「世間」の島宇宙としての日本の「コミュニケーション」と「自己責任論」
本noteの論旨要約と参考文献は下のnoteに書いてあります。
上記のnoteで言ったように、まずは欧米型「社会」と日本の「世間」を比較。日本の「世間」において「コミュニケーション」とは、「自己責任論」とは何かを改めて定義したい。
1.欧米「社会」と民主主義
こちらは本題ではないので、本章はなんとなく分かっている人は飛ばしても多分大丈夫です。私の理解の程度や価値判断を確認したい、という人は読んでください。
まず大雑把に言うと、西欧の「社会」は、キリスト教保守を中心として始まった。そして改革派、キリスト教リベラル、無神論リベラルなど、時代によって全く違う様々な対立派閥を生み出しながら、全てのコンテクストを引き摺り、連合や別れを繰り返して保守vsリベラルという最大の対立軸の綱引きによって成立している。
とくにアメリカはその中でも異常とも言えるレベルではっきりとしていて、構造が分かりやすい。それは共和党vs民主党であり、日夜喧伝合戦を繰り広げている。ネガキャンCMからネットのフェイクニュースまで何でもあり。まさに「伝える力」戦争である。
重要なのは、彼らのアイディンティティや価値観の自認、そして採用する規範は、有権者も含めてわりと細かく、明確で固定されているということだ。例えばアメリカ人は民主・共和支持を変えることは有るが、キリスト教保守の人が急にキリスト教リベラルになるなどまずない。階層、民族、性自認などもそうだ。一応、成人ぐらいまでに自由に選び、その後も何度でも変えていい、というのが建前だが。ともかく、あくまで、自らの属する最終的な「性質」「規範」が明確にあり、それらの間の利益争いで二つの政党を選ぶのが「民主主義」だ。
まあ要するに、「多数派」による弾圧は不可避だ。トランプ政権が勝利したのもそうだが、政策に関する事実や議論の内容など実は関係ない。最終的に勝敗を決めるのは、どっちに属したほうが「得」に見えるかだ。その結果過半数を取れさえすれば、基本的には何でもやりたい放題である。とはいえ、過半数は守る必要があるので、核ミサイル連射とかの滅茶苦茶は流石にできない。
「事実」や「科学」そして「議論」には、実は全国民は全く納得していない。リベラル勢力が勝っている時期には「事実」や「科学」そして「議論」が好きな勢力が優勢というだけの話だ。ゆえにトランプ政権の出現は偶然ではなく、仮にその横暴で共和党が大敗を喫しても、民主党政権でまた誰かの不満が蓄積すれば、何度でも出現するだろう。アメリカ以外ではここまで顕著ではないものの、西欧型民主主義国家で、似た構造により保守派がバックラッシュとして台頭するケースは近年特に多いため、全くの的外れではないだろう。
ここまでは一応、事実の確認だ。そこまで間違ってはいないと思う。ただ、以下は私自身の価値判断なので注意。
正直、私はこんなものを「民主主義」などと呼びたくないし、私のnoteで求めている民主主義とは明らかに異なる。こんなの単なる寡頭制の頭目争いだろう。というかこれでいいのなら、腐敗した自民党長期政権だって、なんでもいいではないか。
リベラルは機会平等にこそ熱心だが、進歩主義、理性主義に従わない者は切り捨てる。自己責任を免除されるのは正しい犠牲者のみであって、自ら規範に従わないこと、つまり悪や怠惰を「選び取った」ものがその結果として報いを受けるのは、むしろ平等だとみなす。規範は科学と理性、つまりアカデミアによって決まり、それを素朴に疑うのは反知性主義として却下される。アカデミアに入門するコストが人によって大きく違うことは無視だ。
例え、幼少期に酷い家庭不和だったとか、偏った教育を受けたとか、いじめの鬱屈、フェイクニュースなどによる事実上の洗脳、マイノリティの防衛反応による思想同化、そういった、本人にはどうしようもないことが原因で「悪」を選び取っても、基本は赦免しない。機会平等は結果責任を取らせるための口実となる。
