指揮官ENTJが意識的に怒りを表すとき
怒りの意味と語源
「怒り」とは、二次的感情、意志、行動である。
語源の中で、ゴート語の「狭い」というのが興味深い。確かに、怒りは窮屈で押し込められているものが解き放たれている感じがする。
重要なのは怒りとは「様々な要因・理由で起きるものである」という点。つまり怒りの前には原因がある。それが解消されない限り、怒りは何度でも繰り返し引き起こされる。こう考えると、問題の原因が解消されないことに怒るのかもしれない。
私は問題がズルズルと解決されない状態が続くことが不快だ。怒りというものは大抵、その対象と不釣り合いな状態でぐらついているために引き起こされるのではないかと思う。
怒っている側とそのターゲットになっている相手側が同じ目線、立場にないことが多い。つまり人が怒っている時、その両者の関係は対等ではない。どちらが上か下かと言えば、正直に言って怒ってる方が下だと思う。
こう考えると本当に生意気で策略家だなと自分でも思う。怒らないということは、たったそれだけで人の上に立てる可能性が高い。怒ってる奴には怒らせておけばいい。その内疲れて鎮火する。相手にされていないと分からせることが大切だ。
前回、自分の中での怒りの沸点が分からないという話をした。あれから、自分は何になら本気で怒りをあらわにできるかを考えた。これはENTJだから、というわけではない可能性が高いが、私は基本的に怒らない。なぜなら面倒だし疲れるし、そんなことに気を取られるくらいならもっと有意義なことをやろうと自分の感情や気持ちを意図的に操作してしまうからだ。
こうやって語源を調べたり、なぜそうなるかを言語化する癖があるためか、感じてはいたとしても自分では気がつけず、その結果怒りが他人にわかりやすい方法で表面化していないだけのような気がしている。
はぁ。もう怒りについて考えるのも嫌なので、今回はかなり簡潔にまとめよう。以下の通りである。
ENTJの怒り・憤りの理由とそれに対する私の態度
ENTJの怒りの原因
不正、不誠実、理不尽、身勝手で相手を考えない行動、行動しないで文句だけ言う、無理解だと思われる、怒っていると思われること …
これらに対する私(ENTJ)の態度
基本的な態度としては、人間関係ではどんな時も鏡となることを心がけている。鏡になるのも面倒な時は一切相手にしない。あまり人に期待しないので、基本的にスルーすることが多い。大事な人間でない限り、指摘もしない。直接的には言わない。自分で気づかせなければ根本的に治らない。堕ちる人は勝手に堕ち続ける。
不正:「失せろ」という意志を示す。
不誠実(な人・態度):関わらない。相手にしない。ほおっておく。
理不尽:まともに応じないか、「何故」を詰めるかの二択。
身勝手:こちらも身勝手をお返しして、相手が何をしているのか、相手自身にわからせる。理解しないようであれば見捨てる。
行動しない文句野郎:「そんなに言うなら自分でやってみろ。いちいち人に言って勝手に他人の人生に不快感を塗り広げるな」
無理解だと思われる:「解るけど共感できないんだよ」「いいえ。アナタにはわからないのですね。私は理解した上で共感できないのです。アナタの方が無理解なのでは?」
もう既に理解していることを繰り返し説明されると、その会話をスキップしたくなる。
強要・指示:「は?嫌です^^」「アクセスブロック。権限を確認してください」
ENTJは笑っている時が一番怖いと自分でも思う。
怒っていると思われること:これが自分でも面白いのだけど、怒ってるように見えているとき、大抵怒っていない。怒ってないように見える時、怒っている可能性がある。
これはENTJへの偏見でも時々見かけるが、怒っていると言われたことに怒るという構図はありえる。「怒ってる?」と聞けばENTJの怒りを引き出せる。まあその手を読んでいるENTJには通用しないと思うが。
こうは書いたが、現実に私がこういったものに遭遇した時、よっぽどのことがない限り、優しい人間としてふるまう。優しさや親切は時に武器になる。度が過ぎており、身近な他者に被害が及ぶ(周り廻って自分にも被害が及ぶので)ことが懸念されたとき初めて、意識的に相手の言動を指摘する。
