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卑弥呼の居処は伊勢遺跡? 建物構成から読み解く

伊勢遺跡の謎に迫る 第2弾は、
 「卑弥呼の居処は伊勢遺跡? 建物構成から読み解く」です。
   前編 ①は「必要な条件と候補となる遺跡」
   後編 ②は「どの遺跡がふさわしいか」

必要な条件と候補となる遺跡

魏志倭人伝の建物構成を深読みし、発掘の現状を照らし合わせた結果;
「伊勢遺跡の方形区画は『卑弥呼の居処』にピッタリ一致」です。 

まえがき

邪馬台国の所在地を、魏志倭人伝の行程記述から解読し、
「ここが邪馬台国」という自称邪馬台国が各地にいくつもあります。
魏志倭人伝には、邪馬台国の描写や卑弥呼の居処が具体的に書いて
あります。
はたして、「ここが邪馬台国」と主張する場所には、
 7万戸の人たちの住居やそれを支える田畑、人が住んでいた証となる
 墓域などあるのでしょうか? 

「卑弥呼の居処」に相応しい
 宮室や楼観の建物があるのでしょうか?

邪馬台国にあるもの 卑弥呼の居処にあるもの

さらに魏志倭人伝には、「卑弥呼の生活環境」の記述もあります。
今回は、「卑弥呼の居処」と「卑弥呼の生活環境」の2点から、
卑弥呼に相応しい場所はどこか検討しました。
7万戸の人たちの住居や食を支える田畑については、
別に機会に述べたいと思います。

魏志倭人伝の記述

まず、魏志倭人伝より卑弥呼の居処の様子、生活環境を読み解きます。

 魏志倭人伝では卑弥呼の居所について次のように書かれています。

【原文】
事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫婿、有男弟佐治國。
自為王以來、少有見者。以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食、傳辭出入。
居處宮室、樓觀・城柵嚴設、常有人持兵守衛。
【訓読】
鬼道を事とし、能(よ)く衆を惑はす。
年 已に長大なるも夫婿(ふせい)無く、
男弟有りて国を治むるを佐(たす)く。
王と為りてより以来、見ること有る者少し。
婢千人を以て自ら侍(はべ)らし、
唯(た)だ男子一人有りて飲食を給し、辞を伝へて出入りす。
居処の宮室は、楼観・城柵をば厳しく設け、常に人有り兵を持ちて守衛す。

出典:魏志倭人伝の謎を解く 渡邉義浩 中公新書

必要条件の洗い出し 卑弥呼の居処の3条件

文章から卑弥呼の居処・環境についての条件を抜き出すと;

第1条件 建物構成

 『居處宮室樓觀城柵嚴設:居處の宮室は、楼観・城柵をば厳く設け』
居処は宮室があり、楼観(見張り櫓[やぐら])があって、
城柵に囲まれている。
このような建物群がある弥生後期~古墳早期の遺跡を調べます。

第2条件 従者と待機建物

  『有男弟佐治國  :男弟有りて国を治むるを佐く
   以婢千人自侍  :婢千人を以て自ら侍らし
   常有人持兵守衛 :常に人有り兵を持ちて守衛す

 記述されている建物だけを見ていても不十分です。
魏志倭人伝には建物の存在が読み取れる個所があります。

弟が国政を補佐している(実務を取り仕切っている);
祭政一致の時代なので、高官と国政を協議する場、特別な祭祀の場があったに違いありません。
ここでは、このような祭祀建物を「主祭殿」としておきます。

多くの兵が守っており、多くの侍女が身の回りのお世話をしている
弟や彼らの居場所あるいは待機場所となる建物も必要となります。
鬼道を良くする卑弥呼が四季折々に行う定例的な祭祀の祭殿が傍にあったに違いありません。

第3条件 環境:聖域での独居

  『自為王以來少有見者:王となりてより以来、見(けん)有る者少し
   唯有男子一人給飲食傳辭出入居處:唯だ、男子一人有りて飲食を
   給し、辞を伝へて出入りす

卑弥呼は一人で住んでおり、特定の男子一人が食事を給仕し、情報伝達のために出入りしている。
身の回りを世話する侍女も時々出入りするのであろうが、外に顔を見せることがほとんどなく、顔を見ることができる者は少ない、となっています。
特定の男子一人(弟?)が給仕、情報伝達のため身近に控えています。
いつでもコンタクトが取れるよう近くに居室があったに違いありません。
そのような神聖性を保ち、静寂で外部とは距離のある環境が必要となり
ます。

