
詩人・谷川俊太郎とBUMP OF CHICKEN・藤原基央のあくびとくしゃみ
2024年11月に亡くなった詩人・谷川俊太郎さんと、ミュージシャンとして活躍し続けているBUMP OF CHICKEN・藤原基央さんの世界観はよく似ている。藤原さんの中にも、谷川さんの精神が宿っているとも言える。しかし藤原さんは、過去のインタビューによるとあまり読書するタイプではないらしく、どちらかと言えば漫画を好んでいるようなので、谷川さんの詩から多大な影響を受けたわけではないのかもしれない。藤原さんは教科書などで谷川さんの詩に触れる機会はあったかもしれないが、意識して寄せたのではなく、たまたま考え方が似ていて、偶然似た世界観になったと考えた方が自然だ。
もう少し具体的にどの辺が似ているのかというと、二人は少年性と仙人性を併せ持っている。純粋そうに見えて、斜に構えた面もあり、ユーモアと皮肉めいている部分もある。シンプルな言葉のチョイスでも、哲学的だったり、意味が深くて、考えさせられる。二人が使うさりげない、何気ない、飾らない言葉たちは読み手の心にすっと入ってくる。言葉で包み込んでくれて、心を抱きしめてくれる。生きるうえで大事なことを教えてくれる。生き方や生き様を詩の中で見せてくれる。しなやかで柔軟な思考。光と影のある透明感。宇宙をみつめるまっすぐな眼差し。信じることだけでなく、疑うことも忘れない。命や人との向き合い方をそっと教えてくれる。二人は心と魂のレベルが似ていて、愛や優しさ、寂しさや悲しみ、佇まいや雰囲気、信念や人生観も似ている。そして二人とも白色がよく似合う。
これから、いくつかのテーマに沿って、個人的に似ていると思う両者の詩や言葉を比較していくことにする。
まずは谷川さんの有名な『朝のリレー』という詩に通じる藤原さんの詞。
『朝のリレー』
この地球では いつもどこかで朝がはじまっている
ぼくらは朝をリレーするのだ
それはあなたの送った朝を
誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ
『GO』
歩くのが下手って気付いた ぶつかってばかり傷だらけ
どこに行くべきかも曖昧 でこぼこ丸い地球の上
誰かが誰かを呼んだ声 知らない同士 人の群れ
でこぼこ丸い地球の上
「ぼく」は、会ったこともない、見知らぬ「誰か」と同じ時間を同じ地球で生きているという部分が共通している。

次に谷川さんと藤原さんが好むモチーフのひとつとして、地球も含めた「宇宙」が挙げられるだろう。
『二十億光年の孤独』
万有引力とは ひき合う孤独の力である
宇宙はひずんでいる それ故みんなはもとめ合う
二十億光年の孤独に 僕は思わずくしゃみをした
「宇宙」という途方もなく無限で掴みどころのない遠い存在のものについて語っているのかと思えば、最後は唐突に、ものすごく身近な「僕」の「くしゃみ」で終わらせているところが、ユーモアがあっておもしろい。
谷川さんは『祈り』という詩の中に、こんなことを書いている。
(宇宙の中の無限小から 宇宙の中の無限大への)
(ところはすべて地球上の一点だし みんなはすべて人間のひとり)
『メランコリーの川下り』
宇宙にはどんな善意もないが、悪意もまたありはしない。
ただ隅々までびっしりと細部の詰まった、巨大な空白があるばかり……
というように谷川さんには独特の宇宙観がみられる。