保守は社会に献身する経済弱者や、疎外されるマイノリティの苦難を、体制維持のための必要な犠牲として看過する。その報奨、または賠償を与えたり、讃えたりすることはある。かつての罪を謝罪することもある。代表を政権に受け入れることもありうる。だがあくまで底辺は底辺、マイノリティはマイノリティであり、その構造は自明だ。階層移動は社会を壊さない程度には、勝手にやっていいが、単に入れ替わるだけだ。賛同する経済弱者や、マイノリティ自身もそう思わされる。
賠償額が十分ならまだいいが、体制維持のための緊縮的政策と結びつくとそれは酷い有様になる。常に体制維持が優先であるため、経済政策が失敗したらどこまでも弱者切り捨ては加速する。また、体制へ歯向かう事自体が「悪」なので、失敗へのブレーキをかけるのは容易ではない。そもそも自身の「失敗」の存在をそうは認めない。科学や歴史的事実についてもそうなので、破滅的大失敗に突き進む可能性は常にある。
この二つが交互に入れ替わるのは、何か素晴らしいのだろうか?結局、定期的に弱者が踏まれる理由が変化する、という程度の話だ。多数派側の弱者だって別にそこまで助けてもらえるわけではない。本当は強いが、押さえつけられていた人々が解放され、多数派の弱者も一緒になって、別の弱者を叩き始めるだけである。さらに、弱者は叩かれる理由が政局で変化するため、「正しさ」自体を疑い始め、全てを諦めるものも出てくる。信頼の崩壊、こうなったら多数決を介した内戦ではないか。
原因は保守やリベラルそれ自体の性質にはない。というか、実は保守とリベラル、あるいは内包される価値観も、それ自体というのは単体では存在していない。それは対立から生み出され、つねに対立によって束縛されている。自己矛盾を認めてしまうとそれが「失点」になってしまうので、全ての勢力は自身の失敗や無慈悲さはなるべく隠蔽し、誰かに擦り付け、喧伝するしかない。自己批判は支持者への言い訳としてこっそり行う。「改革」は別の対立勢力を創り出すことにほかならない。ここで行き止まりだ。
2. 日本の「世間」
さて、ようやく「世間」の話に入れる。一応私は、上記の欧米的完全対立コンテクストとの違いとして、「中立派」的なものを考えれば良いのでは、というややピントのズレた発想をしていた。
だがやはり、日本の構造はもうすこし複雑だった。いわば物言わぬ謎の最大勢力として、「世間」が存在する。「世間」は中立派ではない。では「世間」とは何か。あるいは何でないかだ。
まず、「世間」は保守派ではない。というか日本には、欧米にいるような強力な「保守派」がいない。もう少し厳密に言うと、欧米で言う「保守派」のような、宗教などで強力で統一され、思想化された、規範を共有するグループがない。
ただ、うっすらとした最低限の規範意識だけを共有する、多くの人々がいるだけだ。彼らは公論への発言すらほとんどしない。日本で「保守」を名乗っている人は、単に「保守」という名前の弱小政治勢力にすぎない。
キリスト教保守など、聖典宗教の保守には共有された強固な規範がある。解釈の変更の余地こそあるものの、反科学、反知性主義も本質的にはその一部だ。無論それだけではなく、隣人愛や寛容の思想、共同体意識なども含むため、単なる迷信で片付けられるものではない。社会の根底をなす、容易には捨てられない規範である。それに真っ向から逆らいたい者がリベラルとして別の規範、つまり進歩主義、理性主義、懐疑主義といった別の規範群を擬似的な「聖典」としてアカデミアなどを中心に編纂し、互いに対立している。
日本は、実は全く異なる。阿部謹也が定義し、後の学者が批判検討した「世間」には最低限の規範だけがあるようだ。なぜこれが最低限の規範と言えるか、などの論拠は参考文献やそのさらに元論文などを参照して頂きたい。
それを、私自身がSNS的文脈を入れ込んで解釈してみる。この時点でだいぶオリジナルから乖離していくので、注意。
1. 返報性の法則
2.「 肩書」による身分意識
3. 時間意識の共有への選好
要するにこれだけだ。順次解説していく。
