【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第四章「白村江は朱に染まる」 前編 14
近畿各地から集った兵士は、西海渡航まで難波津で待機していた。
朴市秦田来津率いる朴市の兵士も、飛鳥に入った後、大王の難波行幸に併せて難波に入った。
田舎から出て来た兵士が行くところとなれば、一つしかない。
特に難波津は、若い兵士たちが羽目を外すには持ってこいの場所であった。
田来津も、これだけ周囲に誘惑があれば若い者も羽目を外したくなると思うのだが、それでも重要な軍事行動の前である、今後の作戦に支障をきたすほど遊ばれても困る訳で、それで彼は、1日1回、盛り場を巡回するのであった。
「いや、やはり難波津は活気がありますな」
一方の将軍が町を巡回すれば、もう一方の将軍も町を巡回しない訳にはいかない。
狭井檳榔も、田来津とともに難波津周辺を巡回していた。
「そうですね。しかし、若者には面白い場所ですが、我々には少々疲れる場所ですね」
「そうですか? 私は、こういった場所は好きですが。まあ、秦殿は真面目ですからね」
檳榔は、面白そうに周囲を見回している。
「そういう訳ではありませんが」
「いやいや、秦殿は、安孫子殿一筋ですからな。あっ、あいつ、昼間からあんなにべろべろになりやがって! こら、お前、そんな所で寝転がるんじゃない!」
檳榔は、酔っ払って道端で寝転がる若い兵士を怒鳴りつけた。
「おい、あいつを連れて帰れ!」
檳榔に指示された従者は、酔っ払いの介抱に掛かった。
「我が軍の兵でして。いや、全くお恥ずかしいところをお見せしました」
「いえ、何処の兵士も同じです。おや、あれは……?」
田来津造は、前方より歩いて来る貴人に目を奪われた。
「こんな所に御出座しとは、誰でしょうか?」
「はあ? ああ、あれは……」
檳榔が彼に気づいた時は、すでに二人の目の前にいた。
「これは、これは、狭井殿、こんな所でお会いするとは。折角、難波津に来たので、盛り場とはどんな所だろうと興味がありましてね。狭井殿も、こちらの方ですか?」
その男は、檳榔に酒を飲む仕草をして見せた。
「いえ、私たちは巡回中でして」
「ほう、巡回中とは仕事熱心だ」
「いえ……、あっ、ご紹介いたします。こちら、私と同様、豊璋様を護衛いたします、秦田来津造です。秦殿、こちらが百済の余豊璋王子です」
田来津は慌てて頭を下げた。
「おお、あなたが秦殿ですか、今回は期待しておりますよ」
豊璋王子は、その長い鬚を揺らし、微笑んだ。
「では、私はこれで」
彼は従者を引き連れて、雑踏の中に消えていった。
「あれが余豊璋様ですか。温和そうな方ですね」
「うむ、そこはいいのだがな……」
「何か問題でも?」
「なに、才ある文人は、有能な軍人にはなれないと言うことですよ」
「と……、言いますと?」
「詩や舞いの才能はおありのようだが、指導者としては少々物足りないところがあるな。特に、乱世を渡り切るだけの能力があるかどうか。いま、百済が必要としている王は、兵を取り纏め、唐・新羅を打ち破る強力な指導力を持った軍人だ。だが、豊璋様が目指されている王とは、聖人そのものだからな。平和な世の中なら良いかも知れんが、戦時下においては、何とも心許ない」
「まあ、確かに」
「これが、向うに渡って問題にならねば良いがと思っているのですよ」
檳榔と田来津は、豊璋王子が消えていった雑踏を見つめた。
「まあ、我々が、そんなことを気にしても始まらんか。どうです、我々もちょっと?」
檳榔は、右手で酒盃を作って見せた。
「いや、飲むなら戻ってからに致しましょう」
「そうですか……。相変わらず、真面目ですな。まあいい、急ぎ帰りましょうや」
檳榔は、田来津の背中を推した。