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「表現」への違和感の先にある、没頭から生まれた写真

創作活動で生まれた作品には、「表現」という言葉がついて回る。作者の想いや熱量、信念は作品という「表現」となって現れていると。

だが、僕はこの「表現」に対して苦手意識を持っていた。コンプレックスと言ってもいい。「そんな高尚なことはできてないし…」と卑屈になってしまう自分がいる。

改めて「表現」という言葉を辞書で引いてみると、「心理的、感情的、精神的などの内面的なものを、外面的、感性的形象として客観化すること。また、その客観的形象としての、表情・身振り・言語・記号・造形物など。(デジタル大辞泉)」と書いてある。

つまり、写真ならば自分の内面である想いや態度を写真というもので客観視することである。この意味合いならば、少し納得できた。確かに撮った写真を振り返ってみると、自分の想いや態度が示されていることもある。

はたして表現するために写真を撮っているのか?

では「僕にとって写真は自己表現の手段です」と断言できるかと言えば、そうではない。

先ほども言ったように、写真を通して自分の態度を示したことはある。たとえば、海外に滞在していた頃、言語に自信がないから写真やカメラを使ってコミュニケーションを取った。今でも初対面の人と会う時はカメラを持っていくし、過去の写真を話の流れで見せて自分を表す手段とする場合もある。

それでも「表現するために」という部分の違和感は残る。表現ありきで写真を撮ってないからだ。上手く言えなくてもどかしいのだが、もっと衝動というか、没頭した結果というか、「気付かぬうちに」という言い方が本当のところである。

だからこそ、「表現している」と自覚できる人を凄いと思うと同時に、「僕にはできない」と思い、卑屈になってしまうのではないかと思う。

「写真は所詮コピーである」期

表現に対するコンプレックスをこじらせた結果、写真という行為は現実をカメラという機材を使って写すだけで、ただのコピーであるという結論に至った。1から10を積み上げることはできても、0から1は決して作れないと。

それに対して、「絵画や工芸、デザインなどのアートは0から1を創造していて、なんて凄い行為なんだ」と崇めに崇めた。写真への卑下は止まらない。さらに言えば、写真がアートに肩を並べるのが申し訳ないとか勝手に思っていた(何様)。

没頭したからこそ訪れる混沌

こじらせ期からしばらくは「写真はコピー」という考えが抜けず、思考の迷子だった。写真はずっと好きなものだ。初めて没頭したものであり、そこから好きなことが増えた経緯がある。

そこで「好きなものってなんで好きって自覚したんだろう?」と考えてみた。やってみてすぐに好きだと気付くこともあるが、はっきりと自覚するのは案外時間が経ってからだったりする。

気付くのが遅れるのは、やっているときは「没頭する」という状態に入って、時間を忘れているから好きとか嫌いとかすら思わないのではないかと。そして、没頭することは気持ちが良い。その爽快さを後から思い出して「好きだ」と自覚する。

たとえば、毎回必ず行う写真のレタッチだ。レタッチをすることで、撮った写真をじっくりと観察する時間が確保される。写真を見て、あーでもないこーでもないとか、「なんて素晴らしいんだ」とか、「こんなん撮ったの誰??」とか、つべこべ考えながらレタッチしていく。

レタッチは枚数が多くなるほど時間は掛かるものとはいえ、作業していると時間はすぐに溶けていく。それは楽しいとか大変だとか思うこともせず(いや、大変と思うこともある)、ただ目の前のことに取り組んでいる状態。

撮影だって、目の前の状況から色々と判断してシャッターを切る。そして想う。そのときのテンションや関わった人、運によって結果は変わる。撮る前、撮った時、レタッチと様々な時間軸と状況が混沌としている。

この混沌の結果が僕にとって1枚の写真となる。あれ、なんだか写真は現実のコピーではない気がする。

写真も創造している

これだけの混沌を抱えて没頭した先にある「写真」は、もう現実のコピーではない。現実ではない「存在しないなにか」を創造している。むしろ現実はどうやっても写せない。

写真だって、しっかり0から1を作っているのだ。自分は創作活動をしていた。存在していなかったものを作り出していると改めて捉えてみると、写真がさらに面白くなった。

写真や表現の捉え方は答えがない問いではあるが、自分なりに納得して腑に落ちたことで、表現コンプレックスは減ってきた。

没頭の爽快感

しかし、「表現」に対して完全に納得したわけではない。だから視点をちょっと変えることにした。

表現しているのではなく、「ただ没頭している結果が作品」という捉え方だ。いや、作品というのもなんか高尚すぎるって思ってしまうのだが、とりあえずはいい。

表現の意味と照らし合わせすると、結局同じようなことなのだが、「没頭してした結果、自分の感情や態度が作品に現れてしまった」という言い方がしたい。

どうしても表現には論理性を感じてしまう。圧倒的に感覚人間なので、写真に関してはあんまりそういう要素を入れたくない。没頭ファースト。

没頭にはなんとも言えない爽快感がある(アホっぽくて申し訳ない)。振り返ったときに、「あっ今日めっちゃ楽しかった」みたいな感覚。それは写真が楽しかったとかではなく(楽しくないときでも撮ったりするから)、没頭した状態に対して純粋に思う楽しさだ。

その先に写真の作品があってほしい。

表現を望む日は来るのか

今のところ、自分の中に「何かを表現してやる」という強い想いはない。「よくわからないけど作ってる」という感じ。良し悪しではなく、ただそういう状態だ。

写真への捉え方は変わってきたが、やはり人と比べてしまいたくなることも多い。特にSNSでヤバい作品をいっぱい見られるようになったので、あのときの卑屈な「写真はコピー人間」が顔を出す時がある。

ただ、状態は変化していくもので、いつか自分にも表現への強い気持ちが芽生えるかもしれない。比べる暇がないほど没頭していくかもしれない。その時はその声を素直に聞いてみようと思う。

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