赤坂真理『安全に狂う方法』読み始めて思う事
赤坂真理『安全に狂う方法』
まだ一章しか読んでないので、感想と言うより、ここまで読んで、私の中に出て来た事を書き留めておきます。
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偏在するエネルギーだかなんだか、よくわからない計り知れないものから、この個体である私として生まれて来るには、受精卵の段階からか、生まれる瞬間からか、私という個体に物凄い力を使って凝縮する、執着する、という事が必要だったはず。
成長の過程で、原初の凝縮や執着は忘れ去られ、大概の人は当たり前のように、自分が自分である事を受け入れていくが、その中に何かしらの違和感や閉塞感を抱く人もいる。
どこから来て、どこへ行くのか、自分が何なのか、どこにも答えがないこの世界、この自分、
それでどうして平気で笑っていられるのか、私自身も厨二病の頃は、気付いたら自分は人間で、
ここにいて、これって何なんだ、狂って当たり前だろ、狂わない人が変、と心底思って暮らしていた。
ただとても臆病な性格なので、狂った行動をしたり、危ないものに依存したりも出来ず、不安神経症を上手に隠して、綱渡りのように過ごしていたが、周囲には、私のようにやり過ごせる度合いを越して、何ものかもわからないこの自分が、自分に執着する事でしか自分を存続させられないこのシステムに、息苦しさや違和感を感じて、所謂依存症という状態に救いを求める人もいる。
彼らは自分が自分の存在から離れられない事に息苦しくなって、自分の意識に裂け目を作る。
そうすると今度はその裂け目のせいで、現実では生き辛くなり、自分で作った裂け目を、自分で何とか埋めよう、または、なかった事にして見ないふりをしようとして、何らかのツールを持ち込み、依存状態となってまで、持ち堪えようと頑張る。根拠も理もないこの世界だが、ここしか知らないから、何とかここで持ち堪えるしかないと思い込む。
何かへの依存は頑張って生きようとしてる証。
ある意味では、狂っていない人の殆どは、この社会における自分という存在自体に、依存している。自分の存在を存続させるという、誰から与えられたのかわからないミッションを、深く考えもせずに受け入れ、自分の存在そのものに上手に執着、依存しているからこそ、安泰でいられるとも言える。
その執着、依存は、前者の所謂問題行動とされる依存と違い、自己と種の存続のための社会的に健全な依存であるが、私には思考放棄、無自覚の依存のように映り、全的な健やかさとは感じられない事が多い。むしろ、自ら裂け目を作り、身を削って裂け目を埋めるような事をしなければいられない困難を伴う依存症を抱える人の方が、余程健全な魂に見えるのは、私の中にまだ厨二病の自分がいるからなのか。
そうは言っても、現実に依存症で地獄を見ている人に、そんな話は通用しない。
存在の意味を問うよりも、依存を正当化するよりも、この症状を何とかしなきゃならない。
けど、依存症の人が、その行動を辞められたら、それで問題解決なのか。
生き延びるためには、必要な解決法だろうが、その後はどうなる?その人の裂け目はどうしてくれる?傷みを伴う裂け目こそ真の光が差す場所だったとしたら?
…の続きが書けない私には、今のところグルジェフやブッダの思想を持ち出すしかない。
所在なく、根拠なく、行くあても、還る場所もなく、自分が誰かもわからない、この自分に出来る事は、その自分に気付き、その自分から離れた視点で、ただ見続ける事だけ、的な答えで纏めて、マインドフルネス瞑想の勧めのような一文になりそうだが、この後を読み進めてまた書きたくなったら、続きを書きます。
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