藤原さんも宇宙、命、時間など雄大な存在をみつめる歌の中で、突如、身近のささやかなもの(くしゃみ、あくびなど)や小さなもの(蟻、コイン、ガムなど)に目を向けることが多い。逆も然りで、自分事を語っているのかと思いきや、突然、果てしない宇宙空間に焦点を合わせたりもする。
『Sleep Walking Orchestra』
誰が消えても星は廻る 明日が今を過去にしていく
残酷なまでに完璧な世界 どこかでまた躓いた蟻
未だ響く心臓のドラム それしかないと導くよ
疑いながら その全てで 信じた足が運んでくれる
『Gravity』
わりと同時に くしゃみしちゃうのが
面白かったよ 泣きそうになったよ
今日が明日 昨日になって 誰かが忘れたって
今君がここにいる事を 僕は忘れないから
『クロノスタシス』
ビルボードの上 雲の隙間に 小さな点滅を見送った
ここにいると教えるみたいに 遠くなって消えていった
不意を突かれて思い出す 些細な偶然だけ鍵にして
どこか似たくしゃみ 聞いただとか
匂いがした その程度で
『リボン』
指差したUFO すれ違った野良猫
あくびのユニゾン あと何があった 教えて
『SOUVENIR』
恐らく気付いてしまったみたい あくびの色した毎日を
丸ごと映画の様に変える 種と仕掛けに出会えた事
『木漏れ日と一緒に』
風船揺れる横断歩道 あくびを乗せて待つ自転車
最初を知らない映画のように過ぎる 窓の向こう
『Flare』
巨大な星のどこかで いくつの傷を抱えても
どんな落とし物しても 全部 塗り潰す朝
また 世界のどこかで 青に変わった信号
拾われずに転がるコイン 瞬き オーケストラ
『話がしたいよ』
この瞬間にどんな顔をしていただろう
一体どんな言葉をいくつ見つけただろう
ああ 君がここにいたら 君がここにいたら 話がしたいよ
ボイジャーは太陽系外に飛び出した今も 秒速10何キロだっけ
ずっと旅を続けている
ガムを紙にぺってして バスが止まりドアが開く
『Merry Christmas』
待ちぼうけ 腕時計 赤いほっぺた
白い息で冷えた手を 暖めながら
ずっと周り続ける 気象衛星
誰かに優しく出来ないかな 全て受け止めて笑えないかな
など、これでも一例に過ぎないが、藤原さんの歌詞は視点が唐突に変わることが少なくないのに、そこに面白みがあり、スムーズに読めてしまうし、メガネで言えば遠近両用レンズのような魅力がある。それは谷川さんの『二十億光年の孤独』の表現方法に近い。
谷川さんの詩の中には、「くしゃみとあくび」が同時に登場するものもある。
『あいしてる』
あいしてるって どういうかんじ?
ならんですわって うっとりみつめ
あくびもくしゃみも すてきにみえて
ぺろっとなめたく なっちゃうかんじ

続いて、宇宙の中にいる自分、自分の中にある宇宙を表現することが多い点も、両者の共通点だ。
以下、谷川俊太郎さんの詩3編。
『やわらかいいのち』
あなたの中で星が爆発する あなたこそ
あなたの宇宙 あなたのふるさと
『闇は光の母』
人間は母の胎内の闇から生まれ
ふるさとの闇へと帰ってゆく
こころとからだにひそむ宇宙を
眼が休む夜に夢見る
『いざない』
母なる地球の愛の重力
草原に横たわる宇宙飛行士の
みひらかれた瞳にうつる空の深さ
以下、藤原基央さんの詞3編。
『窓の中から』
瞼の裏の 誰も知らない 銀河に浮かぶ
すごく小さな窓の中から 世界を見て生きてきた ここにいるよ
『Stage of the ground』
那由多に広がる宇宙 その中心は小さな君
『リボン』
ポケットに恐怖が宇宙と同じくらい
それぞれ持っている 宇宙と同じくらい
人間というちっぽけな存在の中にもある宇宙、宇宙という広大な存在の中でたしかに生きている人間。人間と宇宙は対極のものではなく、互いに包括し合っているものと捉えているように考えられる。