候補となる遺跡

候補となりそうな遺跡の洗い出し

第1条件にある建物があるような場所を、守山弥生遺跡研究会の
「弥生近江の大型建物」で調べてみます

九州の吉野ケ里遺跡と伊勢遺跡がこの3条件に当てはまります。
奈良の纏向遺跡には立派な建物群がありますが、祭域には残念ながら
建物の数が少なく、これまでに発掘された範囲に楼観がありません。
福岡県の雀居(ささい)遺跡には、大きな掘立柱建物が複数棟ありますが、祭域の雰囲気はなく、楼観と思しきものはなく、省きます。
他の自称邪馬台国では、このような建物は見つかっていないと思います(現時点)。
これから吉野ケ里遺跡、伊勢遺跡、纏向遺跡の3遺跡の建物と環境を
調べてみます。

伊勢遺跡の建物構成

方形区画で見つかっている建物は図の通りです(周囲の祭殿は省く)。
古墳時代の川により破壊されていますが、主殿~楼観の間に対称的に
建物が並ぶちょうどよい空間があり、西側と同様の建物が並んでいたと
推定されます。

伊勢遺跡 方形区画の建物構成

建物の呼称は、守山市教育委員会によります。

下をクリックすると
方形区画の復元想像図(守山弥生遺跡研究会)
にリンクして建物の3D画像が見られます。

吉野ケ里遺跡の建物構成(北内郭)

吉野ケ里遺跡は、弥生時代前期から後期まで、時代と共に場所を
移しながら栄えた遺跡です。
後期には「北内郭」と称される区域に、環濠に囲われた大型建物群が
現れます。この建物群が魏志倭人伝の「卑弥呼の居処」と似ていると
話題になりました。
北内郭も弥生後期末には衰退していきます。

吉野ケ里遺跡 北内郭の建物構成

建物の呼称は、「吉野ケ里歴史公園(Web)」によります。

下をクリックすると
北内郭の建物構成復元想像図(吉野ケ里歴史公園)
にリンクして建物の3D画像が見られます。

纏向遺跡の建物構成

弥生時代に続く古墳時代早期になって、突如、纏向遺跡が出現します。
大型建物群が見つかったことから、卑弥呼の居処の候補となりました。

纏向遺跡の建物構成

東西線に中心軸を合わせた建物群が並んでいます。
建物の用途は明示されていませんが、建物Dを「首長居館」とする資料が
あります。
建物Cは近接棟持柱建物なので「祭殿」と思われますが、纏向デジタル
ミュージアムでは宝物館あるいは武器庫と推測しています。
建物Bは開放型高床建物で、衛兵詰所とのことです。
この図の縮尺率は、伊勢遺跡、吉野ケ里遺跡よりも小さいので、
建物は見かけ上、倍くらい大きく表示されています。

下をクリックすると
纏向遺跡の建物復元想像図(纏向デジタルミュージアム)
にリンクして建物の3D画像が見られます。

悩ましい暦年対応

伊勢遺跡にしても吉野ケ里遺跡にしても、関係者は「卑弥呼の居処」とは
言っていません。
両遺跡ともに、卑弥呼誕生前から存在しています。
また、広く認知されている弥生後期の暦年から考えると、
両遺跡は卑弥呼の女王即位の時期に衰退していきます。
これら2つの遺跡の「王の居処」は、卑弥呼の前に居た王の居処と
祀りごとの場であったことになります。
卑弥呼の前にいた「男王」の居処かも知れないし、
あるいは倭国王帥升の居処の可能性もあります。

 揺れ動く時代呼称と暦年対応

ただ、時代呼称と暦年対応は揺れ動いており、特に2020年に発表されたIntCal20(炭素14年代法の校正曲線)で、弥生後期末の暦年が後ろに
ズレており、卑弥呼が吉野ケ里遺跡や伊勢遺跡に居てもおかしくない
状況になっています。

下記、長髄彦ファン|note さんの記事をご覧ください。

卑弥呼が幼少で女王として共立された場合、現代の皇居と同じように、
卑弥呼が前王の居処を引き継ぐのは自然なことでしょう。

今回は、卑弥呼の居処に必要な条件と、それを満たせそうな遺跡を
リストアップしました。
次回では、上記悩ましい懸案事項を横において、魏志倭人伝に記述されている「卑弥呼の居処」に相応しい遺跡はどこか?  を検討します。

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