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教師や親が子どもに怒りを感じる時と、その対応方法

森信三『修身教授録』致知出版社 第2部 第18講 忍耐

小学校の教師を16年間経験した。
その中で幾度も子供たちを叱ったことも、怒ったこともあった。

では、教師であった私はどのような時に子どもに怒りを感じたか書いてみようと思う。
大きく2種類に分けられると考えている。

まず、私の期待した通りにならない時であった。例えば、林間学校などの集合時間を子どもたちが守れないことがあった。あれは今思っても結構怒っていたなぁ反省する・・・また、運動会練習で子どもたちの行動がもたついて遅いような時があった。大きな声で怒鳴ったこともあったなぁと、これまた反省する・・・
教師は、自分が期待したことをクリアしてくれない時に怒ると私はまとめてみた。いかがだろうか?
怒りを覚えた状況が生じた原因は、教えていない・指導していないから、ということも往々にしてある。教えてもいないのに。これくらいできてほしい、こうあってほしい、という教師の期待が叶わなかった時、怒ってはいないだろうか?
これは、親であっても同じだと思う。教師はあまり勉強ができないとしても怒ることはない。しかし、親は子どもに学習について期待するところが多いため、できないところがあった時、点数が低い時、怒ることもあるのではないだろうか?期待するからこその怒りなのだと思うのである。

次に、(私が)恥ずかしい、と感じる時であった。例えば、忘れもしない、私が初任で5年生を担任し、卒業式練習に参加したの時の歌声が小さく、怒りを覚えた。子ども達への怒りというのはこれが初めてだったと記憶している。基本的に責任は私にあると常々考えてきたので、怒ることはなかった。しかしこれは、周りに申し訳ないという気持ちもあったが、うちだけ何でこんなに小さいの!?という恥ずかしさ、があったのだと思う。もはや教師の「見栄」であろう。教師は他のクラスと比べることが多く、見栄をはることも多い。子どもを怒った後、これはものすごーく後悔したことを今でもはっきり覚えている。教えていないのに、やる気を持たせるような話もしていないのに、怒っているなんて、ものすごく情けない・・・という反省をして放課後、泣いていた子供の顔を思い出し、申し訳なくなって私も泣いていた。このような、自分が恥ずかしいと思うような時、怒りを感じることはあるだろう。
これは親も同じではないだろうか?親として恥ずかしい、という時にしかることはないだろうか。少なくとも私もその一人だ。息子が、もしスーパーの買い物で駄々をこねて寝転がっていたら恥ずかしくなって怒りを覚えるだろう。そして手を無理やり引っ張って叱るのかもしれない。そして、子育ての仕方についてあれこれ悩むことだろう。

さて、ここで2つの怒りに共通するのは、その現象の原因が自分に向かず、相手に向かってしまっているということだ。
・「自分の」期待通りにならなかった
・「自分が」恥ずかしい思いをした
あくまで自分が困った状況を子どものせいにして、自分の責任であることを忘れている状態であると考えられる。

怒りを覚えた時、その感情のまま怒ると、ほとんどの場合、反省し、自己嫌悪に陥る。あぁ〜何であんな叱り方したんだ〜!、もっと教えておくべきだったのに〜!と。
感情の赴くままに叱っても決していい結果に結びつかないことも多い。
怒鳴っても、その場はやるかもしれないが、教師がいないとやらない子どもに育つ。
激しく怒られれば、次の日はやるかもしれないが、すぐに忘れてやらない子どもに育つ。本音を話さない子どもに育つかもしれない。
怒りに任せて伝えたことは往々にして子どもを本当の意味で成長させることはほとんどないのではないだろうか、と思うのである。
そのように考えると、怒りの感情のコントロールする力は子どもを育てる上では必要な力であるといえよう。

そもそも怒りの情というものは、諸君も知ってのように爆発性のものであり、したがってまたこれを激情とも呼ぶのです。そこで怒りを抑えるには、この激情の爆発を抑えるだけの、強力な克己心が必要なわけです。
・・・中略・・・
同時にまたそれだけに、この怒りの情に克つ人は、心の広やかな人と言っても良いでしょう。すなわち怒りの情をわが心のうちに溶かし込むだけの、深さと広さがなければできることではないからです。
・・・中略・・・
そこでまた、忍耐の実行上の工夫としては、つねに「ここだ!ここだ!」という意識がなければできることではないのです。つまり怒りの情を爆発させて、例えば姉弟などに対して怒りの言葉を、遠慮会釈もなく言い散らしておいて、後になってから「アッ、しまった」というのでは遠く遅いのです。最初の一語が、すっかり飛び出したとその刹那に「そうそう!ここだ!ここだ!」という、反省の閃きが現れるようでなければダメなんです。

P393-395

教師の後半になってから、森先生がこのようにおっしゃるように、ウッと堪えることができることが増えてきた。
あ、これは見栄からきてるな。情けない。指導もしていないくせに。じゃあ、この後どうやって指導しようかな?と思いとどまって関わることができるようになってきた。
あ、これは期待が高すぎたな。そもそも指導していないじゃん。じゃあここから指導を始めたらどこまでいけるかな?来年はこれをもっと早い段階で指導しないといけないな。というように考えられるようになってきた。

しかし、そんなことをしなくとも、先に述べたような、「怒りの情をわが心のうちに溶かし込むだけの、深さと広さ」をもった人間になることや、期待や見栄を捨てて、子どもの現状に向き合うというマインドセットを維持することがそもそも大事な心の修養だと思うのである。
私もそれを意識して、教師の後半にはほとんど怒りが湧くようなことはなくなっていった。

教師や親として子どもに関わる時には、深さと広さがあるよう心を豊かにし、期待や見栄を捨てて現状の今の子どもに全力で愛を持って接していくことこそ要諦だと思う。
しかし人間だからこそ怒りが湧く時だってある。そんな時は、一言目で思いとどまれる心をコントロールする力。克己心なのだと思う。

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