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「結局、人それぞれ。十人十色。」は結論でなくて、前提。統計学的思考

2時間に及ぶ議論の末先方がこう言い放った。

「結局、人それぞれ。
わたしとあなた。
考え方が違っていいの。これでおしまい。」

いやぁ、時間を返せ。


確かに意固地になって譲らなかった面は議論に向かう姿勢として至らなかったかもしれない。それでも、お互いの主張を聞き、議論反論を続けてきたのは何も自分の自我を通すためではなく、背景にある共通項を探ったり、異なる意見の接点だったり、あるいは全然違う点への着地を試みたからであって、君だってそうだったはずだろう。

”みんな違って、みんないい”

って聞こえのいいこと言っとけば傷つかず、綺麗に収まるのかい?悪いが、我々は人間であり、小鳥でもなければ、すずでもない。”みんな違って、みんないい”がまかり通るなら、人間世界に議論なんてそもそもいらない。

ディベートで結局、A,Bが同数の票を稼いだのち、両方いいね(あるいはだめね)なら話は分かるが、今はそうじゃないでしょう。


「結局、人それぞれ。十人十色。」は結論でなくて、前提。
もっと言えば、十人十色は生き方であり、議論の舞台の役ではない。


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上記の議論はもう3年も前のこと。振り返れば、議論になってなかったような気もする。統計学を少しかじった今なら、あの頃の”議論”は良さそうなモデルの主張だけを行っており、自分のモデルの吟味も検証も行っていなかった青いものだと判断がつく。早い話、批判的思考を持ち合わせていなかった。否、批判的思考のことを”相手をとにかく批判する”なんて解釈してたんじゃないかとさえ感じる。恥ずかしい。


観察された点はそれぞれ別個(まったく同じ分布ではない)であるのは当たり前のことで、それはスタート地点。モデルを考え、最尤推定なり最小二乗なりベイズ統計なりでモデルを吟味し、AICなりC.V.を使ってその中でもっともよいと思われるモデルを選択する。

”真である神のモデル”に近づくために。(ところで、無理に引っ張り出すなら十人十色は一様分布と言い換えることができそう。となると、事前確率だからやっぱり前提としての仮定である。一様分布が結論なら、なんの情報も得られていない不毛なもとなる。)

議論というのは全てを網羅する結論を出すものではない。それはoverfittingであり、融通が利かない。この場合もあるよね、あの場合もあるよね、だときりがない。そうではなくて、「これが起こる確率はこのぐらいであるから、すなわちこれくらいのリスク(あるいはチャンス)が予想される。十分に大きなリスクであるから、対処を検討すべき。」と過去のデータをもとに、確率計算を伴っていなければ時間の無駄となる。

こういうことが、”データに基づくファクト”ないし”データ・ドリブン”と呼ばれるものである。優先的に守るべきものを守り、攻めるべきものを攻める。全部を守ろうとしたり、奪おうとすれば無理が通り、現場が死ぬよ。


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小さなテーブルに花束を/神長広樹
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