1. 返報性の法則
これはとてもわかり易い。私が誰かに物をあげたとする。そのときお返しがある。すると、正しくコミュニケーションが成立したとみなす。この繰り返しで「信用」が生まれる。たとえ何か別件で利害や意見が対立していても、これが続けば一応コミュニケーションの成立する仲間だ。物だけではない。挨拶や礼儀などのプロトコル、ツイッターなら相互フォローやら、お互いのnoteを読んで褒め合うとか、絵かきのグループなら作品やらをリツイートし合うとか、ともかく、お返しをするのが「規範的」だとみなす。
これは逆もありうる。突然相手が「無礼」な行動、FF外から突然失礼して暴言を吐く、などをしたら、その相手に礼儀を払う必要は一気に減少する。「誠意」ある謝罪があれば別だが、それまではコミュニケーションの通じない相手として無視してよくなる。価値観や利益は必ずしも関係ない。同一派閥でも、相手が格上などでない限り無視して良い。これも「規範」である。
もっと繊細に、会話の時一方が他方に「まくし立て」てしまうとか、片方は穏健で、片方は攻撃的であったら、バランスを崩したほうが「信用」を毀損する。対面時だけの話ではない。静けさの中で騒ぎ立てる、和やかなムードで怒る、などもバランスを崩すため「無礼」だ。ここから「世間」論から離れた「空気」論を展開するのが鴻上尚史氏が著作で主張する理論だが、まあそこまで広げなくても、理屈を覚えるだけならこの程度で十分だろう。
礼儀には礼儀、利益には利益、無礼には無礼。全く合理的で、かつ原初的なコミュニケーション・プロトコルと言えよう。地球上のほぼ全ての民族が何らかの形で保持しているのではないか。
2. 「肩書」による身分意識
これは、俗流日本論などにもよく勝手に「引用」されている内容なので、知っている人は知っている、程度の視点だろう。要するに、人を「肩書」で認識し、個人の信用度の起点をそこに取る。
「肩書」は仕事、年齢、性別、経歴といったものの総称だ。人と人が「どちらが上」なのかもこの肩書で決定される。私のような肩書不詳の人物は最低の信用度。逆に学識者などはその発言内容以前に、信用度が高い。「派遣」「フリーター」「非正規」「無職」などが差別的に用いられるのがこの文脈であることはよく指摘されている事実だ。
これは要するに、発話内容を聞く前に、誰の発話にイニシアチブがあるかを決める指針だ。ただし、これは「絶対的」なものではない。あくまで、「場」にいる人々が適宜「肩書」を判断する。経済学者と疫学者、政治家、タレントがいたとして、あなたは最初に誰の話を聞く?あなたの信念と、いまの議題によるだろう。「肩書」に引きずられまいと、特定の「肩書」の発言には特に警戒心を高める人もいる。あるいは、肩書不詳の発言は一切無視する人とか。ある界隈の有名人の発言力は、その内と外で大きく違うだろう。これを見誤ると深刻なディス・コミュニケーションが発生する、というのは何処かで見た話だ。
3.仲間との時間感覚の共有への選好
これは非常に興味深く、オリジナリティのある視点だ。要するに、同じ時間を過ごしている人が「ウチ」であり、逆にその確認をし続けるのが礼儀となる。オリジナルでは年賀状や時候の挨拶だったが、現在のSNS社会においては更に顕著だ。メールやLINEで返答をすぐしないと無礼だという発想もこのあたりから来ているのかもしれない。
時事ネタの共有などもこれに当たる。とはいえ、内容を問題にするのではない。あくまで、時間というコンテクストの共有だけが最大の目的で、積極的な意見や論評はむしろ対立を生みかねない。
ちなみにこれはどんどん他者との差別化のために過激化する傾向がある。オンライン・サロンに四六時中接続するとか、Vtuberの一部ファンがずーっと放送に張り付いているとか。それが「真の仲間」になる方法だからだ。「肩書」の強い人を中心に時間を共有すれば、相対的に発言力を高められる。
