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情けあるなら、今宵(こよい)来い

今日のおすすめの一冊は、行徳哲男師の『随処に主となる』(致知出版社)です。その中から「感動できない人間は行動もできない」という題でブログを書きました。
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感動とは、感じて即、動くことです。「感奮興起(かんぷんこうき)」という言葉もあります。心を揺り動かされ、深く感じて、奮い立つことです。

行徳哲男師は「感動」についてこう書いています。(感奮語録)より
小林秀雄がこう言っています。「人間は感動したときだけだぜ、自分が自分に戻れるのは。これは天与の叡智だ」「ハッとしたとき、自分が自分に帰属している」感動できない人間、つまり感性が鈍くなった人間は自分が自分に帰れないわけですから、あとは彷徨(さまよ)うだけです。いまは人類全体がこの感性の鈍さによって彷徨っている状況でしょう。
アジアで初めてノーベル賞をもらったインドの哲人タゴールは国家崩壊の要因を挙げています。「哲学なき政治」「感性なき知性」「労働なき富」「人間性なき科学」「犠牲なき宗教」中でも「感性なき知性」こそが国家崩壊の最大要因です。だから感性の復権というのは、とりあえず自分が自分に復権する、つまり自分への回帰なんですね。自分が自分になれないで誰が自分になれるのか。
現代は理性や知性が感性を圧倒し、人間の目の輝きや生き生きと生きる力を奪ってしまっている。理性や知性は感性に従属してこそ値打ちがあるのに、それが逆転してしまっている。ゆえに人間に覇気がないのである。
感性とは集中・統合・統一の機能である。それゆえ集中できなくなると感性は鈍くなる。集中するとは思考停止することである。千日行にしろ、滝壺修行にしろ、火中歩行にしろ、少しでも考えてしまうと命にかかわる。思考停止の行である。

日ごろ感動体験が少ないと、心にだんだんと殻(から)がついてきます。元々感じやすかった感性に蓋(ふた)がされてしまうのです。その殻とは、世間のしがらみだったり、しきたりだったり、同調圧力だったり、頭ばかりを磨くことによる理性の肥大、という自分の感情を抑える鎧(よろい)です。ゆえに、喜怒哀楽の振幅が少なくなり、感情の起伏のないロボットのような人間になってしまいます。

あるいは逆に、抑えに抑えた鬱屈が、時に爆発して、キレるという状態になったりもします。しかし本当は、喜怒哀楽という感性が自然に発露されていれば、「怒」が問題になることはないのです。

感性は情です。情がない感性などありません。幻冬舎の見城徹氏のこんな言葉があります。(人は自分が期待するほど、自分を見ていてはくれないが、がっかりするほど見てはなくはない)より

『情けあるなら、今宵(こよい)来い』「百万語を費やしたところで、たった一つの行動には敵わない。その行動は、早ければ早いほどいい。一番いいのは、今すぐ行動に移すことだ」
「真があるなら、今月今宵。あけて正月、だれも来る」これは、高杉晋作の言葉として知られている。死を覚悟して決起する時、傍観を決め込む陣営を訪ねて、唄ったとされている。僕はそれを翻案して次のように言っている。
「情けあるなら今宵来い。明日の朝なら誰も来る」「情けあるなら、今宵駆け付けてくれ。同志として一緒に事を成そう。この辛い今こそ、君が必要なんだ。明日の朝だったら、何人か来るだろう。しかし、明日の朝では、もう遅いんだ。来てくれても嬉しくともなんともない。本当の同志として、俺は認めないよ」人は、口ではいくらでもいいことを言う。しかし、実際に行動で表す人は、ごくわずかだ。無理を伴うものであれば、なおさらである。

情けのある人はまた会いたくなります。魅力があります。「感動できない人間は行動もできない」。まさに「情けあるなら今宵来い」のこと。胸に沁みる言葉です。

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