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中村彝

中村彝(なかむら つね)を知っていますか?
私は、知りませんでした。

茨城県水戸市出身の洋画家。
今年(2024年)、没後100年が経つ。

「没後100年 中村彝展」が開催されると知り、
中村彝について、調べてみた。

1.家族の死

1887年(明治20年)7月3日:茨城県水戸市に誕生(三男/姉2兄2)
1888年(明治21年)5月23日:実父(順正)死去、彝(2歳)
1898年(明治31年)9月8日:実母(よし)死去、彝(12歳)
1898年(明治31年)秋     :東京へ転居
1901年(明治34年)9月6日:次兄(中)病死、彝(15歳)
1904年(明治37年)6月  :胸部疾患(肺結核)に罹患、彝(17歳)
1904年(明治37年)10月15日:長兄(直)戦死、彝(18歳)

10代で、両親や兄達の死を経験する。21歳で祖母の死も経験し、姉達は別の家へ嫁ぎ、彝さんは孤独だった。

2.肺結核

17歳(1904年/明治37年)の時、当時は不治の病であった肺結核を患う。37歳(1924年/大正13年12月24日)で亡くなるまで、約20年間、肺結核と共に生きた。死後は、茨城県水戸市祇園寺に埋葬された。

結核は、1950年(昭和25年)以前の日本人の死因のトップであり、人から人へ飛沫感染し、咳、痰、血痰、胸痛などの呼吸器関連症状と、発熱、冷汗、だるさ、やせなどの全身症状が出る。現在は、治療薬が開発され、治る病気となった。

彜さんはが大好きだったと知る。漢方では、梨は乾燥から肺を守る効果があるとされる。身体にこもった熱を取り、喉を潤し、咳を止める効果が期待できる食べ物だ。肺に良いものを好んでいた事に驚いた。

3.挫折

(1)軍人を断念

彝さんの家は、代々水戸徳川家に仕えており、祖父は勤皇の志士。兄達と同様に軍人を目指していたけれど、肺結核により、断念する。

(2)失恋

1911年(明治44年)12月から新宿中村屋の相馬夫妻に世話になり、裏のアトリエで制作していた。相馬夫妻の長女(相馬俊子)をモデルとした作品を多数描いている。1914年(大正3年)第8回文展三等賞「少女」も俊子がモデルとなっている。ただ、この「少女」は裸像だった事もあり、未婚の娘(当時17歳)の裸が掲示された事で、娘の将来を思う相馬夫妻は、病気を抱えている彝さんとの恋愛を戒めたとされる。彝さんは、俊子と結婚したいと考えていたけれど、俊子の母(相馬黒光)に反対され、二人の仲は引き裂かれてしまった。

失恋により苦悩した彝さん(28歳頃)。「狂人でない証拠に良い絵を描いてみたい。君の顔を描かせてくれないか」との依頼に、快く承諾した保田竜門。1915年(大正4年)第9回文展三等賞「保田竜門氏像」は、文部省に買い上げられたが、関東大震災によって焼失し、現在は写真が残るのみ。余談だけど、新渡戸稲造も「保田竜門氏像」に目が止まったと話したそう。

彝さんの死亡時に取ったデスマスクは、この保田が引き受けている。茨城県近代美術館に復元された中村彝アトリエに、デスマスクが展示されている。彝さんと対面できたようで、不思議な気持ちだった。

中村彝アトリエは1988年(昭和63年)に新築復元されたものだけど、生前に使用していた机や椅子などの遺品は、本物が展示されている。作品に描かれている遺品を見つけるのも、おもしろい。

1916年(大正5年)1月15日が、俊子との最後の対面とされている。失恋の傷が癒えるまで、約1年を要したそう。その後、1918年(大正7年)に俊子が亡命インド人(ラス・ビハリ・ボース)と結婚した事を、翌年1919年(大正8年)に知った時には、失恋から3年を経て、また悲痛の涙を流すことになった。それは、俊子の母(相馬黒光)が、彝さんとの交流を再開していたにも関わらず、俊子の結婚を秘密にしていた事への失望もあった。

俊子は、彝さんが亡くなったわずか2ヶ月後に結核によって急死している(大正14年3月4日/享年28歳)。

(3)治療を断念

転地療養や、様々な療法を試したが、十分な効果を得られなかった彝さんは、茨城県平磯海岸への転地療養(1919年/大正8年)後、「もう身体をよくしようという考えは断念して、ひたすら画作に没入しよう。運命の重荷を背負ってただコツコツと、制作以外何物もない」と決意を固める。