さらに、谷川さんと藤原さんがよく扱うモチーフとして、「生死や命」も挙げられる。生きることと死ぬことについても、真逆のことではなく、生きることの延長として死があり、死をネガティブなものには捉えていない。生まれた時点で命に死も含まれている。
以下、谷川俊太郎さんの詩6編。
『生きる』
生きているということ いま生きているということ
それはのどがかわくということ 木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみすること あなたと手をつなぐこと
『ネロ』
ネロ お前は死んだ
誰にも知れないようにひとりで遠くへ行って
お前の声 お前の感触 お前の気持ちまでもが
今はっきりと僕の前によみがえる
『さよならは仮のことば』
誰もいなくならないとぼくは思う
死んだ祖父はぼくの肩に生えたつばさ
時間を超えたどこかへぼくを連れて行く
枯れた花々が残した種子といっしょに
『生まれたよ ぼく』
生まれたよ ぼく やっとここにやってきた
まだ眼は開いてないけど まだ耳も聞こえないけど
ぼくは知ってる ここがどんなにすばらしいところか
だから邪魔しないでください ぼくが笑うのを ぼくが泣くのを
ぼくが誰かを好きになるのを ぼくが幸せになるのを
『空』
ぼくらの死のむこうにも
空はひろがっているのか
その下でワルツはひびいているのか
その下で詩人は空の青さを疑っているのか
『やわらかいいのち』
そしてもしもあなたが死ねるとしたら……
死ねるとしても––
そのことの中に私は
あなたのいのちの輝きを見るだろう
私たちの生きる証しを見るだろう
以下、藤原基央さんの詞6編。
『Sleep Walking Orchestra』
どうして体は生きたがるの 心に何を求めているの
性懲りも無く繋いだ世界 何度でも吐いた 命の証
『ガラスのブルース』
あぁ 僕はいつも 力強く 生きているよ
生まれてきた事に意味があるのさ 一秒も無駄にしちゃいけないよ
あぁ 僕はいつか 空にきらめく 星になる
あぁ その日まで 精一杯 唄を歌う
『supernova』
熱が出たりすると 気付くんだ 僕には体があるって事
鼻が詰まったりすると 解るんだ 今まで呼吸をしていた事
君の存在だって 何度も確かめはするけど
本当の大事さは 居なくなってから知るんだ
『R.I.P.』
そこに君が居なかった事 そこに僕が居なかった事
こんな当然を思うだけで 今がこれ程愛しいんだよ 怖いんだよ
『新世界』
もう一度眠ったら 起きられないかも
今が輝くのは きっと そういう仕掛け
もう一度起きたら 君がいないかも
声を聞かせてよ ベイビーアイラブユーだぜ
『HAPPY』
終わらせる勇気があるなら 続きを選ぶ恐怖にも勝てる
無くした後に残された 愛しい空っぽを抱きしめて

谷川さんは2022年に『ぼく』という子どもの自死を取り扱った絵本も残している。
その制作過程について『月刊MOE』(2022年7月号)でこのように語っている。
「自分の中で生きることは死ぬことの正反対とは思っていない。だから生きることは死ぬことと同じこと、というテキストになったのだと思いますね」
命に関する藤原さんの歌詞も生きることと死ぬことは分断させておらず、どちらかと言えば連続させたもののように読み取れる。死を美化させるわけではなく、必ずいつか訪れる逃れられない死を自然に受け入れるために、精一杯「イマ」という時間を「生きる」こと、体や命を大切にすることをさりげなく歌詞の中で教えてくれる。

谷川さんと藤原さんの詩に共通するモチーフとして、「孤独」も挙げられる。
谷川さんは孤独に関して、『月刊MOE』(2022年7月号)で以下のように述べている。
「自分が一人だということは、わりと子どもの頃から認識していたと思うんですよね。でもそれは、学校のクラスメイトの中とか、人間関係の中の一人ではなくて、『二十億光年の孤独』のように、宇宙の中の自分ということが先に立っていたんですね。そういう意味での一人というのはそんなに怖いことでも嫌なことでもなくて、一人だってところに自分のアイデンティティをつかんでいたんですよね」
『62』 谷川俊太郎
世界が私を愛してくれるので
(むごい仕方でまた時に やさしい仕方で)
私はいつまでも独りでいられる
一人でいることを否定的に捉えず、孤独にアイデンティティを見出しているところは、藤原さんも同じだ。
『バイバイサンキュー』
僕の場所は ここなんだ
遠くに行ったって 僕の場所は変わんない
これから先 ひとりきりでも たぶん 大丈夫
みんながここで 見守っている
ひとりぼっちは怖くない
『流れ星の正体』
足元をよく見て階段一つずつ どれくらいざわついていても ひとり
肩を擦るように避けながら 世界に何億人いようとも ひとり
『望遠のマーチ』
渇いた喉が震えて 聞こえない言葉を呟いている
皆集まって 全員ひとりぼっち
『アリア』
僕らはお揃いの服を着た 別々の呼吸 違う生き物
僕らの間にはさよならが 出会った時から育っていた
『firefly』
一人だけの痛みに耐えて 壊れてもちゃんと立って
諦めた事 黄金の覚悟
今もどこかを飛ぶ あの憧れと
同じ色に 傷は輝く
『孤独の合唱』
分けられない思いの ひとつひとつが響いた
誰にも解らない 涙だけのための メロディー
『真っ赤な空を見ただろうか』
溜め息の訳を聞いてみても 自分のじゃないから解らない
だからせめて知りたがる 解らないくせに聞きたがる
あいつの痛みはあいつのもの 分けて貰う手段が解らない
だけど 力になりたがるこいつの痛みも こいつのもの
『strawberry』
うまく喋れてはいないだろうけど
言葉には直らない事も解っている