ENTJの本気の怒りの感情表現を引き出せる人物は、クズとしてなかなか見込みがあると思う。
そういう人には「コイツ、私を怒らせたな。面白い」「潰れるまで相手をしてやるが覚悟はできてるんだろうな?」となる可能性が高い。
正当な理由がない限り怒ることができない私にとって、怒りの矛先を向けてもいいような、対等に殴り合える(比喩)相手と出会えることは貴重な体験だと思っている。そんな相手と出会ってみたいものだ。
怒っている姿は滑稽
まあ本音を言えば、怒ろうと思えばいくらでも演技できる。怒れと言われれば声を荒げて怒り狂うフリをすることは、できる。ただ日常の世界でそれをやれと言われると、無理です、となる。
なぜって、怒っている姿はあまりにも滑稽だから。怒りは理由によっては、コメディとなるのだ。エンタメならやりますよ。お笑いやギャグは大好きです。怒りとは笑いの種なのだ。
しかし、怒りに任せてその矛先を他人に向ける人間にだけは、死んでも共感したくない。ただ、感情表現を抑えられない人間がいることは理解している。
幼少期の体験
私は幼少期の体験から、感情は言葉を介して、拳を介して、時に人を傷つける刃物となることを学んだ。これは私が怒れない、怒らない理由のなかで一番を占めていると思う。この為か、感情を振り回す人間を冷笑的に見てしまう理由については、色々と理由をつけることができる。だからと言って、私が感情を感じていないわけではない。
前回も書いたが、私が表現したくない、という意志を示しているにも関わらず「感情や気持ちを表現して」と言われると言動の強要に感じる。
真に共感してほしいと思うのならば、逆に共感できない理由について共感しようとしてみてほしい。そしてなぜその人が共感できないのか、感情表現を控えるのかについても、立ち止まって想像してみるといい。共感できる物事がないわけではないことを忘れないでほしい。ただ「それ」には共感できていないだけなのだ。
共感性や感受性などの「感じとること」と、それを「表現すること」とは別の事象である。感受性でいえば私は高い方だ。ただ、共感ポイントが多くの人間の基準値とはズレていることは認める。
私はこれまでの人生で共感するほうだと思っていたが、どうやらズレているらしいことが分かってきた。だから、他人から「共感される」ということがあまりなく、変わっているといわれてきたのかもしれない。私は仮に共感できないことも、できるかぎり共感するよう意識的に努めてきた。相手の立場に立って、何故そう思うのかを考えればできないことはない。共感するという行為がその場を上手く回すことをわかっていたからだ。
とはいえ、自分自身は共感してほしいと思うことはかなり少ない。共感してほしいから発信するというより、考えや自分の価値観を発信することが目的という感じだ。
あまり他者からの共感を期待していないという方が適切かもしれない。この記事を書く目的は、共感してほしいというよりは、こういった思考の人間であることに対して、怖がったりするのではなく、理解を示してほしいと思うからだ。共感してくれなくて構わない。どんな人間にもバックグラウンドがあり、それを理解し相手のことを考えられる人間と人付き合いしていきたいといつも思っている。
怒りはエネルギーの一つである
時に怒りはエネルギーにもなる。私はどちらかといえばそちらのタイプである。怒りに引きずられるというよりは、私はむしろ「怒りを餌に引き摺りまわして振り回す」タイプだと思う。おそらく怒りを感じていないわけではない。「怒りによる言動」が何も生まないことを理解しているだけだ。いや、何も生まないどころか、無駄なものを生み出していることが気に喰わない。怒りを使いこなしていきたい。
私の脳内の「怒り担当」は私という指揮官を恐れ、いつしかコントロールを奪おうとしなくなった。
Kill with kindness.
怒りの要因に遭遇した時は「優しさで征服する」のだ。
全人類、アンガーマネジメントとアサーションを活用しよう。
以上。
他に何かあればまた追記するかもしれない。では。