もちろん治療も継続していた。1920年(大正9年)に遠藤繁清医師が診療を引き受けてくれた事も大きい。遠藤医師は、治療について悩みながらも、次のように考えていた。

病症が初期であるなら根治まで徹底的に療養させねばならぬ。しかし彝さんにおいて、根治は望み難い。従って只、生命が一日も永かれと願うなら、おそらく死ぬまで寝かさねばなるまい。しかし必らず根治の時期が来るものと信ぜしめ、元気づけつつ絵に再びたつことが出来ない羽目に陥らせてしまったら、あたら天分を発揮することは出来ず、ただ此世に呼吸を続けるだけでは何の意義もない。患者であるがままに画家として立たせねばならない。やはり病気をだましだまし時には描かせねばなるまいと思ったのである。

「中村彜の周辺」より引用

治すことよりも、描くこと。

患者ではなく、画家として生かすこと。

いつ死ぬか分からないからこそ、
いつ死んでもいいように描くこと。

1920年(大正9年)は日本の肖像画の名作「エロシェンコ氏の肖像」を描き上げた年だ。

「エロシェンコ氏の肖像」は、下落合のアトリエで制作された。ともに描いていた鶴田吾郎は、彝さんの体調を懸念して、制作8日目に、もう止そうと提案した。彝さんは「アゴがまだ弱いのだ。たのむ、もう1日描かしてくれ」と訴えたという。これ以上になると死んでしまうとみた鶴田は、冷静に終了を告げた。案の定、最後の筆を置くと、彝さんはそのまま倒れて、ふせたきりになってしまった。

命がけで描いていたことが分かる。そして、体調不良を凌駕するほど、集中し、熱中し、興奮していたのだ。その快感は、素人の私にも、分かる気がする。集中すると、途中で止められない、あの高揚感。彝さんが健康体であったなら、どんな作品が生み出されていたのだろう。

彝さんにとっては、未完の状態だったかもしれないけれど「エロシェンコ氏の肖像」は、第2回帝展(1920年/大正9年)で称賛され、日仏交換美術展覧会(1922年/大正11年)でも圧倒的な好評を得て、日本の肖像画の名作とされた。

4.友人 中原悌二郎の死

中原悌二郎は、彝さんの古い友人であり、「若きカフカス人」を制作した彫刻家である。昭和2年に「若きカフカス人」を見た自殺3日前の芥川龍之介は「誰かこの中原悌二郎氏のブロンズ『若者』に惚れるものはいないか?この『若者』は未だ生きているぞ。」という言葉を残している。

中原は、結核で亡くなる(大正10年3月28日/享年34歳)。発熱していた彝さんは、後日、中原の死を知らされ、その事を報じた新聞を読み終えると、ズタズタに引き裂き、声をあげて泣いて悲しんだ。そして「中原悌二郎君を憶ふ」という文章を書き、3日間にわたり朝日新聞に掲載した(「夭逝の画家 中村彝」に収録)。

5.関東大震災

1923年(大正12年)9月1日、関東大震災。下落合のアトリエで被災したが、世話をしてくれていた岡崎キイと共に庭に避難し、無事であった。彜さんは、死ぬなら天災で死にたいと思っていた時期もあるけど、関東大震災を経験し、「絵を(思ひ)かく事以外に自分の心に絶対の安神を与へ、死に打ち勝つべき道はない」と確信を得る。

震災後、アトリエの壁に円頭アーチ型の窪みを作ったり、「カルピスのある静物」「髑髏をもつ自画像」、岡崎キイをモデルとした「老母像」などを制作した。

震災時のエピソードを読んでいて、なんでか泣けてきた部分がある。それは、画家生時代からの親友の一人、彫刻家・堀進二の回想だ。

地震のあと君を見舞った時、私の顔を見るや否や『あれは落ちたけど壊れなかったよ、よかった』と自身のアトリエの壁やその他のものが破損した事を一言もいわずに喜んでくれたのはいかにも君らしく思われた。

「夭逝の画家 中村彜」より引用

堀の作品「老母」が壊れなくて良かったと伝えたエピソードだ。自分の損害よりも、友を思いやる気持ちを感じて、泣けたのかもしれない。

病気や挫折、失恋、家族や友人の死など、思い通りにならない経験を重ねるうちに、彜さんの魂は磨かれ、聖人のような存在として、人々を惹きつけるようになったのかもしれない。