「一人」を考えると、必然的に他者との関係性についても考えることになる。
谷川さんは以下のように述べている。
「他人というものと自分との関わりっていうのがテーマにできるんじゃないかと思ってます。誰かがそばにいるということの大切さが伝わればいいなと。…ただ黙ってそばにいる、というのが人間にとってどれだけ大事かということですよね。…今の人はすぐ言葉をかけようとするんです。言葉というものを信じすぎてる。意味ってものに頼りすぎている。意味のないものをちゃんと信じていないっていう気がするのね。意味よりも大事なことは存在することだと、僕は思っているんですけどね」
『月刊MOE』(2022年7月号)
「詩を書き始める前から、私は言葉というものに疑いを持っていました。自分が感じたことを言葉にするとどこか嘘っぽくなる、言葉では矛盾とされてしまうところ、言葉では捉えきれないものにこそ、実際の存在がひそんでいる」
(『さよならは仮のことば』まえがき)
谷川さんの言葉を信じすぎず、他者と関わる時は言葉に頼らず、黙ってそばにいることが大事という考えは、藤原さんと同じ過ぎて、驚いた。
『Small world』
まぶた閉じてから寝るまでの 分けられない一人だけの世界で
必ず向き合う寂しさを きっと君も持っている
君だけの思い出の中の 君の側にはどうやったって行けないのに
涙はそこからやってくる せめて今 側にいる
そうしたいと思うのは そうしてもらったから
何も喋らないのにさ まんまるの月が 君の目に映る
『strawberry』
分かり合いたいだとか 痛みを分かち合いたいだとか
大それた願い事が 叶ってほしいわけじゃない
ただ沈黙の間を吹き抜けた風に
また一緒に気付けたらなって
これほど近くにいても
その涙はあなただけのものだから
ああせめて離れたくない こぼれ落ちる前に
受け止めさせて
『記念撮影』
遠くに聞こえた 遠吠えとブレーキ 一本のコーラを挟んで座った
好きなだけ喋って 好きなだけ黙って 曖昧なメロディー 一緒になぞった
言葉に直せない全てを 紙飛行機みたいに
あの時二人で見つめた レンズの向こうの世界へ 投げたんだ
『GO』
どうしたくてこうしたのか 理由を探すくせがある
人に説明出来るような 言葉に直ってたまるかよ
『Aurora』
溜め息にもなれなかった 名前さえ持たない思いが
心の一番奥の方 爪を立てて 堪えていたんだ
触れて確かめられたら 形と音が分かるよ
伝えたい言葉はいつだって そうやって見つけてきた
『花の名』
簡単なことなのに どうして言えないんだろう
言えないことなのに どうして伝わるんだろう
一緒に見た空を忘れても 一緒にいた事は忘れない
『窓の中から』
この体だけの鼓動を この胸だけの感情を
音符のひとつ 言葉のひとつに変えて 繋げて見つける はじめの唄
秀逸な歌詞に定評がある藤原さんだが、谷川さんと同様に、常々言葉の力には限界があり、言葉ですべての感情を言い表すことはできないというようなことを述べている。本来、言葉に直せない心(言葉に直してはいけないかもしれない感情)をどうにか言葉やメロディーに変換して、音楽にして、聴き手に届けてくれている。
心は通じ合ってさえいれば、言葉なんて必要としなくても、ある程度分かり合えるかもしれないし、他者との関係は二人が言うように、黙ってそばにいても気まずくない、むしろ沈黙が心地良い方が理想的だろう。
谷川さんと藤原さんのように、孤独や一人でいることを否定的に捉えないということは、一見、他者に冷たい人間とも勘違いされてしまいがちだが、涙やつらさは分かち合えないと割り切り、綺麗事のようなその場しのぎのやさしい言葉をかけるのではなく、黙ってそばにいるという本物のやさしさを与えてくれる二人は、他者のこともちゃんと大事にしていることがうかがえる。
少し二人の詩から逸れてしまうが、藤原さんの言うところの「分かり合いたいだとか 痛みを分かち合いたいだとか大それた願い事」について考えた時、中島みゆきさんの曲を思い出した。
『空と君とのあいだに』
君の涙のときには 僕はポプラの枝になる
孤独な人につけこむようなことは言えなくて
君の心がわかると、たやすく誓える男に
なぜ女はついてゆくのだろう そして泣くのだろう
詩人でありながら言葉に頼り過ぎず、沈黙も好む谷川さんと藤原さんは、中島みゆきさんのこの曲で言うところの、黙って見守ってくれる「ポプラの枝」のような存在だと思った。

