浮かんでいた。雲に霞む上弦に満たないそれに私はかの有名な歌を思い出した。
めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな
紫式部の和歌だ。この歌の本来の意味としては久しぶりにあった友人があまりに早く帰るので……といったところである。
めぐりあったが見てあなたともわからない間に……私の心境にぴったりではないか。そして雲隠れする月という情景。
そういえばあの人は松栄堂で浮舟のお香を買っていた。私は確か花散里を。花橘の香りは最も遠い晩秋の夜。今日は今季最大に冷え込むようだ。用心せねば。
すれ違いて見るも君とは言い出せず
面影滲む水彩の月
思うままそのまま捻りも入れず。あの歌を思いつつ。いつかちゃんと推敲しよう。