以上の3つをもとにゆるやかに「ウチ」「ソト」を区別し、その中での発言力の階級も大まかに定まる。「ウチ」の独自規範は発言力の強い人たちによって規定され、破棄されたりする。そして規範に従わないものは「はずし」、反省の態度などが受け入れられれば「ゆるす」という、3つの基本原理と、2つの力だけで維持・運用される。抽象化すれば中々シンプルだ。
以上が、「世間」に共有されている規範の原理だ。
そして、今可能な「コミュニケーション」とはこの3大原理を最大利用して「世間」を説得する、ただそれだけだ。「コミュ力」はそのための武器だ。
じつはインターネットはすべての人の伝達力の超強化をしただけで、構造は何も変えていない。
これらの小さな「ウチ」で構成された島々が、またそれぞれプレーヤーとなり、外側の規範と序列によって再配置され、階層化、序列される。島自体にも擬似的な「肩書」がついたりして、またイニシアチブが争われる。この島宇宙が「世間」である。そして究極的には「世間」全体にはソトが無い。なぜなら、「世間」が嫌だと思っている人間も、普通に日本で生活していこうと思ったら、これらの規範、それらによるプロトコルに従わないと、話を聞いてもらえないからだ。外国人も「外国人島」の住民だ。
これらの「世間」の暗黙の圧力に嫌気が差し、何らかの共通項を持つ人々だけのシェアハウス、独自文化圏、さらには経済圏などを作ろうとする動きもある。カルト経済圏的なものから、もっと牧歌的なもの、ベンチャーのような野心的なものもある。しかし結局それをつくるための共通プロトコルもこれらの基本規範しか無いので、よほど「ウチ」の設計思想が洗練、徹底され、うまくまわらない限り、同じような「世間」「ウチ」が再生産されるだけだ。それはただ小さい「世間」なので、崩壊する。
ちなみに、お気づきになられた方がおられるかもしれないが、私ヒラヤマのインターネット上での振る舞いは、これらの規範にたまに反し、たまに従い、全体的にかなり「信用」していいんだか、悪いんだか、危ない動きになっている。ある程度までは「世間学」を知る前からできていたようだが、盲点の3.には意識が欠けていた。
まあ一応、疑いながらも文章を読んでもらう、という目的をやるために、なんとなーく工夫した結果だと思う。このバランスは難しい。この件に関する自己批判は後の課題だ。
ともあれ、これらの島宇宙が我々の住む日本の「世間」だ。
3. 日本の「世間」における「自己責任論」
この世界観において、私が破壊したい「自己責任論」とは何か。新自由主義的な素朴「自己責任論」ではない。
ある個人、または島は、「客観的に明らか」な規範からみて「はずす」べきなので「ウチ」から排除して良い。
という、究極の排除ロジックのことである。このことをここまでの構造から説明する。
ここからは、佐藤直樹氏の著書にある、近年の刑法上の重大犯に対し「厳罰化」を望む声に対する解説を勝手に要約、その後抽象化し、私自身の解釈とする。
まず近年、刑法上の重大犯を、あらゆる観点から「免責するな、厳罰に処すべし」という声が高まっている。それは精神障害者や少年といった、法学の建付け上は免責すべきはずであった人にも、そうである。また、法の裁きに従っても「ゆるされ」ない人が増えている。何故か。
これは、「世間」が崩壊したとか、対立前提の欧米型「社会」になってしまい、「ゆるし」が機能しなくなった、とかではない。単に、島ごと、個人ごとの争いと対立が激化した結果、信頼が崩壊し、「はずし」への欲求がどんどん高まって、「世間」の住民である人々、とくに裁量権のある検察やら政治家やらはそれに従わざるを得ないので、バランスが崩壊している。ただそれだけの現象である。
新自由主義的な意味での素朴「自己責任論」は、単に新自由主義者が叫んでいるだけで、大半の人は別に信じてもいない。欧米的価値観対立「社会」の構造も浸透しているわけではない。ただそれらによって体感治安が悪化したのが原因だ。それだけだ。
