カウンセリングを公の場にさらすことの意義(20190802追記あり)

昨日、フォロワーの一人であるきりんさんが「対談師」という職業が世の中にあってもよいのではないかというnoteを書かれていました。

https://note.mu/kirin800/n/naf186bf75528?scrollpos=comment

対談や雑談といったものをエンタテインメントとして提供するというのはとても面白いという試みだと思いますし、小規模なイベントスペースも増えてきて、配信サービスも多様になってきたので、大成功するかはともかくビジネスとしては成立する土壌もあります。
もし色々な問題が解決しできるのであれば自分もやってみたい、という想いをこめて、記事に肯定のコメントを書かせていただきましたが、いくらかコメントをやりとりしていて、きりんさんが「自分のカウンセリングを見せものに」という発想で記事を書かれていたことを知って、それは少し違うのでは、と感じました。

コメントだけで展開するには少し分量が欲しかったこと、また今日になって改めて色々考えたこともあったので、きりんさんには大変申し訳無いのですが、私なりに「少し違うのでは」と感じた理由をここに述べたいと思います。

なお、私自身は臨床心理士などの資格があるわけでも、心理関係の専門的知識を学んだことがあるわけでもありません。あくまで一患者として数年間カウンセリングや精神科の医師の方々とやり取りした経験を元に述べたものでしかないことを、予めお断りさせていただきます。

公開カウンセリングを商売にはできない

端的にいえば、結論はこうなりました。

カウンセリングは、それまでの自分の人生すべてを明らかにし、振り返ることで、今の自分が抱えている問題に向き合い、今後どうすればより良い形に向かえるのかを、カウンセラーとの会話をはじめとした様々なコミュニケーションの中で見つけ出していく医療行為だというのが私の一患者としての認識です。

人は一人ひとり異なる人生を歩んでいるわけで、当然のことながらカウンセリングの過程も一人ひとり違った形を取るでしょうし、その内容に似たものがあったとしても、真に交わることはないでしょう。

そうした世の中にたった一つしかない自身のカウンセリングの過程を世間につまびらかにするというのは、それまでの自身の人生すべてを世の中に曝してしまうということ、端的にいえば自分語りをするということにほかなりません。

まずここまで考えた段階で、少なくとも私にとっては、自身のカウンセリングを公開する行為を生業にすることは難しいことだと強く感じました。

少なくとも現状、私の人生や自分語りがそこまで注目を集めるものとは到底思えなかったですし、自分語りをするにしても、カウンセラーという外部の力をお借りするより、そうした自分の蓄積を、何か小説だったりエッセイだったり音楽だったり絵だったり、そうしたクリエイティブな作品に昇華させてみせた方が健全なように思えたのです。

健全な「自分語り」とはなんだろうか

ここでクリエイティブな作品群とか、こうしたブログだったり人との対談、雑談の中で自分をさらけ出すこと、自分を表現することは、少なくとも私の認識では自分語りとして問題ないこと、むしろ健全ですらあると思いました。

同じ自分語りでも、表現としての自分語りが良くてカウンセリングでは問題があるとはどういうことなのか。

上述したとおり、カウンセリングにおける自分語りは、現状の問題を解決する、自身の治療を目的としたものですから、当然情報は出来得る限り出していったほうがよいです。最終的に語られる内容は、それまでの自分の人生の全てとなりますし。そうならないとカウンセリングの意味がない。

考えてみれば、うん十年と行きてきた一人の人間の歩みの重さはそれなりにあるわけなので、公に晒された場合、1回だけならそれなりには耳目を集めエンタテインメントとして成立する可能性はあると思われます。一方出せる内容をすべて出し切った状態でもありますから、何度も同じことをやるのは苦しい。

一方、表現だったり作品だったりで「自分語り」をやる人たちは全部語るわけじゃなくて一部分だったりでも良いわけです。

創作者、表現者の方々は、小説や音楽、会話力等々、長年研鑽を積んできた技術の上に自分自身を切り売りして作品を成し、それを商売としているわけです。よく小説家や映画監督の方などのインタビューで、大作を完成させた後に、いわゆる燃え尽き症候群になって次回作が書けなくなったという話が出たりします。それまでの自分の蓄積を全て出してしまったわけです。同様に、完全にアウトプット仕切らないように、常に世の中にアンテナを張り巡らせ、インプットし続けているという話もあります。

公開カウンセリングを商売として考えた場合、カウンセリングの性質上、一回でそれまでの人生の蓄積全てを出し切ってしまうので、一発屋として終わるならまだしも継続的な事業としては現実的とは言えないのではないでしょうか。

カウンセリングは「医療行為」である

ここまで書いておいてなんですが、そもそもカウンセリングというのは(場合によっては)医療保険も適用される医療行為なわけです。カウンセラーという第三者に自分を曝け出すという行為が目指すのは、最終的に自身が抱えている問題の解決です。多くの人々にとって、自身の病気の治療が最終目標になります。

外に出すか出さないか、それを商売にするかというのはありますが、まず病気の治療を第一に考えた方がよいのではないでしょうか。

カウンセリング過程を世間に晒す行為が直接自分の病気の治療に繋がるかというと、可能性はかなり低いように思います。特にネットなどで配信すれば当然ポジティブなことだけではなくネガティブなことも、そして有る事無い事色々書かれてしまうでしょうし、それが元で病気がさらに悪化する可能性もあります。将棋の先崎学九段が書かれた『うつ病九段 プロ棋士が将棋を失くした一年間』のように、病状が一番つらいときの記録を回復後にまとめて発表するという形がベターではないでしょうか。

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改めて結論

私は以下の3点から、自分のカウンセリングを一般公開して商売にすることは辞めたほうが良いと考えます。

1.カウンセリングは自分語りに過ぎず、自分に興味を持つ人はそう多くい  るものではない。
2.他の表現方法を通して自分語りをした方が、自分をうまく切り売りでき  るので継続性がある。
3.カウンセリングを公開することで、当初目的としていた自分の病気の治  療に悪影響が出る。

最後に

自分語りという行為を仕事にできるかはともかく、自分語りそのものを好きかどうかでいうなら、私は好きです。大好きと言ってもいいくらいだと思います。

自分語りをしたいというのは「自分はこれまで価値ある人生を送ってきたに違いない」という思いに対する承認欲求から来ているのだと考えています。ケガや病気で日常生活だったり仕事ができないという状況だと、どうしても現状や未来に対して悲観的な思いを抱くことしかできないので、せめて過去くらいは「それなりに意味のあるものだった」と思うことで現状の自分を肯定しようとする心の働き、一種の自己防衛機能があるのではないか、そういう風にとらえています。

私自身、現状4度目の休職中、貯金もほとんど作れていないという、冴えないどころか割と危機的な状況です。現状も今後もあまり良い兆しがないとなれば、せめて過去の人生位は人が聞いてもそれなりに面白い、価値ある人生だったと思い込みたいという欲求が、どうしても頭をもたげてしまうんですね。

そういう中で第三者を通さず自身のみで自分語りをすると、どうしても主観的に振り返りがちで、客観的な視点が得られづらいというのがあります。そのためにカウンセラーという第三者に話を聞いてもらうわけですが、カウンセリングを公開することで「カウンセラーの技術」も公開しちゃう形になるんですよね。カウンセラーさんに企業秘密を公開してもらうようなものになっちゃうので、肯定してくれるカウンセラーの方を探すのがまず大変なのかもしれないです。


以上です。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
昨日は途中までの内容となってしまい申し訳ありません。
次回も読んでいただけると嬉しいです。


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hiro
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