没後50年、堀に彜さんの銅像制作を依頼し、中村彜像が完成。ザ・ヒロサワ・シティ会館(茨城県立県民文化センター)前に飾られている。

6.川尻と五浦

彜さんは、肺結核と診断された後、1905年(明治38年)頃から、画家を志す。最初は、療養先などで水彩画を描いていたが、その後、黒田清輝の白馬会(1906年/明治39年)、中村不折の太平洋画会(1907年/明治40年)などで本格的に油絵を学ぶ。

個人的には、茨城県川尻に来ていた(1907年/明治40年)のが嬉しい。ただ、その時に祖母を亡くして東京へ戻っている。その翌年(1908年/明治41年)に、再度茨城県川尻に来て、日本美術院の画家(横山大観、下村観山、岡倉天心など)が熱心に学んでいた茨城県五浦も訪れている。この時に描いた「岬」は、第2回文展に出品したが落選し、現存していない。

1910年(明治43年)第4回文展で三等賞を授与された「海辺の村」が実業家今村繁三の眼にとまり、1915年(大正4年)から支援を受ける事ができた。

1910年(明治43年)太平洋画会展に出品した「枇杷の木」が宮内省買い上げとなり、翌年1911年(明治44年)に第5回文展で「女」が三等賞に輝くなど、25歳にして新進画家としての画壇における地位を確立した。

7.レンブラント、ルノアール、ロダン

軍人を目指していた頃も、レンブラントの絵葉書を所持していた彝さん。レンブラントは光と影の画家といわれ、生涯を通じて自画像を描き続けた画家でもある。レンブラントは、彝さんに大きな影響を与えた存在であると言える。1909年(明治42年)頃にレンブラントの本を手に入れ、一流の執拗さでその本を繰り返し見つめていたとされる。第3回文展(1909年)に入選した「巌」は、レンブラントを研究して描かれた。

レンブラントだけでなく、ルノアールやロダン、ミレー、セザンヌなどからも大きな影響を受けている。

ちなみに、彜さんはフランス語も堪能で、チェンニーニの「藝術の書」を翻訳している。体調が優れず、安静にしている時に、手紙を書いたり、翻訳をしたりと、絵を描く以外にも意欲的で、頭脳明晰であったことが分かる。ルノアールの作品を観た後、帰宅後にルノアールの特徴を再現できたという逸話も記憶力の良さを感じる。

8.自然と精神

自然(生命)そのものの美しさを観察し、そこに含まれる精神性までも描く。それは、彜さんの洞察力や思慮深さが可能としたものでもあり、人生経験を重ねた事で、より細かく深い部分まで感知できるようになったからかもしれないし、いつも死を身近に感じていたからかもしれない。

思い通りにならない身体、死の恐怖、描きたいのに描けないもどかしさ。全ての出来事を運命とするならば、全ての出来事は、なるようになっているのかもしれない。

もし、彜さんが肺結核にならなかったら。
画家にはならず、軍人になっていたかもしれない。

友人や支援者との出会いがなかったら。
青春のいたずらも、恋愛と失恋も。
悲しみも、失望も、怒りも、喜びも、幸せも。

そして、さまざまな名作も。

すべてなかったかもしれない。

健康なら、それはそれで幸せな人生だったかもしれないけれど。

彜さんは、画家になり、
友との思い出と作品を遺してくれた。

そして、没後100年経った現在も、
当時の彜さんが見たものを伝えてくれている。

中村彜の事を、まったく知らなかったのに。
調べていくうちに、彜さんの作品を観たくなった。

過去に、中村彜の絵を見た事は、ある。
だけど、その絵を描いた背景を知ると、見え方は変わる。

その絵を描いていた時の状況や心境。
まわりにいた人たち。

そんな事を連想しながら、
絵を見ると、おもしろい。

知らなくても、おもしろい。
でも、知る事で、見え方は、変わる。
それが、美術鑑賞のおもしろさ。

「没後100年 中村彜展」が、楽しみだ。


中村彜が、実際に住んでいたアトリエ(中村彜アトリエ記念館)にも、行ってみたい。


今回、読んだ3冊は、こちら。

「夭折の画家 中村彜(著:梶山公平/学陽書房/1988年)」
「中村彜(著:鈴木秀枝/木耳社/1989年)」
「中村彜の周辺(著:鈴木良三/中央公論美術出版/1977年)」

図書館に大感謝

最初は、登場人物が多すぎて、訳が分からなかったけれど、だんだん相関図が見えてきて、理解しやすくなった。

「芸術の無限感」も読んでみたい。

おわり

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