新自由主義的な意味での「自己責任論」は、全ての市民に対する強力な攻撃である。強い個人になれ、戦え、勝ち取れ、それだけを要求する。それに従いたくはなくても、皆が戦っているため戦わざるを得ない。なにかの規範で殴られたら「世間」の基本規範に従い殴り返す。これを延々繰り返して、島々は相争う。
これらは中々決着しないので、民主主義や法の支配という、強い「規範」つまり「客観的」なものを、使いたい、白黒つけて安心したい、戦いを終わらせたい、という欲求が高まる。そしてそう騒ぎ出す。
この「世間」の動きを読み、民主主義や法の支配の実装に関して独自の裁量権を持つ人々、つまりは政治家と検察、は厳罰化へと動き出す。逆に法の番人である裁判官とか、真面目な法学者は抵抗を試みるが、裁量権はないのであまり意味はない。ポピュリズム的な動きに引きずられ、厳罰化は加速する。こうして、「客観的」に誰かを「はずす」ちからだけが強まる。
なるほど、非常に単純かつ、実は細かい理屈もなにもない。
素朴「自己責任論」、検察や政治家、民主主義や法の支配は、実は今何でも良い。つまり抽象化すると以下だ。
Aという原因で島々の間の対立が激化。なるべく「客観的」な規範Bで白黒つけたいという人々の欲求が高まる。Bに関して発言権、変更能力を持つ人は、「世間」の空気を読み、Bを「厳罰化」させるために動き出す。この結果、Bは「客観的」に誰かを「はずす」ことができるようになる。
Aにはインターネット、SNSの普及も入るのだろう。
こうしてめでたく、「客観的」な規範は、特定のだれかを、集団を、全力で「はずす」ための最終兵器となっていく。
ゆえに「はずされ」そうになった人々、さらに友人たちが「はずされる」のが嫌な人々は、恐怖により全力で抵抗をする。パターンはそれほどない。
1.「客観的」規範に違反していることを頑として認めない。
2.「客観的」規範などまやかしで、誰かが勝手に言っているだけだと騒ぐか、その規範の帰結は別の規範に違反する、危険だ、などと騒ぐ。
3.「客観的」規範の詳細を決める権利が誰にあるかなど、まだ実は定まっていない、ゆえに今こそ多数決だ、と発議する。
4.もっといい「客観的」規範がある、そっちを使おう、別の島を「はずそう」と「世間」に向かって扇動する。
などなど。どれも様々な論点で、私が実際に見てきた。そして実は、私自身のnoteも究極的にはこの「騒ぎ」の一つに過ぎない。これは、暴れている我々が「悪」なのではない。ただ恐怖で暴れているだけだ。
使えるのは「世間」の共通ルール1.2.3.だけだ。これに従って全力で「世間」に向けて「コミュニケーション能力」を発揮する、それだけがやれることである。論理など無い。相互理解など無い。
以上で構造の説明は終わった。まとめると
「客観的に明らか」な規範からみて「はずす」べきなので「ウチ」から排除して良い。というロジックが「自己責任論」
その帰結、全ての客観性に関する合意可能性が消え失せ、「世間」の共通原理だけで相争い、特に伝達力の強いメディアを全力活用する行為が 「コミュニケーション」=「世間全てのコミュニケーション障害」
である。結構単純ではないか?
もはや「はずす」ちからを直接弱めるのは構造的に無理そうだ。つまり、「ゆるす」ちからを何らかのシステムで超強化する必要がある。逆に言えば、それさえできれば可能性はある。
要するに、アイディアは単純だ。「新しい島」を作る。追い出されてもそこにいくと、だれでも「肩書」を含めていろいろなものがもらえる。その島自体も信用と、他の島との交渉力がある。戻れる可能性もある。ゆえに、「客観的に明らか」な規範を認めざるを得なくて「はずされ」ても、諦めてそこに行く選択肢が生まれる。
これはなにか。何であるべきか。そのためには何が必要か。私の見解は次回述べるが、みなさん自身で考えて頂きたい。
ひとまず、「世間」の島宇宙としての日本の「自己責任論」の構造の説明自体はここまでで終わる。
追記5/29
で、どうすんの?という話は、以下。
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