「昨日、今日、明日」、「過去、現在、未来」という「時間」の捉え方も、谷川さんと藤原さんは似ている。
谷川さんは『生きる』という絵本のあとがきでこのように時間について述べている。
<いま>の意識
「<いま>は物理的には一瞬でありながら、心理的には一瞬にとどまらないひろがりをもっています。とらえ難い時間ですが、それ故に<いま>にはどこかドラマチックな響きがありますね。始まりも終わりも分からない、悠久の時間をいわば輪切りにする、そんなイメージで生きている<いま>には、そこで何が起こっていても、誰が何をしていても、その短い時間の中に<永遠>をはらんでいる、と逆説的に思わせる何かがひそんでいるのではないでしょうか」
一瞬でしかないはずの「今」という時間の中には、たしかに「永遠」も含んでいると思う。時が経てば誰しも「今」を過去の産物にし、思い出として永遠に保存しようとするから。「今」は昨日から見れば未来で、明日から見れば過去。過去にも未来にもなる自在な時間だからこそ、刹那的で儚い。
『天体観測』
明日が僕らを呼んだって 返事もろくにしなかった
「イマ」という ほうき星 君と二人追いかけていた
『宇宙飛行士への手紙』
今もいつか過去になって 取り戻せなくなるから
それが未来の 今のうちに ちゃんと取り戻しておきたいから
『Gravity』
今日が明日 昨日になって 誰かが忘れたって
今君がここにいる事を 僕は忘れないから
『strawberry』
今日までの日々を ひとりにしないで
今日までの日々に 抱き締めてもらえる
『窓の中から』
昨日と明日に毎日挟まれて 次から次の今日
強制で自動更新される
『木漏れ日と一緒に』
あんまり笑えそうにないまま
昨日から今日を明日に繋ぐ
曖昧な自分の手を支えながら 夜を渡る
『記念撮影』
想像じゃない未来に立って 僕だけの昨日が積み重なっても
その昨日の下の 変わらない景色の中から ここまで繋がっている
このように「今」という瞬間を大事にしている藤原さんは、過去(昨日)と未来(明日)も、一連の時間の流れとして慈しみながら生きることを、歌詞の中にたくさん残してくれている。
『未来へ』 谷川俊太郎
道ばたのこのスミレが今日咲くまでに
どれだけの時が必要だったことだろう
この形この色この香りは計りしれぬ過去から来た
未だ来ないものを人は待ちながら創っていく
誰もきみに未来を贈ることはできない
何故ならきみが未来だから

そして谷川さんと藤原さんは、「自分」と向き合う「自分自身」を大切にしている点も同じだ。
『ネロ』 谷川俊太郎
すべての新しいことを知るために
そして
すべての僕の質問に自ら答えるために
『やわらかいいのち』 谷川俊太郎
どこへいこうとも
あなたはあなたに帰るしかない
以下、藤原基央さんの詞7編。
『ロストマン』
状況はどうだい 僕は僕に尋ねる
『魔法の料理~君から君へ~』
君の願いはちゃんと叶うよ 大人になった君が言う
言えないから連れてきた思いは 育てないままで 唄にする
『Smile』
心の場所を忘れた時は 鏡の中に探しにいくよ
ああ ああ 映った人に尋ねるよ
『なないろ』
手探りで今日を歩く今日の僕が あの日見た虹を探す今日の僕を
疑ってしまう時は 教えるよ あの時の心の色
『クロノスタシス』
僕は僕を どう救える
『Flare』
ショーウィンドウに映る よく知った顔を
一人にしないように 並んで歩く
『窓の中から』
カーテンの内側限定のため息 愛読書みたいに並んでしまった独り言
痛くない事にした傷に 時々手を当てながら 一人で歌うよ
他者ではなく、自分を救えるのは自分だけであり、自分自身を信じ続ける強い信念のようなものを感じる。良くも悪くも自分のことは生きている限り、手放せないし、誰も代わってはくれないから、せめて自分だけは自分の味方を続けなければならないという覚悟も感じる。

ここまで、宇宙、自分、孤独、生死、時間などの捉え方が両者は一致していることを述べてきたが、最後の共通点として、二人とも音楽を愛しているということも忘れずに書き留めておきたい。
谷川さんはクラシックなど音楽にも精通しており、合唱曲などの歌詞も残しているため、音楽好きと言える。ミュージシャンの藤原さんについては説明するまでもなく、音楽通だ。
『死と炎』 谷川俊太郎
かわりにしんでくれるひとがいないので
わたしはじぶんでしなねばならない
だれのほねでもない
わたしはわたしのほねになる
かなしみ
せめてすきなうただけは
きこえていてはくれぬだろううか
わたしのほねのみみに
生の延長線上にある死の世界に旅立ってしまった谷川さんは、今頃、自身の「ほねのみみ」で、愛した音楽に耳をすませているかもしれない。谷川さんの元へ、谷川さんによく似た心の持ち主のBUMP OF CHICKEN・藤原基央さんの音楽もいつか届いたら、うれしいなと思う。
谷川さんの元へ届かないとしても、BUMPの楽曲の中にも存在する詩人・谷川俊太郎さんの世界をリスナーの一人として、感じ続けたい。
『サザンクロス』 BUMP OF CHICKEN
さよならを言った場所には 君の声がずっと輝くんだ
君が君を見失っても 僕が見つけ出せるよ 君の声で
どんな今を生きていますか 僕の唄が今聴こえますか
くしゃみひとつで取り戻せるよ 離れても側にいる 気でいるよ
『さよならは仮のことば』 谷川俊太郎
さよならは仮のことば
思い出よりも記憶よりも深く
ぼくらをむすんでいるものがある
それを探さなくてもいい信じさえすれば
『リボン』 BUMP OF CHICKEN
僕らを結ぶリボンは 解けないわけじゃない 結んできたんだ
『蛇口』 谷川俊太郎
知らない人が花束をくれた
名札には花の名だけ
知らない人には不安が伴うが
花には安心してしまう
『花の名』 BUMP OF CHICKEN
僕がここに在る事は あなたの在った証拠で
僕がここに置く唄は あなたと置いた証拠で
『誰にもせかされずに』 谷川俊太郎
誰にもせかされずに私は死にたい
生きている人々のうちにひそやかに私は残りたい
目に見えぬものとして 手で触れることの出来ぬものとして
谷川さんが亡くなって悲しいし、ますます遠い存在になったはずなのに、なぜか生前より近い存在になった気もするから不思議だ。
会ったこともないし、身内でもないせいかもしれないけれど、詩や言葉のひとつひとつに谷川さんのタマシイが宿ったような気がして、身近に感じられるようになった。
谷川さんが残した数々の詩の中で谷川さんは生きている。谷川さんが疑いながらも信じ、紡ぎ続けた言葉たちが、谷川さんを生かしている。
誰しも生まれた証として死が約束されているのだから、死ぬまで地球というこの星で、谷川さんの言葉を拠り所にしながら、BUMPの唄を聴きながら、生きたいと思う。
『ray』 BUMP OF CHICKEN
お別れした事は 出会った事と繋がっている
あの透明な彗星は 透明だから無くならない
『あなたはそこに』 谷川俊太郎
ほんとうに出会った者に別れはこない
あなたはまだそこにいる
目をみはり私をみつめ くり返し私に語りかける
あなたとの思い出が私を生かす
早すぎたあなたの死すら私を生かす
初めてあなたを見た日からこんなに時が過ぎた今も
『クロノスタシス』 BUMP OF CHICKEN
君のいない 世界の中で
君といた昨日に応えたい

#詩人 #ポエム #作詞 #ミュージシャン #谷川俊太郎 #藤原基央 #バンプオブチキン #命 #宇宙 #生 #死 #ぼく #自分 #時間 #孤独 #ひとり #一人 #いのち #BUMP #地球 #くしゃみ #あくび #今 #音楽 #歌 #唄 #MOE #詩 #詞 #言葉